Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 341 尾張の怪物

2014年09月24日 | 1983 年 



ネット裏のスカウト連中は思わず「夏の大会には出て来て欲しくない。県予選でコロッと負けてくれないもんかね。大きいのを打たれたら更に値段が跳ね上る…」と本音を漏らした。史上2人目の大会3本塁打、8打席連続安打などセンバツ大会記録をマークした藤王康晴はまだ17歳。既に今秋のドラフト会議の目玉として7千万円の値が付けられたが、夏の活躍次第では1億円の大台突破も…

新チームになった昨夏からの27試合で89打数39安打・打率.438 ・4本塁打と怪物ぶりを発揮していたがセンバツ大会ではそれ以上の結果を残した。1回戦の高砂南戦で本塁打を含む4打数4安打、2回戦の泉州戦は2本塁打を含む3打数3安打。こうなるともう手がつけられなく準々決勝の東海大一戦では初回に三遊間内野安打を放ち昭和31年に中京商の富田が記録した8打席連続安打に並び、次の打席で四球を選んで11打席連続出塁の大会記録をマークした。試合に敗れてベスト4進出はならなかったが大会3本塁打、1試合2本塁打はタイ記録。通算20安打も史上3人目となる快挙だった。速球を鋭いスイングで弾き返すかと思えば変化球に泳がされてもバットを残してついて行く。泉州高の八木投手から放った3本目は完全にタイミングを外され右手一本でスタンドまで運んだ。「あの球を打たれたんじゃ…あれだけ前のめりになって本塁打を打つなんて見た事も聞いた事もない」と打たれた八木投手は悔しさを通り越して呆れる。

藤王は昭和40年4月13日、愛知県一宮市生まれ。市内で織物業を営む父・知十六さん(41歳)と母・晴子さん(37歳)の長男で妹・智子さん(16歳)との4人家族。ちなみに珍しい名字の「藤王」は愛知県下に8軒しかなく皆親戚である。その昔、秋田・酒田藩の武士が出家して藤王院という寺を建立した事に起源があり、秋田の祖父・栄吉さん(78歳)も健在で県下の藤王姓10軒もまた全て親戚である。藤王少年は小学校入学前から父にスパルタ教育を受けていた。赤ん坊の頃から並外れた体格で運動神経も良かったので将来は王選手のような大打者に、と左打ちに矯正した。一宮市の藤王家を訪ねると庭にネットが張ってあり父親は息子の打撃練習に夜遅くまで付き合った。

本格的に野球に取り組んだのは大和中学に進んだ頃。野球部は一宮市内でも「1回戦ボーイ」だったが藤王は1年生からレギュラーで目立っていた。3年生の時、一宮南中との試合で放った一発は右翼後方にある体育館を越え更にその奥の2階建て校舎をも越えた。推定飛距離110㍍、軟式の球をそこまで飛ばすのは並み大抵ではない。この一撃で「大和中に藤王あり」との声は県下に広まった。卒業間近になると名門校から続々と勧誘の声がかかり、円形脱毛症になる程悩んだ。中京高、愛知高、東邦高、そして享栄高も来たがその時の逸話が残っている。享栄高と言えば金田正一氏が有名なのだが「カネダさん?誰だか知りません」と話し学校関係者を唖然とさせたが結局、享栄高を選んだ。

夏が過ぎたら藤王はどのような選択をするのか、周辺は既に加熱気味だ。本人は未だ態度を表明していないが父・知十六さんは「お金は問題じゃない。本人も最終的にはプロでやりたいと思っている筈。それならば大学や社会人とか回り道せずプロ入りする方が本人の為になる。まだまだ鍛えなければならない箇所は多い。同じ鍛えるのならプロのコーチの下で鍛える方が良いでしょう。まぁ最後は本人の意志次第ですけどね」と話す。確かにプロ側も即戦力とは見ていない。特に守備面の不安が大きい。あるスカウトは「高校生の場合は一塁しか出来ない選手の評価は低い。藤王はその一塁の守備すら上手くない」と声を潜めて語る。藤王は享栄高入学後に三塁手に挑戦したが何度となくイレギュラーバウンドを顔面に当てているうちに何時しかゴロ恐怖症になってしまい三塁転向を断念した。

