Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 355 今だから話せる ⑤

2014年12月31日 | 1983 年 



今日もまた勝った。首位を独走する西武を率いる広岡監督を人は知将と呼ぶ。今の彼を見ていると私はまだ彼が30歳代の若き姿を思い出す。あの時、彼に東京オリオンズの指揮を執って貰っていたら・・・当時オリオンズのスカウト部長として永田オーナーに「広岡監督」実現を直訴した事は間違いではなかったと改めて思う。

昭和41年、広岡選手は一世を風靡した華麗で堅実な守備も寄る年波には勝てず遊撃の定位置を黒江選手に奪われかけていた。時代は長嶋・王の全盛期、川上監督の下で昭和40年・41年と連覇しV9へスタートを切った。世間では川上監督と広岡が野球観で対立していると騒がれて、一本気な気質の広岡は巨人を退団するのではと噂されていた。一方で東京オリオンズは昭和39年に就任した本堂監督の3年目で1年目は4位、2年目は5位、3年目も下位に低迷していた。現場に何かと口を出す永田オーナーが大人しくしている筈はなかった。スカウト部長でありながら永田オーナーの " 野球秘書 " のような存在でもあった私はチームには極秘で監督探しに動いていた。

私が考えていたのは34歳で現役だった広岡の抜擢だった。面識はなかったが新聞等で目にする彼の発言から「一軍の将としての器」であると確信していた。またオリオンズの本拠地は東京の下町で川上監督に反目する事で巨人を追われるストーリーは下町の江戸っ子気質から見ても人気を得るに違いないと判断した。問題は巨人・正力オーナーと昵懇の間柄である永田オーナーが遠慮をして監督招聘に待ったをかける可能性がある事だった。予想通り永田オーナーは私に次の監督を探すよう指示を出した。私は満を持して「今年のドラフトで大塚捕手、来年は八木沢投手と早大生の獲得を目指しているウチにとって早大出身の広岡氏と繋がりを持つのは大切な事。勿論、指導者としての力量も申し分なく彼以外は有り得ない」と進言したが永田オーナーは「彼も候補だが、とりあえず2~3人リストアップしとくように」と命じるに留まった。

早速に広岡周辺の調査を開始した。当時、川上監督の秘書的役割を務めていた関大出身で旧知の仲だった巨人軍の坂本広報担当に探りを入れてみると「広岡君の事なら日本テレビの越智アナウンサーがよく知っているから」と仲介された。越智さんに尋ねると「恐らく今年限りでしょう。ただ私も端くれながらも讀賣の人間ですから表だって援助は出来ませんが本人にオリオンズさんが監督として欲しがっているとお伝えしときましょう」と言ってくれた。シーズンが終わりに近づいた頃の早朝、永田オーナーから突然「きょう自宅に来て朝食を一緒に摂るように」と呼び出しがかかった。日中は多忙な永田オーナーから野球に関する呼び出しは早朝か夜の8時以降と決められていて、私は永田オーナーの自宅近くに住むように命じられていたのだ。

朝7時、「どうだ青木、来年の監督の目星はついたか?」 と朝食を摂りながら永田オーナーは機関銃のようにまくし立てた。「オーナー、広岡君で行きましょう」と私が即答すると「若過ぎないか?コーチの経験すらないのだろ」と懸念を示したが、広岡を推挙する理由を詳しく説明すると「分かった。会う段取りをつけてくれ」と決断した。永田オーナーは一度決めると行動は早い、その日のうちに広岡宅に電話を入れて是非とも会いたいと伝えたが「どういう話か存じませんがまだ巨人のユニフォームを着ている身で他球団の関係者と会う事は出来ません。もしもこの先、巨人を退団する事になったら真っ先に会う事を約束します」と直接交渉は持ち越されたが、その律儀さに永田オーナーは感服した。

