納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
オールスターゲームも終わって、いよいよこれからがペナントレースの正念場となるが、このオールスターでは目に見えない投手戦への前哨戦ともいうべき暗闘があるとか。そこでもうひとつの別の闘いを探ってみると…
またも起こった !? 球宴の駆け引きドラマ
オールスター戦でいつも話題になるのが選手の起用法や各チームの監督・コーチ、そして選手たちの駆け引き。いわば呉越同舟のベンチ内で何とか自チームに有利となる情報や相手をスポイルさせようとする兵法が駆使される。監督3年目にして初めて全セを率いる長嶋監督(巨人)は「今年のセ・リーグの売りは強力打線ですよ。掛布・王・張本のクリーンアップを軸に一番から八番まで切れ目ない打線はセ・リーグ史上最高です」との意気込みとは逆にいざフタを開けたら打線は火を噴かなかった。とかく夢の球宴は選手にとって " 休宴 " でしかないと言われている。つまり激しいペナントレースの前半戦を終え、一息つきたい気持ちにかられるのだろう。
打てないのなら勝つにはパ・リーグ打線を抑えるしかない。そこで長嶋監督としては投手の継投策が腕の見せ所となった。全パの上田監督(阪急)が先発の太田投手(近鉄)を打順五番に入れた。つまり2回を投げ終えた太田投手に代打を起用し切れ目のない攻撃を図ったのに対して長嶋監督はオーソドックスに先発の江本投手(阪神)を九番に起用した。上田監督は投手に打順が回ってくると規定の3イニングなど胸中にないらしく早め早めに投手リレーを行なった。対して長嶋監督は規定を尊重するらしく2回表二死一・二塁の場面で打席が回ってきた江本投手に代打は起用せずそのまま打たせた。
ライバル梶間に自信をつけた
長嶋監督が江本投手を続投させたことに対してネット裏では後半戦開始早々の阪神戦で登板が予想される江本投手の球種や球筋などを吉田捕手に観察させるが狙いだったのでは、という声が聞かれた。だが長嶋監督によると「投手起用については古葉・吉田両監督と相談して決めた」そうで他意はなかったようだ。初戦は貧打戦(セ:7安打、パ:6安打)だったこともあって投手陣の好調さが目立ったのだが、特に0対0の6回裏無死一塁、パ・リーグ打線は加藤選手(阪急)・門田選手(南海)・島谷選手(阪急)と3割打者が続く場面で新人の梶間投手(ヤクルト)を投入したのは長嶋監督の読みがズバリ的中したと言える。
このピンチにルーキーに全てを託す長嶋監督の判断は大きな賭けであった。長嶋監督は現役時代、ビックゲームになればなるほど燃えた男であった。梶間投手も新人離れした強心臓の持ち主。梶間本人は「別に緊張感もなく平気だった」と涼しい顔で加藤選手を中飛、門田選手と島谷選手はともに右飛に打ち取り長嶋監督はご満悦。この梶間投手起用について「広岡監督が一番喜んでいるだろう。もともと度胸のよさは定評があったが、今回の好投で更に自信をつけたのは大きい。巨人を追うヤクルトが長嶋監督のお陰で梶間が一層レベルアップしたら後半戦の巨人は慌てるんじゃないか」と穿った見方をする者もいる。
若さのセ、老練のパに変わった?
今年のオールスター戦の特徴は " 若さのセ、老練のパ " が定着しつつあること。10年ほど前まではセ・リーグは年長者が多かったのに対し、パ・リーグは若手を起用しセ・リーグとの違いをアピールする意気込みだった。だが今年は掛布選手や田代選手のはつらつプレーや梶間投手など新戦力の台頭がめざましかったセ・リーグに比べてパ・リーグは新鮮味に乏しかった。これはパ・リーグが前後期の2シーズン制を採用していることが要因のひとつだという意見がある。つまり短期決戦では計算できるベテラン選手が重宝され、若手を育てながら試合に勝つという余裕はなくなってしまった。だからいつまでたっても同じ顔ぶれのままなのだというもの。
そんな中で第1戦でのクラウン勢の活躍は久しぶりに九州に野球熱が蘇った感じがした。パ・リーグ唯一の得点を記録したのが若菜選手の左翼席への一発だった。中学2年生の時に父親を亡くした若菜選手を親戚縁者総出で赤飯を炊いて球宴出場を祝ったというエピソードは微笑ましい。前期シーズンで2本の満塁本塁打を放つなど低迷するチームの中で明るい話題を提供した若菜選手らしい活躍だった。指宿商から広島に入団したが芽が出ずライオンズに移籍した永射投手も王選手を二ゴロに仕留めた。4年ぶりにやって来たオールスター戦を契機に九州のプロ野球熱が復活するとすれば、この2人の活躍の意義は大きい。
両リーグを通じて最年長出場の野村監督(南海)がセ・リーグの試合前打撃練習を熱心に見入っていると報道陣から「日本シリーズ用の偵察ですか?」と冷やかされたが「老い先短い選手生命だから引退後の解説者用に情報を手に入れようと思ってね」と冗談で返すほどグラウンド内の雰囲気はゆったりしていた。事程左様に昨今のオールスター戦はお祭りだと言われる通り選手間のムードはのんびりしている。前述の江本投手と吉田捕手のようなユニフォームが違うもの同士がバッテリーを組んだからといって投手が自分の手の内を明かすのを嫌って決め球を投げないということはない。
梶間投手(ヤクルト)・松本選手(巨人)らと新人王争い展開している大洋・斉藤明雄投手。その自他ともに認めるマウンド度胸の良さはプロ野球の世界では確かにひとつの売り物だ。話しの物腰がもうプロ野球選手らしさを漂わせていた。
やはりプロの世界は怖いモノだらけ
聞き手…現在3勝あげて、どうやらプロでやれるという感じですか?
