Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#104 1979年 ドラフト会議  注目は岡田 (早大) と 木田 (日本鋼管)  

2010年02月22日 | 1979 年 





この年のドラフト候補選手は開催前から不作と言われていましたが、いま振り返って見ても不作と
言うより凶作でした。指名人数が1球団4人までと限定された為、即戦力を確保するのが優先されて
高校生の指名は26人に留まりました。高校生を1位指名したのは5球団でしたが成功と言えるのは
中日・牛島投手くらいです。一方、大学・社会人も人材は豊富とは言えませんでしたが、前評判通り
阪神・岡田、日ハム・木田は新人王に相応しい成績を残しました。 指名人数枠が少なかった為に
ドラフト外で選手を取り合いをする事もあり、 ドラフト下位指名選手よりも契約金が高くなる現象も
起きました。また目玉の岡田・木田は指名後も話題に事欠きませんでた。

岡田は子供の頃から阪神ファンで阪神入りには何の障害もありませんでした。1億円とも言われた
契約金についても 「片手くらいやったみたいですよ」 と金銭条件は二の次といった口ぶりでした。
大阪で事業を営み阪神のタニマチ的存在だった父親・勇郎氏は指名の挨拶に来た小林スカウトに
入団する為に二つの条件を出しました。➊三塁手として起用すること ➋合宿には入れず自宅から
甲子園球場へ通わせること、の二つです。球団側はこの条件をアッサリと認めてしまいましたが、
チーム内やOB連中からは批判の声が上がりました。➊は掛布という この年 本塁打王のタイトルを
獲得したレギュラーがいます。掛布は大人の対応をしましたが、波乱を期待するマスコミのヤジ馬
連中は早くも「掛布vs岡田」を煽り、➋については「子離れしろ」と世間からも批判されました。

前年の広島指名を拒否し、「在京のセ」を希望していた木田勇投手は日ハムに指名されましたが
こちらでも父親が交渉の場へ登場しました。指名の挨拶に訪れた三沢スカウトに対して 「本人が
嫌だと言っているのに何故指名したのですか」と気色ばんで抗議しました。当初は拒否の姿勢を
見せていましたが時間が経つと徐々に軟化していきました。最後は条件面の駆け引きとなり木田は
「都内に両親と住める土地が欲しい」と要求しましたが、日ハム側が意図的 ? にその事を外部へ
漏らした為、木田側は世間からの批判に晒されました。予想以上のバッシングに慌てた木田側は
土地の要求は取り下げて契約し入団しました。







日ハム・木田          阪神・岡田

ロッテ・竹本        中日・牛島   南海・香川(2位指名)



近鉄・藤原     巨人・林      大洋・杉永

南海・名取    広島・片岡    西武・鴻野   ヤクルト・片岡   阪急・木下





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# 103 " 巨人寄りの審判員 " で 朝日 vs 讀賣 の場外乱闘  

2010年02月15日 | 1979 年 




1979年10月4日、テレビ朝日の「溝口泰男モーニングショー」で野球ファンを名乗る人物が
一昨年、セ・リーグのある審判員 (後に平光氏と明かす) から巨人戦入場券を1枚2万円の
ヤミ値で6枚購入したと告白しました。'79年当時 マスコミは 「巨人寄りの審判員」 検証を
行なっていて、この件は巨人との癒着をあらわす一例としてテレビ朝日は番組で取り上げました。
「モーニングショー」という番組は芸能ネタ専門のワイドショーではなく、時事・社会問題も扱う
硬派番組でした。それだけに反響も大きくセ・リーグ連盟も調査に乗り出しました。



「巨人寄りの審判員」の放送を見た視聴者から「私はA審判から巨人戦のヤミチケットを買った」というタレ込みが番組にあり
さっそくインタビューし放送しました。「2年前にA審判から1枚2千円のチケットを2万円で6枚買った」 「最初は知人を通して
その後はA審判の自宅で直接買いました」と証言。ところが番組を見た告発者の知人がテレ朝ではなく産経新聞社に連絡し
新聞社から告発者の身元を知らされたたセ・リーグは鈴木会長が直々に、この告発者と対面しました。この会談で放送された
以上のモノは出てこず、後日あらためて会うとの約束をしてこの日の会談は終わりました。

