納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
「やっぱり菊さんだ。恐れ入ったよ」とは根本管理部長。この発言を聞いた在阪の記者達は今回の桑田盗りに伊藤菊雄巨人スカウト部次長が深く関わっている事を思い知る。昭和40年からドラフト制が採用されてスカウトの仕事は一変した。極端に言えば自らの手足をもがれてしまったも同然。自分の目と足で逸材を発掘してもドラフト会議で他球団に指名されてしまえばもう手は出せない。そんな状況が続けば汗水流してスカウト家業を続ける気が失せ、スカウトのサラリーマン化が顕著となるのも必然だった。だが伊藤は自由競争時代の生き残りだ。新たな時代にスカウトが自己を主張するにはどうすればいいかを考えてきた。その結果「昔は実力と人気のある選手をいかに安く手に入れるかがスカウトの仕事だった。しかしドラフト以後の役割は、いかに他球団に指名させないかに変わった。私はこれにスカウト生命を賭けています」とのスカウト哲学に至った。
自由競争時代の昭和36年には関西大学の村瀬投手を中退させシーズン終盤の逃げ切り役を任せて川上巨人を初優勝に導いた。最近では当時PL学園の吉村選手の法大進学説を広めたり、水野投手に巨人以外はプロ入りしないと言わせて巨人に入団させた。まさに今回の桑田盗りはその典型的なケースであったのだ。伊藤はPL学園に桑田・清原が入学し頭角を現すと2人まとめて巨人に入れようと考えた。スカウト人生の集大成として。だが同じことを考えている人間がいた。西武の根本管理部長である。実は今回の早大進学に関してもう一人別の人物が関係している。岡山にある社会人野球チームのX氏だ。X氏はプリンスホテルが社会人野球に進出する際に関西方面で選手集めに奔走し、根本管理部長や堤オーナーとも懇意にしている。そのX氏の働きで桑田が早大進学すれば4年後には西武とプリンスホテルのガードでがっちり固められて巨人が手を出す隙間はなくなってしまう危機感があった。
では清原の方は?正攻法でドラフトに挑めば獲得できる確率は低い。下手をすれば2人とも西武に持って行かれるかもしれない。事実、西武は今回のドラフトで清原を手中にした。こうなると2人のうちどちらか1人という方針に変更せざるを得ない。ではどちらか?投手不足というチーム事情もあるが、人気選手は他球団に渡さないという伊藤個人の思いが桑田を選択させた。伊藤が桑田サイドにどのように接触をしたのかは闇の中だが息子の啓司君をPL学園に入学させたことで父親の泰次さんと繋がりが出来たのは間違いない。この啓司君と桑田の弟・泉君は福岡で行われた少年野球大会でプレーしており、そこでの父親同士の接触があったかもしれない。今回の桑田盗りは巨人のというより伊藤のスカウト生命を賭けた大仕事だったのではないか。伊藤は大役を果たした心労からドラフト会議後に胃痛を起こしたと報じられたが、実際は祝杯の水割りを10杯も飲んだのが原因だった。戦後の高度経済成長を生き抜いてきたモーレツ人間らしい話である。
今回の騒動の中で一番つらい思いをしたのは清原であろう。母親の弘子さんによると清原は子供の頃から巨人のユニフォームを模したパジャマで寝るほどの熱烈な巨人ファンだそうだ。その巨人ファンが巨人に袖にされた。それも初めから「君はいらない」と突き放されたのなら諦めもつくが、ドラフト直前まで指名するかのような素振りを続けた。しかも王監督は「清原君になら背番号1を譲っても構わない。フロントから要請があれば僕が交渉に乗り出してもいい」とまで明言していた。確かに巨人は正式には1位指名選手の名前は明かしてはおらず、清原に1位指名の確約もしていない。「和博が勝手に恋をして失恋した感じ」と弘子さんが言うように清原の片思いだった。しかし心優しい少年の心を傷つけてしまった巨人の罪は重い。弘子さんは続けて言った。「勝手に惚れてフラれただけ。その傷は自分で治すしかない」と。そう、清原が巨人を見返すには西武に入って大打者に成長し、日本シリーズで叩きのめすしかない。1日も早い " 西武・清原 " の誕生を願う。
