納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
「行ってくるよ」「ハ~イ、行ってらっしゃい」…午前9時、佳子夫人に見送られて村上はいつも通りに家を出た。ここは米国のサンフランシスコ市サンマティオ。村上がこの地にアパートを借りてちょうど1ヶ月になる。昨年12月27日の出来事が無ければ今頃は日本でコーチ業に勤しんでいたに違いない。「これで良かったんだ」 村上はハンドルを握りながらそう自分に言い聞かせた。
「ウチの方針として初めてコーチを務める人の肩書きには『補佐』を付ける事になっている。それが受け入れられないのならコーチを引き受けて貰わなくて構わない。コーチになりたがっている人は大勢いますから」 「そうですか、では残念ですが今回は縁がなかったと言う事でお断りします」 日ハム球団事務所でのひとコマ。昨年に現役を引退した村上に日ハムは二軍投手コーチ就任を要請してきた。年俸は現役時代よりも下がるが800万円という金額は妻と子供2人の4人家族には充分な額だった。しかし、この話に村上は即答出来ず球団にかけあった。「その補佐の肩書きは取れませんか?」 「いいえ出来ません。ウチのしきたりですから受け入れて貰わなければ困ります」と返答は厳しかった。組織にはそれなりの決まりがあるのは分かっている。それがルールなら従わなければ規律が保たれないのも分かっている。が、自分の左腕1本でプロの世界で18年間頑張ってきた村上には他人から見ればそんな些細な事が我慢出来なかった。「何とかなりませんか?」となおも食い下がると「まぁ慌てる事はない。仕事納めの12月27日までゆっくり考えてから決めて構わないから」と返答を待ってくれた。
村上は自問自答していた。
「オイ、お前は800万円を捨てるのか?肩書きなんてグラウンドに出たら関係ないだろ」
「いや俺にもプライドがある。お金じゃないんだ」
「お金じゃないって家族はどうなるんだ、霞でも喰えというのか」
正直に言えば自分でも補佐でも仕方ないと頭では分かっていたが「お受けします」と口に出す事が出来なかった。最終回答日まで何度か球団とかけあったがお互い歩み寄る事が出来ずに12月27日が来てしまい結局、コーチ就任を辞退した。今でも六本木の球団事務所を後にした時の締め付けられるような不安を村上はハッキリ憶えている。出掛ける前に佳子夫人に「コーチを引き受けるか半々だよ」と言うと「いいわよ、あなたの好きにすればいいじゃない」 と答えていたが、いざ無職になった亭主が帰って来たら動転するに違いないと思うと足取りも重くなった。家に着き玄関のドアを開けると佳子夫人は全てを察したのか「さぁ明日から職探しを頑張りましょう。自分を捨ててまで我慢する事はないわよ」と明るく村上を迎えた。実際には年の暮れとあって職探しは正月明けから始める事となったが無職で迎える正月は心細かった。
1月中旬、かつて所属したSF・ジャイアンツに単身乗り込んだ。事前に連絡を入れた訳でもツテがあった訳ではなかった。飛行機のタラップを降りる村上のポケットには『やさしい英会話』と『和英辞典』が入っていた。「もしかしたら物乞いに来たのかと思われるかも…」と折れそうな気持を奮い立て「とにかく気持ちを伝えよう」とジャイアンツのオフィスに向かった。村上の心配は杞憂だった。オフィスに着いた村上を迎えた球団代表はかつて村上とバッテリーを組んでいたT・ハラー氏だったのだ。挨拶もそこそこに村上は訴えた。「お願いが有る、金をくれと言うのではない。寧ろバッティング投手や雑用をやるからジャイアンツで野球の勉強をさせてくれないだろうか」 ハラー氏は意味が理解出来なかった。英語が通じなかった訳ではなく合理的で契約社会で育った米国人に無報酬で構わないとする日本流の考え方が理解出来なかったのだ。ハラー氏はおもむろに尋ねた。
「ムラカミ、君はいつまで投げていたんだ?」 「去年まで日ハムというチームで投げていたよ」 「怪我をしていないなら投げられるんじゃないか、どうなんだ?」 「うん、だからバッティング投手をやりながらと言っているんだ」 「いや、私が言っているのは現役としてはどうなんだと聞いているんだ」 「肩やヒジは故障していないから投げられるけど昔みたいな速球は投げられない。今や変化球投手だよ」 「それならキャンプに参加してテストを受けてみろ。ホテル代と食事代は球団が持つからやってみないか?」 村上は不意を突かれて唸ってしまった。米国に来たのは指導者としての勉強をする為で自分にもう一度現役投手としてのチャンスが有るとはツユほども考えていなかったが投手としての本能に火が点いた。アリゾナ州スコッツディールで行なわれるキャンプに村上は参加する事に。毎年春先に悩まされる肩痛が嘘のように出なかった。