斉 藤…そうですねぇ、でも3勝してから今ちょっと足踏みしてますから半々です
聞き手…ルーキーで既に勝ち星をあげて怖いモノなしでは?
斉 藤…そんなことないですよ。平気な顔で投げているようでもやっぱりプロは怖いですよ
聞き手…巨人や阪神相手だと意識しますか?
斉 藤…特別意識はないですけど、燃えるというかそんな気にはなります。観衆も多いですし。でもいいところを
見せてやろとかは全くないです。出来る力もまだないですしね
聞き手…自分の良い点、悪い点は何ですか?
斉 藤…悪い方はボール、ボールが続くと腕が下がってストライクを取りにいって打たれることですかね。大学時代は
コントロールには自信があったんですけど。プロではより速い球を投げなきゃという焦りでフォームが乱れて
制球難って言うんですかね。良い面はマウンド上で動揺することがないことでしょうか
聞き手…そういう意味ではプロ向きの性格ですね
斉 藤…どうですかね。今は押す事ばかりに一生懸命で引くことを覚えてないのでプロ向きかどうかは分からないです
聞き手…当然、新人王は狙っているでしょ?
斉 藤…ええ、やっぱり獲りたいですね。30イニングを超えたら来年の資格は無くなりますから今年が勝負です。
ヤクルトの梶間さんが調子いいので、やっぱり先を越されると焦りはあります
聞き手…ところで3勝目のウイニングボールをスタンドに投げ入れたことを相当残念がってましたね?
斉 藤…ああ、あれは周りが騒いでいたので。ウイニングボールを集める気はそんなに無かったんですよ
川崎球場はポーンと上がると入っちゃう
聞き手…今、横浜スタジアムの話が話題になっていますけど、やはり川崎球場は狭いと感じますか?
斉 藤…そうですね、この球場は打球がポーンと上がると入るみたいな感じですから。後楽園や神宮とは違いますね。
外野にフライが飛ぶと、あ~飛んだ…あ~入っちゃうなと思います
聞き手…結婚観というか女性観を教えて下さい
斉 藤…家に帰った時に野球を忘れさせてくれる朗らかな人がいいですね。まぁ球場に僕が投げているのを見に来るのは
構わないですけど家に帰ってから今日はああだったとか、こうだったとか言われるのは嫌ですね
聞き手…結婚を考えている女性がいるのですか?
斉 藤…う~ん、友達程度ならいますけど。もうちょっとこう友達と恋人の中間みたいな感じかな
聞き手…休みの日は何をしているのですか?
斉 藤…勝った負けたの世界にいて気を張っていますから、気を休めるように寝ていたりしています。外出することは
あまりなくてたまに映画を観たりですかね
聞き手…バッカス(酒の神)というアダ名ですけどお酒は強い方ですか?