貧すれば鈍すというべきか・・巨人が早大進学説を強く打ち出していた桑田真澄投手を強引に指名、桑田は巨人という強いブランドの前に遂に早大受験を断念した。巨人は桑田の親友・清原和博内野手が巨人を熱望したにもかかわらず指名せず、桑田盗りに出た。スカウティングの勝利と言えばそれまでだが若人の心を弄んだ責任は大きいと言わねばなるまい。いったい巨人の桑田ジャック、そして清原騙しとは何だったのだろうか真相を探る
初めから巨人を熱望していた桑田
桑田ジャックのクライマックスは11月23日夜の東京・品川にある日本鋼管「高輪クラブ」での三者会談だった。三者とは早大野球部監督・飯田 修氏、東京六大学野球連盟事務局長・長船騏郎氏、そして桑田本人。この三者会談に臨んだ桑田以外の二人は早大受験の最終打ち合わせ並びに大学入学後の生活についてを話し合う場だと思っていた。桑田の23日の上京に際して早稲田側に受験の断りを伝えに行くのでは、と一部報道がなされたが桑田本人が大阪空港で「僕を信用して下さい。ずっと早稲田に行く気持ちでしたから、1日や2日で変わったりしません」と明言したので憶測は消えた。ところがである、会談の席から抜け出てきた長船氏が「巨人は強いね。さすが盟主だよ」と溜め息まじりに呟いたのを聞いた報道陣は事の重大さを悟ることとなる。
桑田はPL学園野球部関係者や両親さえ交えない敵陣に単身乗り込み「巨人へ行きたい」と一貫して主張し続けたという。今回の騒動の中で桑田が最後に見せた男らしさ、潔さだった。しかし多くの記者は騙された感を拭いきれず会談後の会見で「早大に行くと言っておいてこれでは嘘をついていたということではないか」と詰め寄った。これに対して桑田は「早稲田に行きたいとは言ったが巨人に指名されたら行かないとは言っていない。僕は以前から巨人は清原君を指名するのではないか、と言い続けてました。嘘をついたと思われるのなら仕方ない」と言い切った。これは開き直りというよりも桑田本人の正直な気持ちであったろう。長船氏によれば桑田は「巨人に行きたいけど早稲田を受験するつもりで上京した」と話したそうだ。それが世話になったPL学園に対する最低限の義理と考えたようだった。
「狂喜・歓喜・乱舞」の正力オーナー
だが巨人に行きたい、けれど早稲田も受験するでは混乱が増すばかりであると判断した飯田監督と長船氏は諦めざるを得なかった。桑田が早大受験を取りやめると発表している頃、巨人軍の王監督はじめ首脳陣や正力オーナー、長谷川球団代表らが東京・紀尾井町のホテルニューオータニに集まっていた。何かを画策していたのではなく戸田一軍担当の長女・智子さんの結婚披露宴に出席する為だった。品川の三者会談と比べると何とも穏やかな雰囲気だった。意地悪な見方をすれば17歳の少年に全てを押し付けているかのようであり、どうか上手くやってくれ後は結果待ちというズルイ?やり方に見えてしまう。桑田が早大受験をやめたとの巨人にとって最高の結果を知らされた正力オーナーは「それが事実なら狂喜・歓喜・乱舞の気持ちです。王監督が描いていた投手王国再建に桑田君が加われば万々歳」と高笑い。
話を11月20日のドラフト会議当日に戻そう。巨人が桑田を指名した時、多くのスポーツ紙の記者は「やっぱり」と思ったそうだ。記者達は巨人と桑田サイドの " 密約 " を疑っていた。しかし確証を掴めない。逆に早大進学の方が確度は高かった。何しろ11月12日に早大・飯田監督がPL学園を訪れて桑田本人、父親・泰次さん、母親・敏恵さん、PL学園・中村監督、高木野球部長が同席のもとで早大受験の確約を得ていたのだ。天下の早稲田大学がイチ受験生にここまで配慮をした話は聞いたことがない。そのような状況下で『桑田巨人入り』と見出しを付ける勇気のあるスポーツ紙はなかっった。「やられた!」と地団駄を踏む記者がいる一方で、一人冷静に「お見事です。大したもんですな」とニヤリとしたのが西武・根本管理部長だった。西武は桑田の早大進学話にも関わっており桑田盗りレースでは巨人の先を行っていた。根本管理部長の言った「大したもん」とは遅れをとっていた巨人の巻き返しを指しての発言だった。