オープン戦にも登板しパドレス戦で1回を無安打に抑えるなど快調だった。キャンプには二十数人の投手が参加していたが3月末迄に次々と振るい落とされ最終的に10人が残る。何日かおきに3人、2人、2人、…と去っていくが村上はしぶとく残っていた。3月下旬になると12人になった。若手投手に転換中のジャイアンツにあって38歳の " ロートル " が残っている事自体が驚異であった。しかし3月28日、最後に落とされる2人に村上の名前があった。「やっぱりショックは有った。でも気持ちの切り替えも早かった。だって米国に来たのは指導者の勉強をする為だったから、いい夢を見せて貰ったよ」と屈託のない笑顔を見せた。現在の村上は昼間はジャイアンツの3Aでバッティング投手を手伝いながら若い選手と共に汗を流している。「実際に体験しながら覚えた方がいいからね。ネット裏で腕を組んで遠くから見るなんて事はしたくない」と語る。
だが密かに大リーグ復帰を夢見ているのも確かだ。昼間の練習を済ませると必ずジャイアンツ戦を見に行く。それはジャイアンツのオーナーが村上を誘ってくれるからだ。そのオーナーが「いいかいムラカミ、身体だけは鍛えておいてくれ。君も御存じの通りウチは先発投手陣が弱く中継ぎ投手の需要は多い。監督は若手を使いたいようだがきっと君の出番が来ると思うよ」と言ったのが現役復帰の拠り所だ。今年の5月には39歳になるが「よくその歳で頑張れるなぁと言う人もいるけど39歳はまだまだ若者ですよ。この先の人生を考えたら1年や2年なんてどうって事ない。子供たちも日本じゃ経験出来ない事を吸収して欲しい」と前向きだ。米国での費用は日本のマンションを売って工面したので日本に帰れば無一文の生活が待っている。「どれだけの事を勉強出来るか、それをどう評価してくれるかは僕の努力次第だね」…遥かなる男・38歳、まだまだ元気。
この号が発売される頃には、この『世紀のショー』とやらが終わって色々な話題を投げかけていると思われるが私は言いようのない虚しさを感じている一人だ。4月30日、西宮球場の阪急対西武戦の試合前に阪急の福本・蓑田・バンプの俊足トリオと競走馬を走らせ競わせるアトラクション。球団は「彼らの俊足ぶりをアピールするもの。まぁ一種のジョークと受け取って下さい」と言い、「面白い企画」と評価するファンも少なくないらしいが私は、かなしくなった。「悲しい」ではなく「哀しい」のである。3人が野球に対して真摯に向き合っている秀れた選手であるだけに余計に哀しい。
人馬競争なるものは1971年にオークランド・アスレチックスのキャンパネリス遊撃手がやった前例がある。今回の企画もそのショーを実際に見物した矢形球団取締役の発案で日本中央競馬会の全面協力を取付けている。出走する馬はジンクビアレスという牡の五歳馬でれっきとしたサラブレッド。ただし内臓疾患がありレースの出場経験はない。中堅守備位置から投手マウンドまでの60㍍で競うそうだ。
福本は「球団が観客動員の為に一生懸命に考えた事だし自分が手伝える範囲なら喜んで…」と言ってはいるがそれは律儀な福本らしい社交辞令で本心は「野球選手が馬と走る姿を見て喜ぶファンがどれくらいいるのか」と快く思っていないのではと推測する。福本には日本球界の盗塁記録を次々と塗り替え、大リーグ記録の「934」にあと12個と迫っている俊足の持ち主としてのプライドが有る筈だ。その足は野球選手の足であって馬と競争する為の足ではない。
この企画を " 4月30日・西宮競馬場、人馬特別 " という見出しで報じたマスコミにも落胆したが、それ以上に暗澹たる気持ちにさせたのは蓑田に『 ゲリホープ 』 、バンプに 『 ヒットリデスカ 』 と球団がいかにも競走馬風な名前を付けて話題を煽った事。少しでも注目して欲しいのは分かるが、たとえ冗談としても蓑田が何時も下痢気味なので『 ゲリ… 』、バンプが女性に声をかける決まり文句をもじって『 ヒットリ… 』とは下品過ぎる。人気獲得の為に球団が必至になって頭を働かせているのは理解出来るが度が過ぎていませんか?