斉 藤…学生時代は優勝した時とかは4年生どうし集まって祝杯をあげたりしましたけど、特別強くはないですよ。
バッカスというアダ名は2年生の時に上級生に付けらました。今は食事の時のビールくらいですね
外野守備といえばどうしても強肩・俊足が話題にされる。しかしホームラン性の当たりを好捕するフェンス際のプレーを忘れてはなるまい。今年の4月、フェンスに激突した阪神・佐野選手を見るにつけても平山の魔術とまで言われた超美技が現在にあったら…と思ってしまう。
佐野の激突事件を見やる長身の男
あの日、私はたまたま川崎球場の記者席にいた。「グシャッ」という鈍い音が100m以上離れた記者席まで聞こえた気がした。4月29日の川崎球場で行われた大洋対阪神8回戦、7対6で阪神が1点リードした9回裏。一死一塁で清水選手が代打に起用された。山本和投手が投じた4球目を捉えた打球はレフト後方へ。左翼手の佐野選手は外野フェンス2m手前で追いつき捕球した。だが勢い余ってフェンスに頭から激突してしまった。佐野選手は白目をむき痙攣をおこした。この間、一塁走者は一塁に戻りタッチアップして本塁生還し7対7の同点となった。試合中にもかかわらずグラウンド内に救急車が入り佐野選手は緊急搬送された。
大洋の得点に対して阪神は命にかかわる緊急事態であり、審判は試合を止めるべきで得点を認めるべきではないと抗議したが結局、試合は7対7のまま引き分けた。審判がタイムをかけるべきかどうかの議論は双方の意見が噴出し、阪神はセ・リーグ運営部に書面で正式提訴する事態となった。私は試合後のネット裏付近でレフトフェンス方向に視線を送る長身の男が立ちすくんでいるのを見た。その人物こそ往年の名外野手で、" ヘイ際の魔術師 " と呼ばれた平山菊二氏だった。現在の平山氏は大洋球団役員で試合がある日は川崎球場に来ている。その平山氏の目の前で佐野選手が全治1ヶ月の大怪我を負ったのである。
昭和12年2月、草薙球場でのキャンプに参加した新人の平山選手はいきなり外野を守らされた。打席には中島康治選手が入り打撃練習を始めた。「カッコいいところを見せてやろう」と野心に燃えた平山選手は中島選手が放った強烈な打球に一直線に背走した直後、そのまま外野フェンスに激突し前歯を3本折ってしまった。「気がついたら病院に運ばれていましてね。練習を終えた中島さんが見舞いに来てくれたのを憶えています。新人の私に気を遣ってくれた中島さんを何て心の優しい人だと感動したのをいまだに忘れられません」と回想する。以来、平山選手は塀際の打球を如何に処理するかを考えるようになった。
ツキ男の快打を好捕したツキ男
昭和23年11月26日の後楽園球場で現在のオールスター戦に相当する東西対抗戦第4戦が行われた。平山選手(巨人)は東軍六番左翼手として先発出場した。6対2と東軍がリードした7回表二死二・三塁の場面で打席には西軍の飯田徳治選手(南海)。一発が出ればたちまち1点差となり、勝敗の行方は分からなくなる。飯田選手は試合前のホームラン競争で優勝した。当時のホームラン競争は1人3分間の持ち時間で何発打てるかの競争だった。飯田選手は全24球中、見送った6球を除いた18球を打って5本の柵越え。他の選手を圧倒する優勝だった。それだけに観衆は飯田選手の一発を期待して大いに沸いた。
東軍の川崎徳次投手(巨人)が投じた4球目は内角へのシュート。飯田選手は体を開いてバットを一閃すると打球はレフト方向へグーンと伸びた。3ランホームランだ、と誰もが思った次の瞬間、アッと息をのむ光景が起こった。背走した平山選手がフェンスの上部を掴み跳ね上がった。当時の後楽園球場の左翼ポールの下には通用口の扉があり段差があった。その段差に右手を掛け反動を利用してジャンプしたのだ。外野フェンスを楽々と乗り越え平山選手のグローブは地上3m前後のところにあった。しかもただ跳ね上がっただけでなくグローブは観客席に50cmほど差し込まれた。飯田選手の放った打球は平山選手のグローブに吸い込まれた。
「あれこそヘイ際の魔術師だ」と当日、記者席でこのプレーを見た大和球士氏は絶賛した。平山氏はその一瞬を「夢中でしたから何を考えていたのか憶えてないです。咄嗟の判断で扉のてっぺんを右手で掴み反動で飛び跳ねたのが良かったんでしょうね。ただ半身でジャンプしてグローブを観客席に伸ばしたのは意識しました。正面を向いたままジャンプすると背中がフェンスに擦れてジャンプ力が半減しますから」と何から何まで理屈に合った説明をする。これは余談になるが現代版 " ヘイ際の魔術師 " として高田選手(巨人)は昭和45年に平山氏と対談した。その際に、平山氏からフェンス前でジャンプする時は半身でするようにとアドバイスを受けた。