平光審判員は「事実無根」と反論しましたが、告発者の発言が確認されるまで自宅待機となり世間から疑惑の目で見られる
ようになりました。2日後、約束の場所に告発者X氏は現れませんでした。昼過ぎにX氏からセ・リーグ事務所に電話が入り
夜7時に東京・芝のグランドホテルで会うことになりました。ところが7時を過ぎてもX氏は来ません。マスコミがX氏の居所を
探索したところテレビ朝日にいるらしいと分かり、記者が局に押しかけました。報道陣はX氏の会見を要求しましたがテレ朝の
広報担当者は「局にはいない」の一点張り。しかし やがて それも嘘と分かり、午後9時過ぎになって番組プロデューサーに
付き添われてX氏が会見場に現れました。

会見ではX氏が番組で語った内容について質問が相次ぎ、買ったとされる席は年間予約席で定価は設定せれておらず
2千円との根拠は?との問いに、「2千円が相場だと思った」とあっさり前言を撤回。買った場所や回数もくるくる変わり、
平光審判員の自宅の場所も知らないと白状しました。追求は番組プロデューサーにも向けられ、訂正と謝罪を繰り返して
とうとう最後に「X氏の言い分を全て信じて何の裏付けも取らずに放送した」と驚き発言。



一人の人間が社会的に抹殺されかねない問題の事実関係を、何ひとつ検証する事なく放送して
しまったテレビ朝日は、X氏以上に批判の的となりました。朝日vs讀賣の対立構図が透けて見え
ますが今回は朝日側の完全な勇み足でした。現在では定価を上回る闇値どころかチケット屋で
叩き売り状態な巨人戦チケットですが当時は入手困難なプラチナチケットだったようです。この後
しばらく讀賣は新聞・テレビを使って朝日批判キャンペーンを大々的に繰り広げたそうです。 何の
確認もせず放送してしまうモラルを欠いた朝日と、そんな溺れかけの同業者をコレ幸いと執拗に
攻撃する讀賣。情けないですが、我が国の主要メディアは目糞・ハナ糞状態という事でしょうか…
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#102 球団初の日本一を成し遂げた監督の解任劇 ②

2010年02月10日 | 1979 年 





今回の退団劇の背景を広岡自身が手記として発表しました。それによるとヤクルトというチームは
万年Bクラスの環境にドップリ浸かり、「甘え」 「なぁなぁ精神」の巣窟だったそうです。4年をかけて
チーム改革を断行しましたが長年かけて築き上げられた「ぬるま湯」体質を変える事は出来ません
でした。



「会社の事情もありますが適当に強く、適当に弱いのが丁度いいというのがオーナーの考えです。去年、巨人と凌ぎを削って
いた時、 "優勝は巨人でいい、ウチは2位で充分" との発言には怒りを通り越して体中のチカラが抜けました。勝つ為に妥協を
排し徹底的な基礎練習とストイックなまでの精神生活をチームの基盤にしようとしたが、一部のコーチや選手にはケムったくて
しょうがない。チーム内情をフロント幹部に、御丁寧に逐一報告する忠臣者もいて、球団全体が甘えの巣窟になっていました」



「甘え」の具体例として潰れたトレード話を紹介しています。ロッテの山崎裕之選手とのトレードが
両球団間で合意し、広岡ら首脳陣が米・ウインターミーティングから帰国後に新外国人選手入団の
紹介と同時発表する予定でしたが、帰国してみると話は御破算になっていました。ロッテは山崎に
通告し、山崎も移籍を了承。しかしヤクルトから出される選手が移籍を拒否、野球協約上 選手には
移籍を拒否する権利はありませんが、この選手はフロント幹部のお気に入りで泣きつかれた幹部が
独断でこのトレードを潰しました。

山崎は結局、新球団 西武ライオンズへ移籍しました。広岡によるとフロントに潰されたトレード話は
これだけではなく、南海・野村監督解任騒動で宙に浮いた柏原選手の場合は球団間で 「正式に」
決定したそうです。南海から森本球団代表・広瀬監督、ヤクルトからは相馬球団代表・広岡監督・
森ヘッドコーチの五者会談で合意し、さらに柏原とは別に交換要員次第では江夏投手のトレードも
検討するとまで話は進展しました。しかし3日後、江夏投手だけでなく決定した筈の柏原選手まで
御破算になってしまいました。やはりヤクルトから出される選手がフロントに泣きついたからでした。