11月20日、東京のホテルグランドパレスで今季のセ・パ両リーグのMVPなど諸々のタイトルホルダーやベストナインの表彰式が行われた。いわばプロ野球界の優等生が一堂にステージ上で顔を揃えた。このホテルでは同日の昼間にドラフト会議が行われた。そこでステージ上の選手らがドラフトに指名された当時を思い出した。
三冠王に輝いた落合選手(ロッテ)は3位指名だった。あれだけの選手がロッテに指名されるまで他球団は見向きもしなかった。決して中央球界で無名であった訳ではない。アマチュア全日本チームの四番を務めていたにも拘らず指名されなかった。落合のようにドラフト3位指名選手はプロ入り後に好選手になるケースが多々ある。今季セ・リーグの盗塁王・高橋慶選手(広島)、ベストナインの高木豊(大洋)、21年ぶりの優勝に貢献した真弓選手(阪神)、パ・リーグの新人王・熊野選手(阪急)も全員揃って3位指名だった。日本シリーズで戦った阪神と西武の主力にも。阪神では弘田選手、北村選手、山川選手。西武は高橋投手、永射投手やトレードで中日に移籍した杉本投手や大石選手。巨人では中畑選手、角投手、宮本投手、売出し中の吉村選手など。
広島では左の先発で頭角を現し始めた高木投手や長内選手。大洋では昨季の最多勝投手の遠藤投手、田代選手。中日は昨季の本塁打王の宇野選手、大島選手、石井選手。ヤクルトは2千本安打の若松選手。パ・リーグではロッテの水上選手、庄司選手。阪急は昨季の新人王の藤田選手、弓岡選手。近鉄は今季レギュラーとなった村上選手。南海は山内孝投手、河埜選手、池之上選手。日ハムは若きエース・津野投手など多士済済。ドラフト制度は昭和40年から始まり今年で21年目だが昨年までの20年間で3位に延べ250人(昭和41年は二度開催されたが南海と近鉄は二度目のドラフト会議では3位指名は無かった)の選手が指名された。
その250人中、プロ入りしてタイトルを獲得もしくはベストナインやオールスター戦に選出されたり日本シリーズに出場した選手は40人を超える。一軍に昇格するだけでプロの世界では成功者と言えるが、それ以上のいわゆるエリート選手になる確率が16%とは目を見張る数字だ。ドラフト1位指名選手の多くは即戦力という完成された選手であるのに比べて3位指名選手は将来性で選択される場合が殆どである。いわば各球団のスカウト達の腕の見せ所とも言える。ちなみに3位指名選手だけでベストオーダーを筆者が独断と偏見の個人的意見で組んでみると
(右)真弓
(遊)高橋
(左)若松
(三)落合
(一)中畑
(中)大島
(二)高木
(捕)藤田
(投)遠藤 代打陣に宇野・吉村・長内・弘田・・・なかなか魅力的なチームである。
去年のドラ❶ 田口竜二:「ただやるだけです」と繰り返す表情にプロの自覚が出てきた
" ホラ吹き " とか " 大口 " とか言われた田口投手。自主トレの時は言いたい放題だった田口もプロの厳しさを実感し今や「ただやるだけです」とおとなしく殊勝になった。中モズ球場で始まった秋季キャンプ、練習後にアンダーシャツを着替える田口の胸には縦20cm ほどの手術跡が残っている。「田口投手が入院しました」と球団が発表したのは7月10日のこと。肺に穴が開きガスが溜まるという「突発性気胸」に襲われた。手術を受け退院したのが8月12日。練習に復帰出来たのは9月3日、全て最初の体力作りからやり直し。入団1年目の選手にこのブランクは大きかった。以降の田口はテープレコーダーのように「もう何も言いません。ただやるしかないんですから」と繰り返すばかりだ。
「僕は自信がある」「空手をやりたい」「女の子には興味がない」だの言いたい放題のコメントはマスコミの良い餌食となった。中モズの秀鷹寮に入寮したのは1月9日、練習に参加した田口の体重は100kg 近くあった。ランニングをすれば足の痛みを訴えてリタイア、ウェートトレーニングをすれば直ぐにギブアップ。「大口を叩くのは練習を満足にこなしてからだ」と直ぐに二軍首脳陣からクギを刺された。「球団からあまり余計な事は喋るなと言われてますから」と田口の口数が少なくなったのはその頃からだ。スポーツ紙やテレビに報道される機会が少ない南海にとってマスコミ受けが良いと最初は田口の放言を大目に見ていた球団も大ナタを振るった。そこに病気療養が重なり田口がメディアに登場する機会は更に減ってしまった。