ファン呼び集め作戦としてプレゼントデーを設けたり、選手と直に接触出来る機会を作ったり、ガイドブックや友の会冊子の充実を図ったりと球団の涙ぐましい努力は認める。しかしグラウンド上のプレーではなくチームの看板選手を馬と競争させる事が本当にファンサービスと呼べるものなのだろうか?例えば同じ走るのなら春季キャンプでよく行なっているベースランニング走で2組に分けてタイムを競う模様をファンの前でやり負けた組に罰ゲームなどを課す出し物ならまだ理解出来る。
こういう世の中なのだから何もそんな固い事を言わなくても…と反論されそうだが、かつて試合前のアトラクションとして歌手を呼び歌謡ショーを開いた球団があった。しかし、その出し物は直ぐに止めてしまった。ファンが球場に足を運ぶのは歌を聴く為ではなく野球を見る為だ。決してサラブレッドを人間と比較してどうのと言うつもりはない。競走馬の素晴らしさは馬と競ってこその美しさであり人間と競う意味を見い出せない。こんな物言いは私の思考が固く時代遅れのせいだろうか?野球に対して真摯な考えをお持ちである筈の上田監督の御意見を是非ともお聞きしたい。
巨人の多摩川グラウンドには大金が眠っている…過去に巨人がドラフト指名した選手の多くが一軍に昇格する事なく球界を去った。特に高卒選手にそれは顕著である。新人で程なく一軍の戦力になった高卒選手は堀内恒夫(昭和40年)、関本四十四(昭和42年)、河埜和正(昭和44年)、淡口憲治(昭和45年)、篠塚利夫(昭和50年)くらい。「程なく」の範疇に「5年間」が入るのなら定岡正二(昭和49年)も含めてもよいだろう。高卒に限らず大学・社会人を含めても高田繁(昭和41年)、小林繁(昭和46年)、中畑清(昭和50年)、山倉和博(昭和52年)、原辰徳(昭和55年)くらいだ。最近では横浜高から入団した安西健二も期待されながら腰痛を発症し二軍の試合にすら出場出来ずにいる。
長嶋監督解任後に首脳陣が刷新されスカウト達に出された新たな方針は「高校生の場合、技術的に出来上がった選手より投手は制球難であろうと球の速い事、打者は確率は悪くても当たれば飛ぶ選手を探せ」というものだった。初年度のドラフト会議では原(東海大)の1位指名が既に決まっていた為、素材型選手としての指名は2位の駒田(桜井商)が初だった。現体制2年目、東海地区担当の加藤スカウトが「上背もあり球が滅法速い投手がいる。制球は定まらず大ハズレの可能性も小さくない」と条件付きで槙原(大府高)の名をスカウト会議に出した。また関西地区担当の伊藤スカウトは「同じPL学園で法大に進んだ小早川(広島)の高校時より数段上」と吉村獲得を提案した。
今の高卒選手は練習の為の練習が必要なくらい脆弱だ。そこで現首脳陣は「慌てて育てようとして故障させては元も子もない。プロとしての身体作りから始めてくれ」と三軍制度を提唱して新たに原田・山本・上田の全員30歳代の若いコーチ陣を編成した。かつて1年目の春季キャンプの紅白戦で王選手から三振を奪うなど期待された林泰宏(昭和54年)が故障したように高卒投手は肩や肘を壊しがちなので特に槙原には球を持たせず、ひたすら走らせた。野手も技術面以前にウェートトレ、ノック、ペッパーと体力強化に専念させた。また新人の役目として先輩達の道具運びや練習設備の設置等、裏方さんの仕事を手伝わせてプロの世界を肌で感じさせ教え込んだ。その三軍から今年、駒田・槙原・吉村が一気に飛び出した。