正式に巨人を退団した広岡に再び電話をして「永田オーナーが是非ともお会いしたいと申しております」と告げると「礼儀としてこちらから伺います」とこちらの方が恐縮してしまう程だった。その夜、広岡宅まで迎えに行き渋谷区広尾にある永田オーナー宅に案内した。玄関から応接間に入るとあのクールな広岡が「玄関から応接間まで全て大理石とは…青木さん、我々とは桁が違いますね」と目を丸くして驚いた様子だった。永田オーナーが姿を見せた時の広岡の応対に今度は私が驚いた。いわゆる " 海軍式敬礼 " と言われる背筋をシャンと伸ばし恭しく角度をつけて一礼をし、元の直立姿勢に戻る姿は美しかった。永田オーナーが繰り出す野球に対する熱い思いを真正面から受け止め真摯に対応する姿は私がそれまでに見てきた野球選手にはない清々しい雰囲気を醸し出す好青年そのものだった。

ひとしきり話を聞き終えた広岡は身づまいを正すと「私ごとき若輩をそれほど高く評価して頂き非常に嬉しく思います。しかし " 巨人の広岡 " だけでは井の中の蛙です。いま一度野球を勉強する為にアメリカで修業をしたいと考えています」と言い、監督就任を固辞した。広岡が帰宅した後、永田オーナーは断られた事などすっかり忘れて「流石だ。惜しいが諦めるしかない。いくら説得しても陥落しない信念を持つ男だ。惜しい…」と褒めちぎった。契約金目当てに擦り寄って来る輩も多いこの世界で、明日どうなるか分からない米国に単身乗り込む度胸と見識に私も広岡達朗という男に改めて惚れ直した。
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# 354 今だから話せる ④

2014年12月24日 | 1983 年 



確かに「ライオンズ」は今も存在している。5月10日からの阪急対西武の3連戦、阪急球団主催ではあったが久しぶりのライオンズの里帰りで3日間で8万6千人を集めた。昨年は日本一になり今年も快調に首位を走る西武ライオンズ。しかし、やはり何かが違う。ライオンズは博多にあってこそ「ライオンズ」なのだ。今風のお洒落な西武ライオンズを見る度に私は「あの時、何とかならなかったのか…」との感慨に包まれる。

クラウンライター・ライオンズが西武に身売りされた昭和53年10月12日から4年以上が経過した今でも「もしあの時、中村長芳オーナーが球団経営についてスポンサーであった廣済堂会長・桜井義晃氏と腹を割って話し合っていたら球団を手放さずに済んだのでは…」「博多にライオンズを残す事が出来たのではないか」という思いに囚われる。福岡野球株式会社(中村オーナー)から国土計画(堤義明社長)への球団譲渡が成立する10月12日まで井口球団社長も、球団専務だった私も一切の経緯を知らされずにいた。ただ「どうも不穏な動きがある」という予感めいたものはあった。例えば仕事で渡米する私に中村オーナーがサンフランシスコにあるキャンドルスティックパークの球場設計図を持ち帰るよう命じたり、当時の飛鳥田横浜市長と中村オーナーが横浜スタジアムの拡張計画を検討したり、ドラフト会議で指名した江川投手の獲得資金1億円を西武から借り入れていた件など…

どれも後になって繋ぎ合わせれば、という事が多々あった。球団譲渡の発表まで我々には一言の相談もなかった(坂井球団代表は発表の2~3日前に開催されたプロ野球実行委員会で初めて聞かされた)。実は球団譲渡前に最大のスポンサーだった桜井氏は中村オーナーから資金調達の相談を受けていた。具体的に12億円という額を求められた桜井氏は即答せず「善処する」と言うに留まった事が2人の思いが離れる分岐点だった。桜井氏が資金調達に奔走していた時、中村オーナーは西武との交渉を同時並行で行なっていた。後日分かった事だが桜井氏に依頼した頃には既に自民党・安倍晋太郎代議士(現外務大臣)を通じて堤義明氏に打診を済ませていた。

