Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#152 写真で回顧 1980年の出来事 ②

2011年01月19日 | 1980 年 

張本は3000本安打を達成した筈・・・と思ったら2000本"単打"でした












おまけの月間MVP




引退・・・船田、足立、野村、高木









長嶋が去り王や野村が引退し、入れ替わりに原や石毛がやって来た1980年は時代の
変わり目でしたね。'80年代も相変わらず巨人一辺倒が続きますが近鉄の「伝説の10.19」
西武の黄金期到来などパ・リーグにも目が向くようになり始めた時代でもありました。



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#151 写真で回顧 1980年の出来事 ①

2011年01月12日 | 1980 年 

          遅くなりましたが今年も宜しくお付き合いのほどを・・


長嶋監督解任          張本 3千本安打達成      衣笠 連続試合出場日本新記録

 王 現役引退         野村 3千試合出場       福本 800盗塁



       アメージング・ルーキー         ベテランの復活

                              広島東洋カープ黄金期



  200勝&2000本安打         岡田を巡るお家騒動で監督解任

 大物同士トレードで一悶着      近鉄・悲願の日本一は叶わず



        ドカベン人気    甲子園のアイドル       原巨人入り

                    去り行くベテラン選手
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#149 プロ入り拒否した甲子園球児

2010年12月22日 | 1980 年 




現在ではドラフトで指名された選手はプロへ行くのが当たり前で拒否する事はケシカランとの
風潮がありますが、どうなんですかねぇ。「指名する・しないはプロ側の自由」「プロ入りする・
しないはアマチュア選手側の自由」なのがドラフトのはずです。指名して「やった」感が球団や
その球団のファンに見えるのが気に入りません。この年のドラフトでは2人の1位指名選手が
プロ入りを拒否しました。日ハム1位・高山投手(秋田商)、阪急1位・川村投手(松商学園) で
共に甲子園大会で注目された逸材です。今でもそうですが、プロ入りを拒否すると密約とか
本人の我が儘と批判されるのが常ですが、この時も当初はそうでした。



「突然の指名でビックリ。日ハムは僕自身に一度も接触が無かったし、たぶん行かないと思います (高山)」
「西武以外にプロ入りは考えていません。社会人からも誘われているし、大阪まで行く気にはなれません (川村)」

両球団に指名が決まった直後に2人ともにプロ拒否宣言、口調は強く落胆の色は隠せなかった。高山はドラフト翌日に学校まで
挨拶に来た丸尾・三沢スカウトにも「会いたくない」とサッサと下校してしまった。自分の希望が通らなかった落胆は理解できるが
こうした態度は失礼極まる。断るにしても一度は会って自らの口から伝えるのが社会の常識である。そもそもプロ拒否は高山の
本心なのだろうか?高山周辺の事情を地元記者はこう言う「父親はプロ入りさせたい意向を持っていた。高山本人も長男として
一家の将来設計もありプロで早く活躍したい気持ちだった。でも恩師の三浦さん(秋田商監督)は、プリンスに行かせたい意向が
強かった。高山は板ばさみだったのでは・・」

一方、川村は当初は「阪急の方とは会いません」と言っていたが藤井編成部長・矢野スカウトが挨拶に訪れると一転、交渉に
応じて「これから何度でも話し合いたい」と態度を軟化、阪急入りの可能性が出てきた。18歳の若さとは、こういうものなのだ
一度自分の胸の中で膨らんだ夢や憧れをサッと切り替えられるほどの術を持ち合わせてはいない。そんな若者に大人の都合を
押し付けてはいけないのだ。




一時は軟化したように思えた川村も結局は高山同様にプロ入りを拒否し、2人揃ってプリンス
ホテルへ進みました。しばらくバッシング報道が続きましたが12月29日号に高山のプロ入り
拒否までの内幕が掲載され風向きが変わりました。


「プロから誘いがあるのを知ったのは、春のセンバツが終わってから」 プロから注目される嬉しさは高山は勿論、大館市に住む
両親にもあった。だがセンバツ大会後に高山の右足に痛みが走る。温泉治療や電気マッサージなどを試すも一向に治癒しない。
痛み止めの注射を打って出場した夏の甲子園大会が終わった頃、進路を大学にとったのも足の故障が原因だった。「充分に足を
直す時間がある所で」がその理由であった。では、なぜ西武ならOKだったのか?痛みの原因は右足親指付け根の種子骨が爪に
当たる事で発するものであったのだが 「ドラフト前の挨拶で西武だけが対処方法を考えてくれたんです。他の球団は体の成長が
止まれば自然に痛みは無くなるって言うだけで・・」 ドラフト後の交渉の席で日ハム側は何の根拠も無く「来年の後半には1軍で
投げられますよ」と言ったそうで、その発言で不信感が募り入団拒否の結論に至ったとの事。