「規律の緩み」の具体例は、当時ヤクルト投手陣は全員、試合後 対戦した打者とのデータを各自が
取って次の試合に投手陣全体で活用する方式をとっていましたが、遠征先の宿舎で森コーチがある
主力投手の部屋を訪ねてデータ分析をしようとしたところ、部屋のテーブルにはウイスキーが置いて
ありました。チーム内の規律で飲酒は外食時のみ許され、宿舎内では禁じられていました。 聞けば
遠征には常にウイスキーを携帯しているとの事。当然、その主力投手は規律違反で罰金処分を受け
ましたがフロントから注意を受けたのは、その投手ではなく森コーチの方でした。「大人だから」「気分
転換も必要」として、以後 チーム内で決めた規律は次第に有名無実化していき、チームの雰囲気は
元の万年Bクラスに戻ってしまったそうです。




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#101 球団初の日本一を成し遂げた監督の解任劇 ①

2010年02月04日 | 1979 年 





前年、球団創設29年目にして初のリーグ優勝と日本一を成し遂げた広岡監督が事実上、シーズン
途中で解任されました。ヤクルトは昨オフに広岡監督と3年契約を結びましたが、実は一部新聞で
広岡監督が退団を申し入れていたと報道されました。記事を書いたのが報知新聞でしたので当時は
巨人側の嫌がらせと考える向きが多く、12月に行なわれた「ヤクルト日本一祝賀パーティ」の会場に
取材に来た報知新聞の記者とヤクルト側とに一悶着ありました。しかし後日 広岡自身が発表した
手記によると、チームの有り方について球団との相違は大きく退団を申し入れたが「猛烈な慰留」が
あり監督続投を決めたそうです。

'79年のシーズンは開幕から低迷し続け、6月には球団から「コーチ陣の手直し」が提案されましたが
広岡は「成績不振の責任を取るのは監督である」としてオーナーに直接会い今季は「現状のまま」で
行く事で了承を取り付けました。しかし、8月7日に再び佐藤球団社長がコーチ刷新を提言。広岡は
オーナーの「了承」をたてに拒否しますが球団社長も引かず、広岡が「誰の意見か?」と問い質すと
「信頼すべき外部の第三者だ」 「球団内の人物でないからこそ冷静な判断が出来る」 として広岡の
意見を無視して森ヘッドコーチ・植村投手コーチの更迭を断行しました。

球団の独断人事に対して広岡は辞めざるを得ず、異例とも言える声明文を発表して退団しました。


  先般来、チームの成績不振を理由に佐藤球団社長から、森・植村両コーチを戦列から外し休養させるという方針が
  伝えられました。しかしチームの不振の責任はあくまで監督にあります。二人のコーチを外しチームの体制を崩すことは
  出来ないことを佐藤球団社長に力説してまいりました。ところが本日、私の強い要望を無視して両コーチの休養を直接
  本人たちに申し渡すという事態に至りました。私は球団社長に対し球団側の対応は遺憾であり、こうした状況下では
  指揮は執れないと申し上げたところ球団社長から直接「ならば、君は辞表を出したまえ」という発言がありました。  以下、略



しかし佐藤球団社長は広岡に対して「解任ではなく辞表を出せとも言っていない」と反論し、あくまで
広岡が自主的に辞表を出し球団がそれを受理しただけだと言い張りました。広岡は「解任された」と
言い、球団は「自ら辞任した」と平行線のままでした。コーチは解任でも監督は、あくまで "辞任" に
球団側がこだわったのは荒川前監督をシーズン途中で解任し広岡コーチを監督代行ではなく監督に
昇格させる際に広岡から契約金を要求された事がトラウマになっていたのかも知れません。広岡の
後釜に佐藤打撃コーチの監督代行を発表した際に記者から「解任していないなら広岡が再び指揮を
執りたいと言い出したらOKするのか?」との問いに答えられませんでした。   …つづく
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