心機一転、秋季キャンプではブルペンに入ってカーブを交えて50球ほど投げた。「田口は良くなってるよ。来年の夏にはファームの試合に登板できるんじゃないかな」と林二軍投手コーチ。練習を見ていたファンからは「な~んだ、田口は元気じゃないか」の声が上がると田口はニタッと笑って応えた。一方で「田口の課題は左肩がガクッと下がってそっくり返って投げる投球フォームのせいでコントロールが安定しないこと。いいカーブを投げるんだからコントロールさえつけば一軍でも勝てる(林コーチ)」と修正点を指摘する。病気のせいで体重は84kg まで落ちた。その体重を維持するよう命じられた田口は「体重の話はもうウンザリ。雑用ばかりさせられて、やっぱりプロは勝たなくちゃ」と大口も少し復活してきた。
【 運命のドラフト当日:定岡智秋 】
定岡選手がドラフト指名されたのは昭和46年。その時の南海は9位まで指名したのだが定岡は3位だった。1位は野崎投手(富士重工)、4位は片平選手(現西武)、6位には山本選手(現巨人)らが指名された。「あの日のことは今でも鮮明に憶えていますよ。学校の授業が早く終わったので友達の下宿先に寄ったんです。他愛のない話をして家に帰ったのは夜の7時くらいでした。そうしたら家に新聞社の記者さんが来ていて、あぁ指名されたんだ、と思いました。指名されても下位だろうと思っていたので3位指名には驚きました」と当時を振り返る。「甲子園にも出てないのに指名してもらえて嬉しかったですね」だそうだ。
去年のドラ❶ 河野博文:よくやった!あとはシーズンを乗り切る体力つけねば
先ずは河野投手自身に今年1年を振り返ってもらいましょう。「自分としてはまずまずの成績だったと思います。特に前半戦は。でも後半戦はキツかったです。学生時代には経験しなかった1年を通して投げるペース配分が分からずバテてしまいました」と話す。確かにその自己分析通りだった。前半戦は持ち前の背筋力200kg から投げ下ろす伸びのあるストレートと落差の大きいカーブを武器にローテーション入りを果たした。5月1日の西武戦では " オリエントエキスプレス " の郭投手と投げ合いプロ入り初勝利を完封勝利で飾る快挙を成し遂げた。西武戦に強く、「レオキラー」と称されたりもした。
ところが7月を過ぎると疲労から左肩の張りを訴えるようになり次第に前半戦のような勢いは影を潜めるようになる。そして8月21日のロッテ戦で8勝目をあげて以降は勝てず4連敗を喫する事となり、そのままシーズン終了を迎えた。「1年間を乗り切る体力をつける重要性を痛感しました。来季に向けて克服すべき課題です(河野)」と。一方で高田監督ら首脳陣は河野の1年目をどう評価しているのか?「言うこと無いよ。新人でローテーションに入った。当然プレッシャーもあったろうけど結果を出した。そりゃ後半戦は物足りなかったけど新人にこれ以上を求めるのは酷と言うものだよ(高田監督)」と手放しで合格点を与えた。
防御率 4.17 は佐藤(阪急)、村田(ロッテ)を抑えて堂々の9位。2桁勝利こそ逃したが柴田投手に次ぐチーム2位の8勝は熊野選手(阪急)や横田選手・荘投手(ロッテ)らと共に新人王候補であった。来季に向けて秋季キャンプで練習に励む河野に対して大石投手コーチは「樹で言う所の " 幹 " のストレートとカーブをもう一段磨くのが大事で " 枝葉 " のフォークボールなどは特に覚える必要はない。」
【 運命のドラフト当日:田中幸雄 】
昭和56年11月24日。田中投手が日ハムに1位指名された日だ。その年の1月には早々と三沢スカウト課長から1位指名の確約を得ていたとはいえ、口約束であり反故にされる事例は過去に幾らでもあったので田中自身も当日はドキドキしながら所属先の電電関東の野球部長室のテレビの前で結果を待っていた。「その年は日ハムは優勝したので指名順番は11番目。やっと日ハムの番になり自分の名前が呼ばれた時はホッとしました」あれから4年、6月9日の近鉄戦で史上55人目となるノーヒット・ノーランを達成するなど成長した田中の来季も明るい!