「この多摩川からようやく丈夫な奴らが育ってきた」 かつて鬼寮長と恐れられ現在は二軍の最高責任者を務めている武宮敏明氏は喜ぶ。「ワシは指導者の苦労は一軍より二軍の監督・コーチが一番味わっていると思う。高校から入って来て右も左も分からん子供をジッと我慢して育てる。国松(二軍監督)らにワシは感謝しとるよ」と顔をクシャクシャにする。その横で国松は「いやぁ、僕らはあくまでもお手伝いでやるのは選手。あと忘れてはいけないのが一軍首脳陣の理解ですよ」と強調する。現在の巨人は一軍と二軍とのパイプは支障なく繋がっている。
今年のグアムキャンプに槙原と吉村の帯同は1月のスタッフミーティングで決まっていたがキャンプ目前に一軍首脳陣から「他に二軍から推薦する選手はいるか?」と打診を受けた。国松は迷わず「駒田」と答えた。当たれば大きいのを飛ばすが変化球に弱くまだ「ウドの大木」程度の認識だったが「三振が多いというイメージを受けそうな選手だがこの2年間で予想以上に成長した。グアムが駄目でも宮崎には連れて行ってくれ」と訴えた。一軍首脳陣の中にも時期尚早と反対する人間もいたが王助監督のたっての希望で駒田のグアムキャンプ参加が決まった。もしもこの時、従来のような「ウドの大木」という先入観だけで決めていたら駒田は多くの先人のように多摩川グラウンドの土埃と共に消え去っていたかもしれない。
巨人というチームは人気球団であるが故に少しでも欠点があると直ぐにマスコミの標的にされる。早い話が他球団だって似たり寄ったりなのだ。高卒選手で直ぐに一軍で活躍した選手は数える程で阪神・江夏豊、近鉄・鈴木啓志、中日・鈴木孝政などは例外中の例外。阪神・工藤一彦は4年、中日・都裕次郎でも2年間は二軍でみっちり鍛えてきた。他球団の数年間の二軍生活は「焦らず鍛えた」と評価されるが巨人だと「何年経っても成長しない」と酷評されるのが辛い所。三軍制を明確に内外に標榜する事で数年間の猶予期間が許された今後の巨人に第四・五の選手が現れるのか注目が集まる。
「話が違うじゃないか!」 若菜は単語と単語を繋ぎ合わせて精一杯、思いを伝えようとした。明日がキャンプ打ち上げという前日の4月9日、NY・メッツのマイナー組織の統括責任者であるスティーブ・シュライバー氏に呼ばれて「ヨシ(若菜)、君には選手ではなく3Aのタイドウォーター・タイズでコーチをやって貰いたい」と告げられたのだ。「阪神タイガースは僕に1シーズン、プレー出来ると言ってくれた。僕は米国までトライアウト(入団テスト)を受けに来たのではない」と訴えるとシュライバー氏は「我々はそんな約束はしていない。阪神タイガースに対してトライアウトだと説明していた」と譲らなかった。若菜はその場で電話をかけた。相手は渡米の手続きを手伝ってくれた阪神の三宅通訳である。「若菜さん、もう僕はこれ以上お手伝い出来ないんです。それに契約内容までは関知していません。申し訳ないですが…」
野球さえ出来ればどこでも構わない。そういう思いで日本を飛び出した。でも好き好んで飛び出した訳ではない。あの忌まわしい一連の騒動に嫌気がさしたのだ。ポルノ女優の一方的な結婚宣言、愛人騒動、離婚、再婚、そしてトレード宣言の果てにクビ。昨年の若菜は1年中騒がれ続けた。退団にまで追い込まれた決定打は週刊ポストが報じた暴力団との黒い交際疑惑だった。「球団が調査しても何一つとしてやましい事は無かった。それなのに…」「言ってもいない事、事実でない事を面白おかしく書くのはペンの暴力じゃないのか。僕の事だけなら我慢もするが女房や女房の姉さんの事まで書かれて堪忍袋の緒が切れた」と当時を述懐する。
