納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
ルーキー達にとっては初めてのプロの世界。真新しいユニフォームに身を包みベテラン選手に混じりちょっぴり恥じらいながら汗を流すキャンプ。そんなルーキーの中でも俄かに評価を高めてきた実力派ルーキー4人を紹介しよう。水野(巨人)や藤王(中日)だけがルーキーではないのだ。
中西清起(阪神)…ファームでのんびりなんかしてられん! トラ番記者も首脳陣もビックリした度胸の良さ
話は少し古くなるが中西が甲子園球場の自主トレに現れた時の事、10人程のカメラマンに取り囲まれた中西が準備体操の最中に「ブッ」と豪快な屁をかました。本人曰く「自然現象ですから」とニッコリ笑った、いわゆる「ガス爆発事件」である。その瞬間すかさず「僕に近づき過ぎると危険ですよ」とジョークで周りを笑わせ「奴はいい心臓をしている。並みの新人じゃない」と報道陣から高評価を得てしまった。事の顛末を聞かされた安藤監督も「頼もしい奴だ」と目を細めた。
第2陣組として遅れてマウイ入りし、初めてブルペンに立った日に10球ほど投げると捕手を務めていた加納コーチに向かって「座って下さい」といきなり要求して視察していた安藤監督や若生投手コーチを慌てさせた。事前のスケジュールでは中西や同じく新人の池田は肩慣らし程度の投球とされていた。それをいきなり捕手を座らせる要求は故障を恐れる首脳陣によりストップがかかったのは言うまでもない。「第2陣組はマウイに来て間がないだけにスロー調整させようと思ったんだが中西は第1陣組と同じメニューにしてくれ、と言ってきた。あの強心臓は大したもんだ」と若生コーチも恐れ入った様子。
ただ懸念材料もある。中西は社会人時代から軸足がマウンドプレート上でズレる欠点を指摘されてきた。そのズレが左肩の開きに繋がり上体がそっくり返り、球数が増えると球威が落ちると言われている。しかし阪神OBでもある村山実氏は「軸足のズレは大した問題じゃない。中西はその欠点を補うに余りある良い投球フォームをしている。右腕を真下に振り下ろせる技術は一流投手の必須条件だが中西はそれが出来ている」と不安視する声を一掃する。中西が1年目に何勝するか、いつ頃一軍デビューするのかは未だ見当はつかない。しかし他のルーキー達とは一味違ったキャンプを送っているのは紛れもない事実だ。
仁村 徹(中日)…中日BIG2(藤王・三浦)とは違う。プロの厳しさは兄(巨人・仁村 薫)から教え込まれてます
「藤王く~ん」「三浦く~ん」 中日の串間キャンプにこだまする若い女性ファンの声・声・声。何も今に始まった事ではなく自主トレを行なっていたナゴヤ球場からそうだった。「いやぁ、僕なんか " ドラフト外 " ですよ」とドラフト2位で東洋大学から入団した仁村は苦笑いする。ファンだけではなく系列の中日スポーツも藤王らの入団直後から一面で数多く2人を扱ってきた。藤王が計10回、三浦も負けじと同じく10回、片や仁村は一面はおろか記事すら小さい扱いだった。
「でも、ある意味では僕は幸せ者だと思っている。彼らは高校生なのに大変だなぁとつくづく同情しているんです」それは実兄である仁村薫(巨人)に言われた言葉だという。「兄は家族や周囲に期待されて入団しました。その期待に応えようと頑張り過ぎて1年目に早々と故障してしまいました。『お前が今、騒がれても何の得にもならない。周囲に踊らされず足元を見つめて練習しろ』と言われました」と話す。ファンの目がBIG2に向けられている今こそ力を蓄える絶好の機会であると。そのあたりは高校生と比べて大人である。