それでもあの打撃は守りの不安を補って余りあるもので大方のスカウト評は「守備は練習で幾らでも上達する。古屋(日ハム)や原(巨人)だって入団したては見ていられなかった。打撃センスは鍛えても限界がある。その点で藤王の打棒は捨てがたい」で一致している。「それにしても…」と地元球団の中日スカウト陣は「甲子園であれだけ打たなくても…すっかり全国に名前が知れ渡ってしまった。是非とも欲しい選手に間違いないが契約金が跳ね上ってしまい痛し痒しだよ」と嘆く。既に中日以外の球団も上位候補にリストアップしており特に巨人は享栄OBの金田正一氏の周辺人物を通じて接触を計っているという。何やら「中日 vs 讀賣」の新聞戦争に発展しそうなのも藤王の桁外れの怪物ぶりのせいだ。
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# 340 やまびこ打線

2014年09月17日 | 1983 年 



昨年夏、豪打で天下を制した池田高は今年のセンバツ大会でも強打で他校を圧倒し夏春連覇を達成した。5試合で60安打・32得点、5試合中4試合が2桁安打でチーム打率は .359 と図抜けていた。大会前の下馬評で優勝の本命に挙げられた時、池田高の関係者は「準々決勝までは徳島県予選の1・2回戦相手のようなものでコールド試合スコアにしなければ。本大会の実感が湧いてくるのは準決勝から」と豪語していたが、その言葉通りに帝京高を11対1、岐阜第一高を10対1、準々決勝の大社高を8対0と撃破した。

高校野球を変えたと言われている池田高校。そのパワーの秘訣を学び取り入れようと全国各地の高校野球部関係者が大挙して阿讃山脈に囲まれた池田町に押し寄せた。来校した人が先ず驚いたのは控え選手が球速140km に設定されたピッチングマシーン相手に苦も無く打ち返していた事だった。しかも使っている金属バットは先端部分が重く扱いが難しいものだった。バットを手にした関西地方の有名私立校の監督は「ウチの選手にコレを使って140km の球を打てと言ってもカスリもしないだろう」と感心していた。池田高校ではこのバットで新入部員に先ずバッティングをさせてみる。ヘッド部分が重いバットを使いこなせる訳はなく更に時速140km に手も足も出ず、この球を打つには技術だけでは太刀打ち出来ない事を思い知らせてイチから体力作りに取り掛かる。この体力作りを担当するのが国士舘大学時代はレスリングの選手で蔦監督が全幅の信頼を寄せている体育教諭の高橋由彦先生。「平凡な外野フライがあと10㍍伸びるようにしてくれ(蔦監督)」と3年前に求められたのが体力作りのキッカケだった。

自動車のタイヤ引き走り50㍍を5回、ハードル30台跳びを5回、自動車のタイヤにロープを結び手元の棒に巻き付けて手繰り寄せるのを2回、学校の西側にある山まで往復5km を20分以内に帰って来る…等々。勿論、腕立て伏せや腹筋もやる。こうしたトレーニングを月曜日から木曜日まで繰り返し、ようやく金曜日に打撃練習をやる。「最初はプロ野球球団の練習メニューを入手し参考にしたけどコレと言って役に立つものは無かった。そこで独自のメニューを考案したんです(高橋教諭)」 だそうだ。辛いトレーニングをこなし待ちに待った金曜日の打撃練習にも独自のシステムがある。ピッチングマシーンと2人の打撃投手の3ヶ所で行うのだが選手は先ずマシーンと対する。そこで打てないと判断されると蔦監督から「もうエエ、守備につけ」と命じられて打撃練習は終了する。次の打撃練習までの一週間また体力強化に努めるのである。更にただ単に安打性の打球を飛ばせばOKではない。バットの芯で捉えて「カーン」という打球音を響かせないと直ぐに次の選手と交代させられる。池田高校の打撃練習中は絶えず軽快な打球音が響き渡っていて、それが「やまびこ打線」と呼ばれる所以でもある。

池田式トレーニングのお蔭で選手達の体力は顕著に増した。一例を挙げると江上は入学した頃の背筋力は150kg から200kg に、水野も130kg が185kg までアップした。水野に関して蔦監督は「アイツは甲子園で時速145km を放っておったがまだまだ伸びる。夏までにもう一度体力アップさせて150km を投げさせてみせる」とセンバツ大会優勝後に語った。高橋教諭も「体力を更に強化していけば変化球のキレも増すし連投なんか屁でもない。球威が試合の後半で落ちる原因はスタミナよりも握力低下のせい、だから夏の大会まで徹底的に鍛える」と。投手希望の新入生は先ずスピードガン測定を受けて 120km 以下だと野手へ転向させられる。「可哀そうと思われがちだが、ある程度のスピードがないと通用せず本人もそのうちにやる気を失くし脱落しかねない。せっかく池田高校に入学して野球部に入ってくれたのに無気力な3年間を過ごさせるのは気の毒」という思いからだそうだ。120km の球を投げられる新入生なら3年生になる頃には 140km 以上投げられるようにしてみせる、と言う信念から池田式トレーニングは導入された。
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# 339 開幕一軍 ・ ベテラン編