打診された堤氏は当初、プロ野球球団経営に乗り気ではなかった。五輪関連の活動に精力的だった事もありプリンスホテル野球部などアマチュア野球に力を注いでいた。しかし度重なる要請を受けて幾つかの条件を出してそれらがクリアされれば検討すると回答した。条件の1つに福岡野球株式会社の取締役全員の白紙退陣があった。球団譲渡当日に私は井口球団社長に呼ばれて「今朝、オーナーから各取締役の辞表を纏めろと指示があった。私も身売りは初耳だが既に決定事項なので白紙で辞表を提出して欲しい」と告げられた。しかし私はその場での辞表提出を拒否した。「急に言われても身売りの経緯が全く分からず『ハイ、そうですか』とはいかない。それに私ら身内にはそれで通用しても社外取締役の九州電力や西日本新聞社は納得しないでしょう。少なくともオーナー直々に説明に伺うのが筋だ」と一言申し上げた。

「実は先般、同じ事を西日本新聞の社長に言われた。だからこそ身内の君に率先して辞表を提出して貰いたい」と泣きつかんばかりに懇願された。私が言った青臭い正論を井口球団社長も先刻承知だったのである。それを聞いて私も辞表を出す事に承知しようとした矢先、続いて井口社長が口にした言葉で思い留まった。「全員退陣した後で私と君は西武入りする事になっている」…いやちょっと待ってくれ、「それでは今まで世話になった博多の人達に申し訳ないではないか。私はこのまま西武へ横滑りするつもりはない。兎に角、オーナー自らファンに説明するのが先決だ」と言うと、それを「辞表提出拒否」と判断した井口社長は 「それでは私の立場がない。退職金を含め充分な考慮をするから辞表をこの場で提出して欲しい」 と迫ってきた。私は折れた…余談だが私は現在に至るまで退職金を一銭たりとも受け取ってはいない。

中村オーナーから取締役総退陣の連絡を受けた堤氏にすればもう固辞する理由がなくなり横浜スタジアムの持ち株47%を売却し即座に12億円を用意したと聞いている。実はその3日前に資金調達を済ませた桜井氏が中村オーナーに「準備出来た」と報告していたのだが既に西武への球団売却の仮契約が済んでいた。予てよりライオンズは平和台球場にいてこそ、と主張していた桜井氏の願いは潰えた。何故、中村オーナーはこうも簡単に球団を手放したのか?魅力的なチームを作れず観客動員も振るわず赤字経営が最大の理由だろうが、もう1つの側面として地元福岡の有力者の支援を受けられなかった事もあるだろう。中村オーナー自身の活動の場が主に東京であった事で地元との関係が希薄だったのも反省材料。元々は西鉄を母体としていたライオンズ。西鉄は地元最大の私鉄で愛着も強く市民との繋がりをもっと強化していれば…と悔やまれてならない。

財政的には世間で言われるほど切迫したものではなかった。昭和52年のドラフト会議で1位指名した立花選手とその年の暮れに招聘した根本監督の契約金に6千5百万円を提示したくらいだから。要は中村オーナー自身が博多の街に情熱を失ったとしか考えようがない。それにしても中村オーナーが独走せずもっと早い段階で桜井氏と本音で話し合い、知恵を出し合っていたら博多のライオンズは消滅する事なく生き続けていたのではないか。博多のファンに申し訳ない気持ちは終生拭えないであろう。
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# 353 今だから話せる ③

2014年12月17日 | 1983 年 



昨年の暮れから年明けにかけて球団と揉めた有藤(ロッテ)が開幕するとそんな騒ぎが無かった事のように活躍している姿を見るのは喜ばしい事だ。昭和27年からスカウト生活を始めて昭和53年にクラウンを退団するまで数々のアマチュア選手と関わった私だが、その中でも最も短い交渉期間で契約に至ったのが有藤道世君だった。