他の新人より一足早く1月4日に合宿所入りし1月24日の自主トレ最終日まで皆勤賞、「プロの練習は兄から聞かされていましたが予想以上にキツかったです」と謙遜するが身体はしっかり出来上がっている。首脳陣が仁村に注目し出したのはプロの練習に遅れる事なくこなし、軽めの投球練習を始めた1月の中旬頃。「フォームがしっかりしている(中山投手コーチ)」「腕の振りと制球力は一軍クラス。下手投げは最近では珍しく戦力になる可能性は高い(水谷投手コーチ)」と首脳陣の評価も高まった。人気は相変わらず高校生の2人に集まっているが首脳陣へのアピール度は仁村の方が上。「まだまだです。本当の厳しさはこれからと覚悟しています」とあくまでも控え目な姿勢が逆に頼もしい。
小野和義(近鉄)…鈴木啓もゾッコンの大物ルーキーは首脳陣の評価も即戦力。その負けじ魂で一軍入りは濃厚
日向キャンプでいつも小野の傍には鈴木啓がいる。準備体操やキャッチボールの相手をする。大ベテランと新人は常に行動を共にしている。「目をつぶって投げても大体思った所に投げる事が出来る。一流投手は微妙な指先の感覚を持っているが小野君にはそれがある。大したもんや」と現役最多勝投手は大物新人の非凡さを見抜いていた。キャンプイン前日、宮崎空港から宿舎への移動の際にわざわざ小野が乗車していた若手組のバスに乗り込み小野の隣に座りプロとしての心構えを説いた。以後、食事の時も同じテーブルを共にする事となる。
鈴木がこれ程までに新人を可愛いがった例は過去にはなかった。2人の関係は1月10日の自主トレ初日に始まった。「創価高校から来た小野です。宜しくお願いします」 鈴木がトイレで用を足している時、背後で大きな声がした。驚いた鈴木だったが「ワシを見つけてわざわざ挨拶をしに来た。声も大きくハキハキして気持ちのいい青年だと思った。いい目つきをしてるしプロで成功するタイプやね」と大投手がたちまち惚れ込んだ。思えば2人には共通点も多い。左腕である事、高校時代は地元ではナンバーワン投手と称されるも甲子園大会出場は共に1回のみ。そして1回戦で敗退しているのも同じ。
鈴木は昭和40年のセンバツ大会で徳島商相手に1対3、小野は昨夏の大会で東山高に0対2で涙を飲んだ。「高校野球で出来なかった事をプロの世界でやるんや。それがワシの原動力になっとる。入団会見で『記録破りが夢』と言い放った小野は頼もしい」と鈴木は言う。一方の小野は「偉大な投手に声をかけて貰って光栄ですが正直戸惑っています」と緊張の日々を送っている。宿舎でもグラウンドでも気が張っていて実はキャンプイン早々に左肩痛を発症してしまった。幸い怪我の程度は軽く済んだが「プロの厳しさを味わっています」と。ブルペンで小野が投げ始めると岡本監督がスーっと近づいて来る。「ハッキリ言って小山(3年目)、加藤哲(2年目)より上(仰木ヘッドコーチ)」と首脳陣の評価は現時点で即戦力である。
板倉賢司(大洋)…80スイングのうち10本がスタンド入り。天性のバッティングは父親・克己さんの情熱の賜物
大洋二軍のキャンプ地・焼津市営球場にどよめきが起こった。キャンプ初日のフリーバッティング練習での事、紅顔の美少年が放った打球がライナーで両翼91㍍のスタンドへ次々と飛び込んだ。「高校生ルーキーでは初めて見る打球」と江尻二軍打撃コーチは驚きの声を上げた。計80スイングで10本の柵越え。高校生新人がこれ程の長打力を見せたのは大洋では田代以来でその評判は一軍首脳陣にも直ぐに届いた。江尻コーチによる分析では ➊バットのヘッドスピードが速い ❷身体がガッシリしていて強い ❸打撃フォームに関しては非の打ち所が無い…など絶賛。
板倉を作り上げたのは父親・克己さんだと言って過言ではない。東京・江東区生まれなのに調布リトルに入れる為に調布市に引越した。克己さんは建築業の傍ら調布リトルのコーチを務めるほど息子に熱を入れた。全体練習が終わった後も板倉を近所のバッティングセンターに連れて行き打ち込みをさせた。そうした親子の努力が甲子園大会での3本塁打を生んだと言える。しかし素材は超高校級だがそう簡単に一軍デビューが出来るかと言われると疑問符がつく。「確かに打撃は特Aランクだが守備や走塁はCランク」と江尻コーチは言う。ただし、それは入団前から想定内の事で獲得担当だった中塚スカウトは「まだ高校生ですよ。守備は鍛えれば幾らでも上手くなれます。でもあの打撃は天性のモノ」と。