秋田商・三浦監督がプロ入りに反対し、プリンス入りを強硬に薦めたとの報道もキッパリと否定した。地元で巷間ウワサされていた
「監督とプリンスの出来レース」について高山は「プリンスを選んだのは自分の意思です。練習施設などを両親と一緒に見学して
ココなら大丈夫だと思ったんです。それに監督さんが薦めたのはプリンスではなく河合楽器でした。監督さんと河合楽器の監督の
高林さんは知り合いで、高林監督は怪我持ちの選手管理が上手いという事で薦められたのです」と噂を否定した。



自分の贔屓球団を拒否する選手を批判したくなる気持ちも分からなくはないですけど、今では好きな
贔屓球団が無くなった私から言わせてもらうと「行きたい所へ行かせてあげればいいじゃん」 と思い
ますけどね。アカの他人の人生について何故あぁも熱くなるのかプロ野球ファンとは不思議な人種です。
見ず知らずの選手がどこの球団に行こうが、活躍しようが・しまいが自分の人生には全く関係ないのに

仮に完全ウェーバー制にしたとしても囲い込みは無くならないでしょうね。意外なのは広島東洋カープが
ウェーバー制に反対の立場だという事。オーナー曰く、「ウェーバー制はFAとリンクしている。FA資格の
取得期間が短縮されるのはウチとしては困る」・・・独立採算制で資金が豊富とは言えない広島にとって
新たなビジネスチャンスだと思いますけど。ウェーバーで良い選手を安く獲り、FAもしくはポスティングで
高く売り飛ばす。現状ではプロ野球は企業の売名&金儲けの手段に過ぎません。 「プロ野球は地域の
文化的公共財だ」などと言っている輩がいますがそんな綺麗ごとの訳ない。だったら赤字球団は地元の
自治体に赤字の補填に税金を投入してくれるよう要請してみたらどうです?本当に公共財ならば住民は
喜んで税負担に賛成してくれますよ。
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#148 代理人交渉

2010年12月15日 | 1980 年 



以前よりはマシになったとは言え、外国人選手との契約は現在でも日本人選手が交わす
統一契約書だけではなく、特約条項を盛り込んだ選手側に有利なモノです。先日、巨人の
オビスポ投手が日ハムへトレードされましたが、これはオビスポ投手が育成選手契約を
経ての本契約だったので通常の外国人選手の契約とは異なり、特約条項が無くトレードが
容易だった為だと思われます。一方、マニエル選手の場合は恐らくマニエル側に選択権が
あった為に近鉄が振り回されたのでしょう。外国人選手に都合の良い契約が結ばれるのは
そもそも獲得交渉の段階で選手側が優位に立っているからでした。

当時は日本の球団が外国人選手を獲得するには友好関係を結んでいるメジャー球団所属
選手を譲ってもらうケース(ex:巨人がドジャースからトマソンを獲得)。或いはメジャー球団を
介す必要の無いフリーの選手を獲得するケース。この場合は、いわゆるブローカーが日本の
球団と代理人との仲介をします。無理難題な契約内容が盛り込まれるのが後者のケースで
当時の外国人選手獲得は圧倒的にこのケースでした。球団関係者でも代理人でもない人に
丸投げする事も多く、無茶な内容が盛り込まれる事も多々ありました。そんなブローカーの
ひとりが記事になっている「トウキョー・トム」ことトム・福井氏です。


・・・先ずは自己紹介を。私は滋賀県の生まれで高校卒業後は社会人野球に進み、南米で結成された新興リーグに参加した
「東京ドラゴンズ」のメンバーとしてカラカスに渡ったのが昭和44年。このリーグは2ヶ月で破綻してしまい、チームも解散して
選手も散りじりになった。私はアメリカに留まる決意をして日系人の世話で日本人街のレストランでピアノを弾き、歌っていた。
このレストランには多くの日本人が来店していたが、その中に田宮謙次郎氏がいた。東映フライヤーズが日拓という会社に
経営されていた昭和48年のことで、成績不振で監督の座を退いた田宮さんは大リーグ視察にやって来ていて、私に通訳を
依頼しに来たのだった。通訳をする事で大リーグの球団関係者とも顔見知りとなり、いつしかトウキョー・トムと呼ばれるように
なり、日本の球団から外国人選手獲得に協力要請の依頼が来るようになった。広島が初の日本一を達成した時のギャレット、
長嶋巨人のジョンソンを仲介したのは私なのだ。実はギャレットもジョンソンも元々は近鉄に行く筈だったのだが私の手違いで
近鉄入りが消えたのだ。後年ジョンソンが「自分の希望は近鉄だったが…」と言っていたが、むしろ巨人で良かったのでは・・