ドラフト制度が採用されてから4年目は「黄金の43年」と呼ばれたように、かつてない程好選手が続出した年だった。田淵・山本浩・富田の「法政三羽ガラス」、星野、山田、福本、東尾、大田…と枚挙に暇がない程揃っていた。当時は東京オリオンズに在籍していた私は濃人監督ら現場首脳陣から三遊間強化の為の補強を要請されていた。地元東京という事で法大の3人を調査したが田丸スカウトの報告では田淵は本人・両親共々巨人入りを望んでおり、山本は地元の広島が西野球団代表(当時)を中心に既に他球団が入り込む隙がない程に囲い込み済み、残る富田には今一つピンと来るものが無かった。そこで関大出身の私は関西での人脈を頼りに独自に近畿大の有藤と藤原の周辺調査を行なっていた。

春季リーグ戦終了後に近大・松田監督に直接会い「どうしても有藤と藤原が欲しい。ウチの不動の三遊間にしたいので是非とも協力してほしい」と真正面から挑んだ。松田監督が「青ちゃん、どれくらい本気なんだ?」と聞いてきたので「何番目でも1位は有藤だ」と答えると相手もさる者「じゃ法政勢はどうするんだ」と切り返してきた。「ウチは近大オンリー」と言うと「ホンマかいな、調子ええ事言うて」となかなか本気にしてくれない。そこで私は言った「松田さん、長い付き合いで私の性格は御存じでしょ?もしも永田オーナーが法政で行く、と言い出したら私はクビを賭けると約束します」と。その一言で松田監督もやっと " その気 " になってくれた。

「そこまで言うのなら有藤には話をしよう。でも藤原は入学に際して武智修君(松山商→近鉄)の世話になっているので僕の口から返事は出来ないが、仮に2人を獲るなら条件は両者同じにしてほしい」と松田監督に念を押された。参考までにその場でのやりとりを再現すると


     「分かりました。2人とも契約金1千万円を約束しましょう (私)」
     「税金分も考えてやってくれないか (松田監督)」
     「はい、約束します。ドラフト終了後に契約書を持って来ましょう (私)」
     「了承した。有藤は母親から私に一任されているので大丈夫だ (松田監督)」
     「ところで他球団の動きは? (私)」
     「まだ来てない。在阪球団も君ほど評価していないようだ (松田監督)」  ・・・ といった具合だ


有藤がオリオンズ入団後にマスコミの間では「南海・鶴岡監督(当時)が永田オーナーに有藤獲得を進言した」と言われていたがそれは違う。鶴岡監督が新人の有藤を見て自軍のスカウト連中に「地元にあんなに良い選手がいたのに何をしていたんだ」と叱責したのが真相。阪急・西本監督にも「オリオンズは向こう10年は三塁手に苦労しないな」と褒められ私は鼻高々だった。実はもう一人、目を付けていた選手がいた。東京農大の広瀬宰(現西武コーチ)である。ヤクルトの宇高勲スカウトも密かに注目していた内野手でドラフト当日、予定通り1位で有藤を指名出来たが指名順が後のヤクルトが広瀬を2位で指名するという情報を得て藤原2位指名予定を急遽変えて広瀬を指名した。チーム構成上これ以上の野手指名は難しく藤原を指名する事は出来なかった。ドラフト会議終了後、私はその日のうちに契約書を携え大阪に向かいサインして貰った。実に交渉時間ゼロのスピード契約だった。

有藤は春季キャンプを無事に乗り越えオープン戦を迎えたがここで問題が生じた。無類の鉄砲肩が災いして、一塁送球の際に高投する失策が目立つようになった。悪い事に守備の不安が自慢の打撃にも影響を及ぼすようになった。5試合連続無安打となり「明日の阪神戦でも安打が出なければ明後日から三塁は前田でいく」と濃人監督が言い出した。阪神の先発投手はエース・村山実、実力的に有藤に勝ち目はない。そこで私は試合前の村山に「村山君、有藤は大器なんだ。だが今はすっかり自信を無くしている。オープン戦だし自信を付けさせてやってくれないか。君から安打を放てば自信を取り戻すと思うんだ」と頼み込んだ。