中塚スカウトは1年間かけて説得してドラフト前から板倉の気持ちを大洋へ傾けさせた。実力もだが大洋には若い女性ファンが注目する選手が少なかっただけに板倉の人気も魅力だった。その目論見は当たったようで早くも合宿所に届くファンレターは板倉が群を抜いている。しかし板倉本人に浮かれた所はなく練習の虫は夜も宿舎の焼津ホテルの大広間で300本の素振りを欠かさない。「1年目から一軍へ行けるとは思ってませんが必ず2年目には昇格したい。希望は三塁手です。藤王も三塁を守るみたいなので負けたくないです、いえ負けません」と同い年のライバルに対抗意識を燃やしている。大洋では久々の大砲候補に早速、関根監督も視察に訪れる予定だ。
小松辰雄(中日):期待され背番号も変わり子供も生まれた。何をすべきかも分かり態度も顔つきも変わった
今年の串間キャンプを訪れた人はきっと驚くだろう。他球団と比べて練習量が少なかった中日が山内新監督就任で変わった。山内イズムが早くも浸透した感じだが最も影響を受けているのが小松だ。良く言えば天衣無縫、悪く言えば気分屋でちゃらんぽらんな性格の小松がプロ7年目を迎えて文字通りチームの先頭に立っている。「小松?あぁ、奴は自主トレの時から変わったね。先ず口数が減った。以前は練習中もダラダラと喋り続けて集中していなかった。でも今年は黙々と練習していてこっちの調子がおかしくなっちゃうよ」とベテランの藤沢は話す。小松本人は「今年変わらなかったら僕は一生エースになれない感じがするんです」と真顔だ。
昭和53年にプロ入りし1年目にして時速150㌔の快速球でデビューして以来、将来のエースとの呼び声が高かった。事実、一昨年のリーグ優勝がかかった130試合目の大洋戦に登板し見事完封勝利を収めて名実ともにエースの称号を得た筈だった。しかし昨年は防御率こそ3点台前半と合格点だったが7勝14敗と大きく負け越し。本人が言う通り今年も満足な成績を残せなかったら二度とエースになれないかもしれない。小松を取り巻く環境が変わったのも転機となるだろう。近藤監督が辞め対話上手の山内監督が就任した。昨秋のキャンプ初日に山内監督は小松を呼び話し合った。「何を話したかって?要するにエースはお前だって事。先発一本で行くと話したよ(山内監督)」と意思疎通を図った。更に選手の顔とも言える背番号が変わった。中日ではエースを表す「20番」だ。古くは杉下茂氏、権藤博氏、記憶に新しい星野仙一氏など偉大な投手が付けていた番号だ。
奮起させる事が私生活でもある。長女・美月ちゃんの誕生だ。「女房と2人だけの時はそうでもなかったんですが子供が生まれれてみると改めて『しっかりしなきゃ』と強く思うようになりました」と小松の胸に嘗てない責任感が芽生えたようだ。過去6年は毎年必ず一度は故障を起こしてチームを離脱している。「先ずシーズンを通して働けるスタミナを付ける。秋季キャンプ、自主トレも全てそれの為にやってきた。このキャンプがシーズンに向けての総仕上げになる筈です。技術的には追い込んでからの制球力でしょうね。それと集中力の持続」と目標は定まっている。変身願望に燃える小松の今季の目標は200イニング、防御率2点台、そして20勝だ。「恐らく自分の野球人生で転機となる年になると思う」・・永遠のエース候補が本当に変わるかもしれない、周囲はそう思い始めている。
工藤幹夫(日ハム):慢心が焦りに変わり屈辱を味わった昨季。泥だらけのユニフォームが変貌を物語る
「去年と比べたら体がよく動きますね。オフからずっとやっていたし、今年はいけそうな気がします」 と工藤に明るい表情が戻りつつある。昭和57年に20勝をマークし一躍エースの座に就いた工藤だったが一昨年のキャンプは肩痛を発症するなど大失敗だった。「プロの世界はそんなに甘くないよ」と現監督で当時の投手コーチだった植村監督は工藤に苦言を呈したが一度緩んだタガはなかなか元に戻らなかった。練習が終わると一目散にパチンコ屋に直行。肩の調子が今一つで外人対策に落ちる球を覚えたが肝心の直球の威力が落ちたせいで効果は上がらなかった。キャンプの不出来はそのままシーズンの成績に表れて8勝8敗と沈み、シーズン途中には二軍落ちの屈辱を味わった。