2014年09月10日 | 1983 年 



平松政次(横浜大洋)…昭和45年に初の開幕投手を務めたのを含め過去9回も栄誉を手にしたエースが屈辱の開幕二軍スタートとなった。春季キャンプ中に痛めた右足太腿内転筋が癒えずプロ17年目にして最大の危機に直面している。平松にとって今年は名球会入りへカウントダウンの年であと8勝で有資格者となる。「200勝は僕にとって達成出来たら即ユニフォームを脱いでも構わない、と言うくらい野球人として大目標。今年のキャンプは開幕投手よりも名球会入りを念頭に調整してきた」と本人は開幕投手の座を逃した事は大して気にしていない。関根監督も「草薙キャンプでは肩作りよりも体力増強に終始してきた。あれだけのベテランだし実戦登板はそれほど必要ないでしょう」とジックリ待つ覚悟は出来ている。

カミソリシュートを武器に開幕戦では過去5勝4敗と勝ち越している。昭和56・57年は後輩の斎藤明に譲ったとは言え、平松にはこれまでの大洋投手陣の屋台骨を支えてきたプライドがある。ただし投手として峠を過ぎている事は本人も自覚しており、焦りと苛立ちがジワリと襲って来ているのも事実。キャンプ終盤からオープン戦期間にかけて100球前後の投げ込みを開始し肩の状態も上々だった。しかし右足内転筋の痛みはなかなか引かず「自分でも歯痒くて…身体は六分以上は出来てきたけど右足がね。軸足だけに慎重にならざるを得ない」と唇を噛み締めた。

" ガラスのエース " などと有り難くないニックネームを付けられたりもしたが、まがりなりにも190勝以上してきた平松が開幕メンバーから漏れたのは初めて。本人なりの考えでは一軍復帰は5月に入ってからと想定している。" あと8勝 " に万全を期す為に4月を棒に振るのは本人にもチームにとっても苦渋の選択だった。昭和45年(25勝)・46年(17勝)は最多勝、他にも沢村賞や最優秀防御率賞などのタイトルを手にしてきたベテランが世代の移り代わりを感じながらの二軍スタート。斎藤明、遠藤、門田らが主戦となる投手陣では浮いた存在になりつつある男が二十近く歳の離れた若手に混じって血の汗を流している。



高橋一三(日ハム)…「自分としては納得している。100%の力を出せない以上はお情けで一軍に入れて貰っても仕方ないし、それに今のウチはそんな甘いチームではない」 日ハムに移籍して8年、通算19年目のベテランらしく淡々と自己分析をする。一方で開幕二軍は本人にとって悪い事ばかりではない。巨人時代のプロ入り2年目の昭和41年と44年の二度、開幕一軍を逃しているが両年とも5月には昇格し41年はプロ初勝利、44年には22勝5敗・防御率 2.21 で最多勝と最優秀防御率賞、沢村賞にベストナインなどタイトルを総なめにした。勿論、今の自分にあの頃の若さは無い事は分かっているが多少の出遅れに焦りは感じていない。

二軍落ちの原因は左足の肉離れである。3月21日からの岐阜遠征中にふくらはぎを痛めて22日に予定されていた先発登板は流れ、それ以降は治療に専念せざるを得なかった。30日の西武戦で復帰し3回1/3 を投げて1失点だったが球威は戻らず6安打を許すなど内容は今一つで二軍落ちが決まった。思えば昨年は開幕投手を仰せつかったものの直前に盲腸を患い、薬で痛みを散らしながら暫く投げていたが本調子には程遠く結局シーズンを通して調子は戻らなかった。その反省から今年は先ずベストの体調に戻す為の二軍スタートとなった訳だ。

昭和53・54年の2年間は腰痛が悪化し引退を考えるほどの状態に追い込まれた。「あの時と比べたら走れないのは同じだけれど上半身の筋肉強化は出来るし深刻じゃない」と手応えがあるようだ。怪我さえ治れば昭和56年に14勝して日ハム球団初優勝に貢献したように復活出来ると考えている。ただし若手投手の台頭もあって体調が戻っても無条件で一軍に復帰出来る保証はされていないが、ひとたび投壊状態に陥ればベテランの経験と力は大きな武器になる。したたかな投球術を必要とする場面が来る可能性は大いに残されている。