「青さん、彼の得意なコースはどこなの?」と村山君は聞いてきたので「真ん中から外寄り」と私は答えた。でもまだ安心出来ない。得意のコースに来ても打てる保証は無いのだ。それは7回二死の場面に訪れた。そこまで良い所の無かった有藤に最後の打席が回って来た。祈るような気持ちで見ていると村山投手は有藤のバットが一番出やすいコースの外角に投げた。バットが一閃すると打球は左翼線に勢いよく飛び、翌日以降も試合に出続ける事が出来た。試合後の有藤は村山投手から安打した事で大喜びし、自信も回復して以後の活躍ぶりは語る必要もないだろう。有藤本人にこの事実を話したのは15年後のつい最近の事だ。
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# 352 今だから話せる ②

2014年12月10日 | 1983 年 



今年も西武のユニフォームを着て大張り切りの田淵の姿を見ると私はつくづく田淵は変身したと言うか成長したと言うか、人間は良くもここまで変われるものだと感慨深い。昭和53年暮れの真夜中に阪神・小津球団社長に阪神ホテルに呼び出され西武へのトレードを通告された時に涙の抗議をした事など嘘だったような気さえする。

田淵の話とは少々離れるが私がクラウンライター・ライオンズの球団専務をしていた時に根本監督招聘に熱心だったのは彼が広島カープの監督時代に後の広島の礎を見事に作り上げた手腕に惚れ込んだ為だ。当時のクラウンのチーム構成は頭打ちの状態だった。私なりに考えていたのは若手の真弓・若菜・立花らに加えて中日の小松投手と宇野選手をトレードで獲得し、ベテラン・中堅の竹之内や太田を絡めてチーム作りをしていくという計画だった。中日の2人が獲れるのなら主力級を放出する覚悟で中日の中川代表(当時)と交渉を進めていた。しかしプロ2年目の宇野が一軍で活躍しだして中日側が放出を渋る一方、真弓や若菜が地元の柳川出身で彼らの放出は後援会筋からの反対もあって計画は頓挫。その後、私は球団専務の職を離れる事になる。
 ※ 詳細は 【 #290 風雲録 ④ 】 参照

私の構想に根本監督も賛同してくれた。さらに「チームの若返りの過渡期にはベテランの力も必要」だとして新生西武の顔となる看板選手の獲得を提唱した。チームを一新するには先ず人気選手を加入させるのが王道である。そこで田淵の名前が浮上した。私生活で何かと世間を騒がして阪神も手を焼いているとの情報は球界内に知れ渡っていた。昭和53年10月、堤オーナーの至上命令で田淵獲得に勢力的に動き出した。特に小津球団社長と個人的に親交のあった根本監督が「新チームには田淵が絶対に必要」と阪神側に働きかけた。既にクラウンの球団専務を辞め大阪の自宅いた私に阪神の西山和良編成部長から「青木先輩、ライオンズで有望な選手は誰ですか?」と電話があったのはその頃であった。

その電話の声だけでピンと来た私が「西山君よ、ライオンズと大トレードか?」と聞くと「いやぁ…」と返事に詰まった。そこで私が「阪神が出す選手のレベルによって獲れる選手は違ってくる」と答えると「ウチは相当の覚悟で挑むつもりです」と言った。その時点でライオンズの人間ではなかったので「西武に義理はないから阪神OBとして知っている限りの事は話すよ」と言って電話を切った。スポーツ紙に堤オーナーの談話として「人気選手が是非とも欲しい。阪神と交渉中である」という記事が載ったのはそれから数日後の事だった。暫くたって再び西山編成部長から電話が来たが、その内容から交渉はかなり具体的な段階まで進んでいると思わせるものだった。