「昨年の失敗で本人も分かったと思う。キャンプの過ごし方が悪いとシーズンに入ってからアレコレやっても這い上がれないってね」と話す植村監督の視線の先には昨年とは比べものにならない動きを見せる工藤がいた。キャンプ初日には早速に田中幸と共に居残り特守に挑んだ。捕手のプロテクターとレガースを着用し利き腕の右手はボクシンググローブで守り僅か10㍍の近距離からのノックを受けた。鈴木コーチに「おい若造、減らず口だけじゃボールは取れんゾ」と右へ左へと揺さぶられるが「うるせい老いぼれ、もう疲れたか?ボールの勢いが無くなったゾ」とやり返し最後までやり通した。キャンプ早々に工藤を真っ先に締め上げたのも「お前が投手陣の柱なんだ(植村監督)」という首脳陣の気持ちの現れである。
事実、投手陣を見渡してもやはり工藤がローテーションの中心にならなければ1年間を乗り切る事は難しい。登板する度に打ち込まれ勝てなかった昨季は投手陣が火の車となり宿敵・西武に大差をつけられた。「去年の事は言われなくても自分自身が一番情けなく思ってます。何をすればいいのか、置かれている立場は分かっています。ただ余り意識しないようにしてますけどね」と静かに燃えている。ただ調整のペースは早くない。今迄は1月の自主トレの頃から変化球を投げていたが今年は意識的にペースを落としている。まだ六分の力で投げていて、専ら右手の位置を高く保つ事と制球力に主眼を置いて投げている。
今年のキャンプでは大好きなお酒もやめた。「僕は飲んでいる方が本当は調子が良いんですけどね」と笑うがエース復活へのケジメだろう。今年はキャンプに美智代夫人を呼ばないつもりでいる。「女房は家を守っていれば良い」と。キャンプでは16人の投手が一軍枠10人を巡って激しい死闘を繰り広げている。男の職場、云わば戦場に来てくれるなという事だ。工藤といえども横一線で二軍落ちもあり得ると植村監督は公言している。だからこそ「今は10人に選ばれる事だけを考えている。何勝するかなんて考えるのは一軍に残ってからですよ」と強い口調で話す。一日の練習が終わるとユニフォームは泥だらけになる。「もう負けるのは嫌です。今年は皆で力を合わせて優勝したい」・・工藤の闘いは今、たけなわである。
チームの柱となるべき投手たち。しかし定岡(巨人)7勝7敗、北別府(広島)12勝13敗、小松(中日)7勝14敗、工藤(日ハム)8勝8敗…なんとも情けない成績である。思いかけない転落、或いは予期された数字だったのか?どちらにせよ彼らは低迷の原因を追及し何をすべきなのかを考えた筈である。今年は彼らにとって野球人生の一つの節目となるに違いない。
定岡正二(巨人):去年は自分本来を見失って失敗。今年は「原点」に戻ってスタートした。やっぱり投手は制球力
常夏の島・グアムで早々に真っ黒に日焼けした定岡はランニングでも筋トレでも常に先頭を切っている。「動きが軽いでしょ。何たって今年はやらなくちゃ、去年みたいな思いはしたくないですから」 出ると負け・・昨季はマウンドに上る度に打ち込まれた。今年の正月元旦、いつもの年より始動は早かった。故郷の鹿児島で兄・智秋(南海)、弟・徹久(広島)と共に走り出し、1月中旬には静岡・日本平で鹿取投手と一緒に山籠もりを敢行した。その早い出足が今のグアムキャンプでの疾走に繋がっている。「ウン、いいんじゃないの。今年の定岡は無我夢中と言うか良い意味で追い込まれているね」と王監督の目にも危機感が映っている。昨年の日本シリーズ終了後の秋季キャンプでの事、引退し専任したばかりの堀内投手コーチと一晩じっくり話し合い一つの結論に達した。それは「原点に戻る」だった。