その頃、若菜は左肩の故障を名目上の理由に二軍に幽閉されていた。プレーに支障は無い、一軍に戻りたいと訴えても球団は頑なに昇格させなかった。「だったらトレードに出してくれ」と要求したがスキャンダルに追い討ちをかけたこの爆弾発言が若菜の立場を更に危うくした。12月下旬になって若菜を球団事務所に呼び出して「君がチームにいると悪影響を及ぼすし君自身も居づらいだろう。我々も君が望むトレード先を探したけれど残念ながら見つからなかった」として自発的な退団を促した。若菜は腹を括った。野球をやるなら何処でも一緒、この謂れ無き汚名を晴らしてやると他球団からの誘いを待ったが「まるで刑務所帰りの扱いだった(若菜)」で声をかける球団は現れなかった。
そんな若菜に阪神が助け舟を出した。岡崎球団社長が阪神と友好関係にあるNYメッツに話を持ちかけると折り返しマイナーの2A・ジャクソンから契約書が届いた。米国行きを決めようとした矢先、日本の4球団から内々に「3ヶ月か半年してほとぼりが冷めたらウチに来て欲しい」と誘いが来た。中には監督が直々に電話をかけてきた球団もあった。心が揺れた。再婚して新しい家庭を構えたばかりで妻子を日本に残して何の保証もない米国へ行くより日本の球団でプレーする方が良いのでは…。迷う若菜に新妻・尚子夫人の「日本に残ってチームが変わっても世間の貴方を見る目は簡単には変わりませんよ。私達の事は気にしないで下さい」 この一言で若菜は米国行きを決意した。なのに…である。
渡米後の生活の面倒をみてくれたのはかつて長嶋巨人の助っ人だったデーブ・ジョンソン氏。現在は3A・タイズの監督に就いている彼は「今のウチは若手にチャンスを掴んで欲しい大事な時期なんだ。3Aの枠は22人で君に割ける余裕は無く仕方ない措置なのだ。若手に何かアクシデントが起きたらすぐに選手に戻れるようにしておく。その為に練習もこれまで通り自由にやって構わないのでコーチの肩書きで残って欲しい」と頭を下げた。日頃から世話になっている彼に懇願されれば無下には断れない。しかし「野球をする為に来たのにコーチなんて思いもしかった。先ず頭に浮かんだのは日本の事。あれだけ盛大に送り出して貰いながらこのザマでは残された家族が笑い者になるのではという不安だった」米国に残る以上、若菜に選択の余地は無く大リーグに日本人初のコーチが誕生する事となった。
取り敢えずは米国に留まる事になったが来年以降はどうするのか?「メッツが選手として契約してくれるのならこちらにいるつもり。僕の気持ちは野球をやりたい、それだけです。使ってくれるのなら日本の球団でも構わない」と。そして若菜には昔からの夢が有るという。あの長嶋さんがどこかの球団で指揮を執る事になったら是非とも彼の下でプレーしたいそうだ。「子供の頃から長嶋さんのファン。オールスター戦で満塁本塁打を放った時に『若菜いいゾ』と声をかけて貰って嬉しかった」と無邪気に語る。誘いのあった日本の4球団のうち1つに長嶋氏の監督就任説が根強くあり若菜もその動向を海を渡った遠く離れた異国の地から常に気にかけている。
とにかく今は与えられた場でやるべき事をこなしていくしかない。若菜が所属する3Aは9月2日までに何と140試合を消化する。つまり殆ど毎日が試合で朝6時に集合して移動し即試合を行い、試合が終わればまた移動。それの繰り返しの中で自分のトレーニングもしなければならない。打撃練習も出来るが5人1組で20分と限られており充分とは言えない。「これからが本当の勉強です。とにかく色々な事を学びたい」「体調はまずまず、日本にいた時と変わらない。肩だって普通に投げてますから大丈夫です」 " コーチ就任 " がイコール " 引退 " でない事を強調する。現状を見つめ、その中で最善の方向を探し出し突き進んで行く。今の若菜にはそんな姿勢がある。