「田淵と古沢の見返りなら誰を要求すればよいですかね?」 「それなら真弓、若菜、立花、大田…」と名前を挙げたが一言、二言付け加えた。「たぶん根本君は立花や真弓は出したがらないと思うが簡単に妥協しちゃ駄目だよ。うんと粘って僕が挙げた選手以外だったら阪神は損するよ」と。田淵が深夜にホテルに呼び出されてトレード通告を受けたと報道された頃にまた西山編成部長から電話があった。「真弓と若菜はOKでしたが立花と大田はNGです」と言うので「古沢を出すなら投手を獲ったらどうか」と答えた。交渉の末、西武は真弓・若菜・竹之内・竹田の4人に決まったが阪神では古沢は移籍を了承したが田淵がゴネた。

後になって人づてに聞いた話では阪神は田淵に「一旦、根本監督の下で勉強していずれ阪神に指導者として戻って来ればいい」と西武に移籍してもいずれは阪神に帰って来られるからと説得したそうだ。これには背景がある。昭和43年のドラフト会議で阪神が1位指名したが巨人入りを熱望し阪神入団が難攻していた田淵に当時の担当スカウトだった佐川直行氏が、大津淳(現球団営業部長)・村山実・安藤統男に次ぐ球団史上4人目となる「本社からの出向社員」の条件を提示して入団に漕ぎ着けた。これは将来に渡り身分保障をする特別待遇であり、トレード通告を受けた田淵が「阪神に騙された」と言ったのはこの時の話があったからだ。

このトレード交渉中、阪神が要求した大田を根本監督が最後まで拒否したのが興味深い。春秋の筆法をもってすればあの時に大田が阪神入りしていたら昨年の日本シリーズでの大田の活躍は無かった訳で西武の日本一は達成出来なかったかもしれない。あのトレード劇から5年、今なおチーム中心選手として活躍する田淵と大田を見ていると根本氏の選手の能力を見る確かな眼力やフロント業務に精通していた巧みな交渉テクニックが堤オーナーの信頼を得る礎になったと思わざるを得ない。あの田淵を優等生に変身させた広岡監督の操縦術にも敬服しながら大田や真弓のプレーを楽しみに球場に足を運んでいる。
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# 351 今だから話せる ①

2014年12月03日 | 1983 年 



最近の江川君の快投ぶりを見る度に25年間のプロ野球界生活の中でも忘れる事の出来ない昭和53年秋から翌54年暮れまでの慌しかった1年間を思い出す。私は当時クラウンライター・ライオンズの球団代表代理。昭和53年10月末に当時の中村長芳オーナーが3年越しで監督就任要請をしていた根本陸夫(現西武管理部長)を説得して3年契約が完了した。シーズン後半丸々を費やしていただけにホッと一息つくとドラフト会議が目前に迫っていて少々慌てた。まだ指名選手選考が済んでいなかった。この年の目玉は文句なしで江川卓投手(法政大)、だが早くから元衆議院議長の船田中氏を後見人として巨人以外はプロ入りしないと表明していた。江川本人も両親も交渉の窓口を蓮見秘書に全面委任していた為に巨人以外の各球団は直接挨拶も出来ず難攻不落状態だった。

スカウト生活が長かった私でも江川獲得は困難に思え諦めの境地だった。スカウトが選手を獲得する時は先ず相手選手を恋人の如く惚れ込まないと粘りに粘って説得する気持ちも湧いてこないし、本心から惚れなければ選手にも本気度を見透かされて獲得は難しくなる。そうした経緯から私は1位指名候補に松本正志投手(東洋大姫路高)、小松辰雄投手(星稜高)、門田富昭投手(西南学院大)の3人に絞り込んでいた。ただ門田は腰に持病があり左腕投手という利点から松本を推していた。一応、毒島スカウトに江川の調査を命じていたが江川家周辺から「クラウンは一番行きたくない球団」と念を押された。毒島が法政大のグラウンドに姿を見せるだけで江川は練習を切り上げて消えてしまう徹底ぶりだった。