また一人、球界は功労者を失った。アマチュア、プロ球界に大きな足跡を残した森茂雄氏である。今年のオールスター戦前に殿堂入りの表彰を受ける予定だったが、その日を待たず逝かれてしまった。
一世一代の大仕事
森茂雄氏が6月24日午後10時8分に脳血栓のため原生中央病院で亡くなった。愛媛県出身で松山商から早大に進み内野手として活躍。昭和10年には大阪タイガースの初代監督を務めた後にイーグルスの選手兼監督としても活躍。戦後には母校の早大監督にも就任して9回のリーグ優勝を果たした。昭和33年には大洋球団社長、翌年には監督を務めるなど自身の半生を監督の座に就いた。今年7月に開催されるオールスター戦の前に野球殿堂入りの表彰が行われる予定だったが、晴れの日を待たず無念の死となってしまった。その森氏が手掛けた一世一代の離れ業が球団社長だった三原脩氏の大洋監督就任だ。
西鉄を日本一に導いた三原氏を大洋の監督にという動きは昭和34年に隠密裏に進められたが直前にマスコミに漏れて一度ご破算に。翌35年に1年遅れで実現した。巨人を追われた三原氏は投打にサムライ揃いの西鉄を率いて日本シリーズで水原監督の巨人を昭和31年から三度返り討ちにした。同じ四国出身で学生時代から宿命のライバルだった巨人・水原監督との対決は注目を集めた。三原・水原の2枚看板をリーグ戦で戦わせようと大洋の監督にしようと計ったのが森氏だった。この目論見は当たり、折からの長嶋選手人気と相まってプロ野球人気は空前のブームとなった。しかも三原大洋は前年の最下位から奇跡の優勝を遂げた。
タイガース退団と稲門クラブの怒り
森氏は昭和10年に大阪タイガースの初代監督としてチーム結成に参加すると、松山商の後輩である景浦将選手を立教大学を中退させてタイガース入りさせた。また松山商から伊賀上良平選手、早大出身の小島利男選手を入団させるなどタイガースの骨格作りに携わった。昭和11年のチーム結成披露トーナメント大会では敗退したが、7月の名古屋大会では優勝した。だが直後に球団は森氏を解任し石本秀一氏の監督就任を発表した。森氏が僅か半年ほどでクビになった理由は諸説あるがタイガースは阪急に強烈なライバル意識があり、その阪急にオープン戦で負けたことが球団側の不評を買ったのが原因ではないかと巷間伝えられている。
森氏がタイガースから監督就任を要請された時、当時早稲田大学の野球部長だった安部磯雄氏を訪ね相談したところ「やってみなさい」という激励を受け、稲門クラブの全面支援の約束を取り付けた。元々タイガースは関西大学の影響が強く早稲田色を良しとしない勢力もあり、稲門クラブ内には危惧する雰囲気があった。それだけに森氏の監督解任をきっかけに稲門クラブとの間に対立が表面化し、小島選手は不満を露わにし景浦選手や伊賀上選手らも同調した。森氏は後年「すぐ辞めることになって安部先生に申し訳なく困った。直接お会いして事情を説明すると『そうですか』と言われただけでお叱りもなかったのでホッとしました」と述懐した。
選手集めに奔走しタイガースのチーム骨格を作り上げたが志半ばでチームを去った森氏だったが翌年には早稲田大学の先輩である河野安通志氏が結成した職業野球部の " 後楽園イーグルス " の監督に就任した。イーグルスは決して強いチームではなかったが、タイガースには昭和12年秋のシーズンで5勝2敗と勝ち越した。景浦選手らを擁する当時のタイガースは沢村投手がいた巨人に全勝するなど強豪だったが、因縁の森氏相手だと本領発揮とはいかなかった。
選手を育成した早大監督の11年
森氏は昭和22年から11年間母校の早大の監督を務めた。春秋の計21シーズン中、9回優勝した。昭和25年は春秋連続優勝、翌26年春も優勝し3連覇したが秋は慶大に優勝をさらわれた。「昭和32年春から長嶋君がいた立大が4連覇しましたが、それ以前に早大が昭和25年春から4連覇のチャンスがあった。試合途中から雨が降ってきてノーゲームになった。その試合に勝てていたら4連覇できたと今でも思っている」と晩年の森氏は語った。「あの頃はグラウンドの外に並ばされて大声を出すのが役目だった。とてもレギュラーになれるとは思えなかった」とヤクルトの広岡監督は早大入学当時のことを懐かしそうに振り返る。
そんな広岡選手を森氏はノックバット1本で鍛えて才能を引き出して育て上げた。ノックは抜群に上手かった。強弱合わせたゴロを打ち、選手が捕球できる幅を徐々に広げていく。秋のシーズン前には広岡選手の守備範囲は入学時より格段に広くなっていた。広岡選手だけではない。早大監督在任中に蔭山和夫、荒川博、沼澤康一郎、末吉俊信、岩本堯、近藤昭仁、小森光生、森徹、木村保、松岡雅俊、島田吉郎など現在も監督・コーチ・評論家として活躍する人材を育てた。アマ球界でも石井連蔵、石井藤吉郎、荒川宗一など指導者として重きを成している人が多い。森氏が育てた野球人の幅は広く厚い。謹んで哀悼の意を表します。