池谷公二郎(広島)…開幕に向けて調整するグラウンドのナインに背を向けてうつむき加減にロッカールームへ急ぐ池谷。二軍落ち・・・。若手ならいざ知らず、沢村賞に輝いた事もある男だけに「今のままではチームに迷惑をかけるだけなので覚悟は出来ていた。でもいざ決まると寂しい…」とショックは大きい。池谷の二軍落ちを決定的にしたのは3月13日の近鉄戦、5回から登板したが5安打のつるべ打ちを喰らい1回もたず5失点。試合後の古葉監督は「感想?それ以前の問題」と斬り捨てた。「今迄ならファールになっていた高目を簡単に運ばれたのは球に力が無いからでしょうね」とマウンド上で茫然と打球を見送っていた池谷は、この時すでに二軍落ちを予期していたのかもしれない。

実は池谷の不調は昨年から続くものだった。昨シーズンは僅か1勝、それも中継ぎ登板で降雨コールドゲームで転がり込んできた1勝で「何もしなかった1年(池谷)」だった。危機を感じた池谷は夏以降、しばしば戦列を離れて再起を図った。四国の著名な整体師を訪ねて身体中隅から隅までチェックしたり投球フォームの改造にも着手していた。若手に混じり秋季キャンプにも参加して、テークバックの際に一瞬右腕を止めていた独特のフォームを長谷川臨時コーチと共に滑らかな動きに変えた。古葉監督も「V奪回の為には池谷は絶対に必要」 として数球団から申し込みがあったトレード話を断っていた程だ。

本来なら今年の春は池谷家にとって待ちに待った季節の筈だった。長男の龍一君の小学校入学を家族全員で心待ちしていた。だが池谷家の大黒柱の二軍落ちでお祝い気分は吹き飛んでしまった。「このままでは終わらん(池谷)」ことは周囲の誰もが信じている。「二軍の朝は早いんですよ。息子と一緒に起きて朝ご飯を食べて家を出て帰りも大体同じ時間。まぁ良いパパをやってますわ」と本人は努めて明るく振舞うが、古葉監督は「次に一軍に上がって来て同じ失敗は許されない」と明言しているだけに今年30歳、試練の10年目は甘くない。
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# 338 開幕一軍 ・ 若手編

2014年09月03日 | 1983 年 



駒田徳広(巨人)…この男、ひょっとすると野球の実力よりムードメーカーとして評価されての開幕一軍入りだったのかもしれない。オープン戦で甲子園球場を訪れた時の事、「僕の高校(奈良・桜井商)は弱くて甲子園出場なんて夢のまた夢だった。二軍に落とされたら二度とココには来れないから記念に土を持って帰ろう」と本当に甲子園の土をポケットに入れて周囲の笑いを誘った。ムードメーカーとして一軍入りした中畑の後輩と言える。その中畑よりスケールが一回り大きい。190cm,87kg という体格もさる事ながら飛距離もケタ外れで新外人のスミスも真っ青なのだ。

「生まれながらの長距離ヒッター。とにかく迫力満点。順調に育てば俺を超えるのも可能だよ」 リップサービス旺盛な長嶋さんの言葉ではない、沈着冷静で滅多な事は口にしない王助監督の発言だけに重みがある。王助監督が是非とも手元に置いて育てたいと一軍入りを果たした。しかし本人は「期待される大きいのがなかなか出なくてね…」オープン戦11試合で15打数7安打と結果を出したが本塁打がゼロなのが不満の様子で大きな身体を小さくしている。

左の一塁手で長距離ヒッターとなれば王助監督の後継者の有力候補だがその一塁レギュラーには中畑、控えに山本功と大きな壁が立ちはだかっている。駒田の素質を見抜いた王助監督は「確かに荒削りだが小器用に単打を稼ぐ事は望まず大きく育てたい」と期待も大きい。当の駒田は「与えられた打席を大事に思いっきり振りたい」と先ずはどの選手もが口にするような優等生の発言に続き「本音は遠くへ飛ばしたい。誰も真似出来ないくらいの一発を打ちたい。初安打は本塁打がいい」とビックマウス。王助監督の初安打も本塁打だったが後継者となるべき駒田がそれを再現できるか注目だ。