当時の球団の財政状況からすれば江川1人に1億円近くの契約金を払うのは難しいと考えていたが中村オーナーは世間が球団の懐具合を揶揄すれば逆に強気な発言を繰り返した。11月18日のスカウト会議で各スカウトの現状報告がされて指名候補の絞り込みを行なった。私は松本を推していたが小松も捨て難かった。ただ小松の父親が遠洋漁業中で留守を預かる母親に「主人共々、大学進学か社会人の熊谷組にお世話になるつもり」と言われて諦めざるを得なかった。会議で私は中村オーナーに「根本新監督の下、若手の力でチーム再建を目指しているのだから江川より松本を指名するべき」と意見を述べたが、中村オーナーは「一応、分かった。ただ最後に船田先生にお会いして真意を確認してから決める事にしよう」と最終結論は持ち越された。

しかし中村オーナーは船田代議士と接触出来ずにいた。電話でアポイントを取ろうとしても秘書に断られ、国会が閉会する時機を見計らって直接事務所に出向いても多忙を理由に会えなかった。遂には岸元総理に仲介を依頼した所、後日書面で回答が来た。そこには「本人及び家族が巨人入団を望んでおり他球団に指名されても入団せず迷惑をかけるだけなので御遠慮願いたい」という趣旨の内容が書かれていた。ただ主要スポンサーであるクラウンライター会長の桜井氏はじめ後援者の多くが指名回避に反対した。結局、結論は出ず指名か否かは中村オーナーに一任された。ドラフト当日のホテルグランドパレス1階喫茶室に坂井球団代表、根本監督、浦田・毒島スカウト、それと私を集めて中村オーナーが口を開いた。

「指名順が1番だったら江川でいく。世間がウチの財政問題をとやかく言うなら今回は避けて通れない。門前払いを喰らい皆に苦労をかけるかもしれないが私の決意を汲んで貰いたい」と表明した。根本監督は「オーナーの意向なら現場はそれに従うしかない」と理解を示したが私は「オーナーの命令には従いますが政界関係は門外漢です。船田事務所周辺の説得はオーナーにお任せします」とクギを刺した。そして江川指名後を想定して政界関係はオーナー、法大関係者は法大OBの根本監督と私、実家周辺は毒島スカウトと役割分担を決めた。しかし確率は1/12 なので取り越し苦労になるに違いないと楽観し、松本と小松の両獲りが叶うよう願いながら会場に入った。

予備抽選の後、本抽選が行われ中村オーナーは1番クジを引き当てて喜色満面。皮肉な事に江川が希望する巨人が2番だった。当時は本抽選後に昼休憩を挟んで選手の指名を行なっていた。すると巨人側から「別室を用意してありますので是非…」との申し入れがあった。恐らく江川指名回避のお願いとその代りにクラウンに有利なトレード等の提案をしたがっているのが手に取る様に分かった。「松本か小松を指名出来て尚且つ巨人から有望な選手を獲得出来ればチーム再建に大いに役立つな」との思いが私の頭をかすめたたが中村オーナーは「ウチは江川でいきます」と間髪入れずに答えて巨人側の昼食の誘いを断った。

それでも長嶋監督は諦め切れないのか「どうにかなりませんか?」と私や根本監督に尋ねたりしていたが「オーナーが決める事だから私らが口を挟めるものではない。山倉(早稲田)は巨人の補強ポイントにピッタリじゃないか」と言うと長嶋君は苦笑いした。また廊下ですれ違った上田監督(阪急)は「先輩、パ・リーグの為にも江川でお願いしますよ」と言うので「阪急は松本か?ウチも欲しいんだが譲るよ、貸しだゾ」と答えると「これで松本と三浦(福島商)の両獲りだ」と嬉しそうに昼食に向かった。このように指名を待つ間に舞台裏では各球団が駆け引きを行なっていた。そしてクラウンライター・ライオンズは悲壮な覚悟で江川指名に踏み切った。
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