原点とは意識改革である。一昨年まで二桁勝利を続けていた当時の定岡の身上は制球力だった。江川のような豪速球や西本のようなカミソリシュートは無い。有るのは低目を丁寧に突く制球力、それが唯一にして最大の武器だった。しかし勝つだけで満足していた時期を過ぎると投手としての本能がムクムクと頭をもたげてくる。江川のように空振りを取りたい。西本のように打者のバットをへし折ってやりたいと。昨年の宮崎キャンプで定岡は間違った方向転換を試みた。当時の定岡はそれを「覚醒」だと思っていた。「ねぇねぇ、僕の球、速くなったと思いません?僕も一皮剥けたかなぁ」と報道陣に問いかけた。変化球投手から本格派投手への変身を図っていたのだ。投手なら誰だって変化球でかわすよりも直球一本で押しまくる方が気持ち良いに決まっている。顔に似合わず負けん気が強い定岡なら尚更である。拙い事にこの意識改革で一時的に好成績を残してしまった。開幕からポンポンと勝ち5月終了時点で7勝(1敗)、ハーラーダービーの首位を走り自身初の20勝も狙える程だった。
それがある日を境にパタッと勝てなくなる。きっかけは5月下旬に右膝を痛めた事。当初は軽傷と見られていたが痛みが引かず結局二軍落ち。痛みが消え一軍に復帰しても強気の投球パターンに固執したが勝てず結局7勝(7敗)のままシーズンを終え、西武との日本シリーズでも出番は敗戦処理登板だった。実は定岡自身も力の投球には限界を感じていた。しかしキャンプ中ならまだしもシーズン中に投球パターンを変えるのは危険過ぎた。制球力重視と頭では分かっていても直ぐに切り替える事は出来なかった。宮崎での秋季キャンプでは若手中心の合宿練習に定岡も加わった。「エへへ、何か変な感じですね。若手連中の中に入ると僕なんかオッサンですから」と定岡本人は例によって明るく笑顔を振りまいていたが、この時から定岡の「10年目の逆襲」が始まっていた。新たな決意を胸に迎えた2月2日のグアムキャンプ第2クール初日、ブルペンでの投球が解禁された。定岡はゆっくり確かめるように投げ始めた。丁寧にそして丹念に力む事なく外角低目を狙って投げ続けた。「スピード?いやいや僕の生命線はコントロールですよ」・・・原点に立ち戻った定岡、昨年とは一味違う。
北別府 学(広島):体調万全、走り込み十分。既に身上のコントロールもバッチリで自信も回復。再び20勝を目指す
沖縄市営球場から歩いて15分の所にある宿舎『京都観光ホテル』の最上階1人部屋の505号室で北別府は毎朝さわやかに目を覚ます。しかし昨年は目覚める度に憂鬱になった。「朝起きると前の日の疲れが残っているんです。あぁ、また練習か…としんどくてね」と。思えば一昨年はセ・リーグで唯一の20勝投手となり沢村賞も受賞しバラ色の毎日を送っていた。加えてオフには結婚式も挙げて " 我が世の春 " を謳歌していた。ただ多くの表彰式に出席する事が続き身体をしっかり休める事が出来なかった。「俺はまだ若いから」と心配はしなかったが不摂生のツケはキャンプで早くも現れた。「走り込まなくちゃ、と分かっていたけど皆のペースに付いて行けない。無理をしてペースを上げると翌日に影響が残った。こりゃヤバイなと思いながらキャンプ・オープン戦を過ごした」
思えば昨年の今頃は " 連続20勝宣言 " の見出しが欲しい記者から抱負を求められても「目標は17勝です。20勝はそんな簡単に達成出来ない」と予防線を張っていたのも自らの不調を感じ取っていたからかも知れない。しかし結果はもっと悪かった。12勝13敗と負け越し完封は1試合のみ、自身の代名詞でもある制球力も落ちて無四球試合はゼロだった。「ようけい給料を貰って何をしとんのじゃ」と地元広島のファンは遠慮なく罵声を浴びせた。特にタクシーの中が堪えた。狭い車内で見ず知らずの運転手から投球術の説教までされる始末。だからと言って目的地に着くまで降りる訳もいかず、広美夫人同伴の時は北別府の代わりに夫人が責められた。新婚を不振の理由にするのは野球界の定説だからだ。「弁解のしようもない。自分の予想通り、いやそれ以下でした。何を言われても言い返せない」とまさに屈辱のシーズンだった。