宮城弘明(ヤクルト)…いま思い出しても悔しい堀内投手コーチ(当時)の言葉が耳に残っている。「夕食を食べたら東京へ帰りなさい。明日からもっともっと練習して再び一軍へ戻って来られるように頑張りなさい」昨年3月、南海とのオープン戦後の宿舎で二軍落ちを通告された。宮城本人も二軍行きを薄々感じていた。中継ぎで登板していきなり四球・中前打で走者を溜めてダットサンに3ランを被弾。その前の巨人戦(平和台)でも原に場外3ランを浴びていた。

今年で3年目だが長いようで短い2年間だった。鳴り物入りでヤクルト入りしたが入団早々に鼻っ柱をへし折られた。とにかく投げる、打つ以前にまともに走る事が出来なかった。「ただデカイだけ」そんな陰口が耳に入ってきた。しかし、この男には身体に負けないくらい大きな負けん気があった。「自分で言うのも変ですけど上手くなっていく過程が自分にも分かりましたよ。本当に下手くそだったから当たり前かもしれませんけど」と最低ラインからのスタートに耐えた。それだけに昨年の二軍落ちは精神的に厳しかった。

「しばらく茫然として気力も萎えてしまって練習に身が入らなかったですね」 丁度その頃、母親・キヨ子さんが病に倒れた。東邦大学付属病院に運ばれ緊急手術、胆石だった。休日には必ず病院を訪れ母親を見舞った。ゲッソリと頬のこけた母親の顔を見る度に「早く安心させなくては…」と心に誓った。入院期間は4ヶ月に及んだがその4ヶ月間で宮城は4勝無敗と結果を出した。「忘れもしません、日ハムとの最終戦に退院したばかりの母親が見に来たんです。10㍍を歩くのもキツイ状態だったのに。その試合で完投勝ちして8勝目をプレゼントする事が出来ました」

その母親の健康も快復しつつあり息子の今季に気を揉んでいたが宮城はオープン戦で良かったり悪かったりと不安定だったものの、何とか一軍に滑り込んだ。「心配かけちゃったかなぁ」と巨体を小さく縮めてペロッと舌を出した。貴重な左腕で将来のヤクルト投手陣の屋台骨を支える逸材である事に間違いない。武上監督も「ジャンボ(宮城)は今年一軍で揉まれて化ける可能性を大いに秘めている」と期待が大きい。剛球と大・小2種類のカーブ、フォークボールを武器に一軍切符を手にしたジャンボ機は再び離陸した。



定岡徹久(広島)…今季の広島は4人の新人を開幕一軍に入れた。その中に定岡の名もあり周囲は早くも兄・正二(巨人)との兄弟対決実現に大騒ぎだが、本人はいたって冷静に「先ずは目標だった開幕一軍が果たせて嬉しい」と語るだけ。早ければ4月19日からの3連戦で顔合わせがあるかもしれない。父親の清治さんは「徹久の広島入団が決まった時は正二との対決はもう少し先の事かなと思っていました。どちらを応援するかって?そりゃあ徹久ですよ。もう正二は独り立ちしてますからね」と嬉しさを隠せない。

徹久にとって長兄・智秋(南海)、次兄・正二の影響は大きい。「何となく野球を始めたのも兄貴たちがやっていたから。2人が揃ってプロ入りしたから自分も行けるかなという感じでしたね」 鹿児島実業高卒業時に幾つかのプロ球団から誘いがあったが専修大学に進学したのも「打者なんだから4年間大学でやってからでも遅くない」とのアドバイスを受けたからで「現役のプロ野球選手2人が言う事ですから間違いない」と。プロ入りに際して2人の兄から贈られた言葉は「信念を持ってやれ」だった。ことほど左様に兄の存在は大きく、言葉を変えれば2人の兄は常に三男坊の事を気にかけていたとも言える。

「球場で兄貴(正二)と会っても僕は変わらないと思いますよ。向こうはどうか分かりませんけど」と定岡は "その日" を空想する。広島にとって兄・正二は天敵である。昨シーズンだけでも7敗、通算勝利数の半分以上を献上している。弟の存在が天敵攻略の糸口になってくれればと考えて獲得したのでは、と勘ぐる球界関係者もいるのも事実。そんな思惑とは別に今や定岡は広島にとって欠かせない戦力になっている。入団前から守りと走力は折り紙つきだったがオープン戦で衣笠と並ぶチームトップの本塁打を放つなど打撃の評価も高まり「入団発表で見た時はひ弱そうな第一印象だったけど見事に裏切ってくれた」と古葉監督も目を細める。「カープの一員として "定岡投手" を打ち崩してみせます」と弟はキッパリと宣戦布告。兄貴たちに追いつき追い越せと三男坊はいざ出陣する。
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