どんな非難にもジッと耐えていた北別府が、どうにも我慢出来なかったのが若い津田や川口が赤ヘルのエースだと言われ始めた事。「冗談じゃない。カープのエースは北別府ですよ。たった1~2年の実績しかない投手と比較されるのは心外。彼らと僕を一緒に扱わないで下さい」と普段は温厚な北別府にしては珍しく語気を荒げた。高校から入団して2勝、5勝、10勝、17勝と順調に勝ち星を重ね8年間で94勝を挙げたプライドが北別府を黙らせていなかった。「確かに去年は川口に勝ち星で負けましたけど力関係まで逆転した訳ではない。今年は再び20勝を狙います。必ず20勝して力の差を見せつけます」と昨年とは雲泥の差がある体調の良さが元来無口な北別府を雄弁にさせている。キャンプでは新任の迫丸コーチの指導でランニング量は例年の5割増しだが今年は問題なくこなしている。
「今年は疲れが翌日まで残らない。朝起きると体が軽く感じて、回復力がまるで昨年とは違います」と。肩の仕上がりも順調でキャンプ初日から捕手を座らせ六分の力で50球余りを投げ込み、投球の最後に投げる「外角低目」も一発で決めるほど好調をキープしている。ただ本人は「僕からコントロールを取ったら何も残らない」と涼しい顔。この自分の調子のバロメーターでもある外角低目への制球力は下半身が安定していないと定まらない。事実、昨年のキャンプでは「ラスト1球」と宣言してから10球前後の球数を要していた。今年はここまでは思い通りの調整が出来ており早々と20勝宣言をした。「昨年は走れなかったけど今年は大丈夫。下半身さえしっかりしていればコントロールは安定する。新しい球種を増やすとか必要ありません」と自信たっぷりだ。
本場アメリカの速球王ノーラン・ライアンの異名「カリフォルニアエクスプレス」になぞらえて付けられたのが「オリエントエクスプレス」、東洋の速球王・郭泰源(21歳)。8月のロス五輪後には日米入り乱れての獲得合戦が解禁になる。果たして郭はどこのユニフォームを着るのだろうか?
1月12日付の報知新聞に『巨人、郭泰源獲得へ急前進』の見出しが躍った。前進に敢えて " 急 " が付いたのがミソである。巨人は郭獲得レースでは出遅れていた。決して評価が低かった訳ではない。親会社の讀賣新聞が社の方針として台湾を独立国家として認めておらず、あくまでも中国本土の一部であり巨人は中国政府が認めていない " 非合法 " な台湾で大っぴらに活動出来ずにいた。巨人が躊躇している間に中日が台湾で存在感を増す事になる。今から4年前、先ず手始めに練習で使い古した球を台湾の高校や大学に無償で寄進し始めた。台湾では硬球は未だに貴重品で入手は難しい。これは毎年続けられ郭泰源が所属する合作金庫には新品を届けた。更に郭泰源が兵役で台湾陸軍に入隊すると陸軍チームにまで新品を贈った。また中日球団とは別ルートからの接触も怠らなかった。台湾のナショナルチームのユニフォームを誂えたのは名古屋市内の運動用具会社だが、この会社は中日球団とも親しい関係で中日の野球道具を一手に引き受けており、特に重役のA氏は " 中日の陰のスカウト " と言われていて郭源治獲得にも関わった。その郭源治は「Aさんは親であり兄である」と言って憚らず、当然A氏は郭泰源獲得にも動いている。
更に中日には郭源治という存在もある。郭源治には球団から「何としても郭泰源を連れて来い」との指令が下されており今年の正月に里帰りした際には何度も郭泰源と接触している。表向きは日本の野球や食事・習慣など生活面のアドバイスをした、とされているが中日入りを薦めている事は想像に難くない。郭泰源中日入りの暁には郭源治にもそれなりのボーナス(一説には金5百万円也)が入る事になっているらしく必死となるのも無理はない。そんな中日だからこそ台湾側から " ちょっといい話 " が舞い込んで来る。それはナショナルチーム強化の為にコーチを派遣して欲しい、というもの。「人選は中日さんにお任せするが出来れば中日OBの方を一人」との事。ここまで信頼されると中日も強気になる。「食い込んでいると言われている西武や国民的英雄の王さんがいる巨人だってこんな話は来てないでしょう?」と中日球団幹部が胸を張るのもまた当然である。今現在、中日は堀込スカウトを郭泰源専用スカウトに充てている。堀込スカウトは2回の渡台、大越球団総務に至っては6回も台湾入りしていて着々と工作を進めている。では郭泰源の中日入りの可能性が高いのか?物事はそう簡単ではない。ここで前述した巨人の " 急前進 " だ。
1月11日、巨人の沢田スカウト部長は巨人軍の正式な球団関係者として初めて台湾入りした。" 初めて " と言うのが巨人の出遅れを表しているのだが沢田部長の表情は焦りを感じさせなかった。14日に帰国した際に「いやぁ非常に友好的だった。泰源君は勿論、兄の義煌さんにもお会い出来ました。王監督の写真も頼まれてね」と余裕たっぷりに語った。このコメントは郭獲りに懸命になっている他球団の関係者を驚かせた。何故なら郭は昨年のアジア大会後に「来年のロス五輪が終わるまでどこの国の球団とも会わない」と宣言し実行していたからだ。それがあっさりと覆されたのだ。加えて沢田部長は台湾ナショナルチームの呉祥木監督とも懇談し友好ぶりをアピールした事に中日が慌てた。たった一度の渡台で巨人は一気に土俵際から中央にまで盛り返す、まさに " 急前進 " だった。また巨人にはもう一つ強力な味方がいる。在日華僑グループである。台湾と日本の華僑グループは強い絆で結ばれており、王貞治後援会の堤志明会長は「我々が交渉の席に乗り出すとなると単に野球界だけの話ではなくなる」と郭の巨人入りに動く事を示唆している。
昨夏のアジア大会以後、阪急を除く11球団が郭サイドと接触し条件提示をしている。そこで気になるのが各球団が用意している " 実弾 " の額である。複数の大リーグ球団も接触済みで中でもSt・カージナルスが熱心だが提示額は3千万円とアメリカ国内では破格だが日本の球団と比べると格安。今のところ先行している中日は5千万~6千万円と見られている。ただ中日には所謂「N資金(長嶋氏招聘の為の資金)」が手付かずで残されており余裕はある。巨人もドラフト1位並みの6千万円あたりで、その他の球団も大差はなく争奪戦と言う割には抑え目な金額。そんな状況に憤慨しているのが福岡市在住のB氏である。「台湾の選手に対する日本の球団の評価は低すぎる」と。B氏は郭サイドの日本における窓口役を務めていて、ちょうど郭源治とA氏との関係性で郭本人はB氏を「日本のお父さん」と信頼している。実はこのB氏は西武と強い繋がりがあり、B氏の言葉は西武が郭を非常に高く評価している事を窺わせる。今のところ西武は表立って動いていないが時至れば一気に " 億単位 " の実弾攻勢を仕掛けて来るに違いない。
日米入り乱れての争奪戦を台湾の人々は冷やかに見つめている。何故なら今年8月のロス五輪でナショナルチームが金メダルを取る事を全国民が願っているがエースの郭が争奪戦に巻き込まれて動揺するのが困るのだ。台湾で唯一のスポーツ新聞「民生報」の高正源記者は「台湾では野球の普及はまだまだだけど郭泰源の名前は皆が知っている。彼は国の誇りで五輪で活躍して金メダルを取ったら国民的英雄になれる。だからこそ彼にはベストコンディションで臨んで欲しい。出来ればプロ球団の人達には静かにしていてもらいたい」と話すがおそらく多くの台湾人も同じ気持ちであろう。そして郭の今後については「恐らくプロへ行くでしょうがアメリカには行かないのでは」と。最後は郭本人の気持ち次第だが重要なのは台湾人は誠意を重んじる人達であるという事。決して札束攻勢には屈せず、むしろ逆効果である。争奪戦はもう暫く続く事になるだろうが、いずれにしても日米を舞台とした各球団による泥試合…なんて事にならないように願いたいものだ。