当時は未だ日米間の球団同士で提携関係を結んでいるケースは無く、巨人とドジャースも
友好関係ではあるけれども業務提携にまでには至っていませんでした。そのために日本の
各球団は独自に外国人選手獲得ルートを確保しなければならず不慣れな球団は代理人や
ブローカーの言いなりになりがちでした。当時はまだアメリカ球界のシステムに精通している
日本の球団は少なく代理人とブローカーの区別もつかずに選手側の言いなりの契約を結ば
されるケースも多々ありました。前年に西武が現役大リーガーのスティーブと結んだ契約は
日本人選手には適用する事のない典型的な外国人選手仕様でした。

 ・年俸は手取り6千万円の3年契約で税金分は球団払い
   (手取り6千万円は当時の最高額だった王選手を超える金額)
 ・日米間の往復航空運賃を年3回分まで家族の分まで球団負担
 ・家賃、光熱費、電話代、家族のタクシー代、子供の教育費 等 球団負担
 ・日本国内における事故、病気などに対する損害賠償保険料も球団負担
 ・3年目の選択権は選手側に


日本には代理人制度は浸透しませんね。当時のトラウマが日本球界に脈々と受け継がれて
いるのでしょうか。代理人の資格を弁護士に限定しているのも違和感があります。選手会は
弁護士以外の資格も認めるようNPB側に要求しているようですが拒否され続けたままです。
税理士や公認会計士の方が弁護士よりも適任だと思いますけど。アメリカでは野球に限らず
多く競技で、選手はアマチュア時代から代理人と契約し入団交渉をまかせて多額の契約金を
手にしています。日本では契約更改を一度で済ます事が「お金に綺麗」で良しとされますが
そんなのは交渉とは言えません。より良い条件を求める事はプロの選手として当然の行為で
「評価 イコール 金額」です。

現在、ソフトバンクの杉内投手が契約交渉で難航していますがこういう時こそ代理人を使って
いるメリットが有るはずなのですが、記者会見は杉内本人が対応するなど機能していません。
契約の詳細やメディア対応など煩雑な事を含めて全てを処理するのが代理人です。だからこそ
多額の成功報酬を得るわけで、アメリカでは選手以上に稼いでいる代理人も珍しくありません。
日本では、一人の代理人が担当できる選手は一人と決められているのも経営者側が代理人を
大金を得られるオイシイ商売にしないように画策しているのではと勘ぐってしまいます。
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#147 ブレーク前の落合博満

2010年12月08日 | 1980 年 



今年の日本シリーズでは千葉ロッテに敗れたものの、巨人の四連覇を阻止しリーグ優勝を
果たした落合監督。三冠王をはじめ多くのタイトルを獲得した選手でしたが決して順風満帆な
プロ入りスタートだった訳ではありませんでした。

  1年目・・・ 36試合  打率 .234  本塁打 2
  2年目・・・ 57試合  打率 .283  本塁打 15


社会人出身25歳のプロ入りで背番号も「6」を貰った訳ですから球団も即戦力として期待
していたのでしょうが、当初はプロのスピードに対応できず2年目も前半戦は1軍と2軍を
行ったり来たりの選手でした。それでも数少ない2軍戦出場で本塁打王のタイトルを獲得
したのは流石です。2年目の1軍での成績は、ほぼ後期だけで記録したものです。




5月10日に第1号を放ってから驚異的なハイピッチでの量産だ。11号を放つまでに要した試合数は僅か24で、2試合に1本。
しかも2軍は1軍と違って毎日ゲームがあるわけではなく、24試合に要した日数は40日間である。1ヶ月以上も調子を維持
した事になる。ただ波に乗ったのではなく、本当の実力が有ればこその快ペースだ。春のオープン戦で得津選手と激突して
左ヒザを打撲し離脱。1ヶ月はバットも振れず復帰したのが5月上旬、5月31日の巨人戦からイースタン記録の5試合連続
本塁打を放った。勝負強さも兼ね備えていて5試合連続本塁打の締めくくりは日ハム戦で延長10回裏にサヨナラ本塁打で
達成したのだ。待望の1軍入りは7月、「1号は憶えてますよ。負けゲームの7回、代打で出て近鉄の鈴木さんから打った。
上では15本を打ちましたが阪急戦で稲葉さんからの2本と、日ハム戦で成田さんから打ったのが印象に残っていますね」

落合のスイングを見ていると力んでいる訳でもなく、本塁打を狙っているようにも見えない。しかし打球は力強くピンポン玉の
ように飛んで行く。中途半端な振りで内野ゴロ・・なんて事はまず無い。間違いなく将来はリーグを否、日本を代表する打者に
なる逸材である。本人に2軍の11本と1軍の15本の違いは何かと聞いたところ即座に「2軍で何本打ってもお金になりません。
僕は野球でメシを喰っているんですから」と。その意気や良し、グラウンドには金が埋まってるだゾ2軍の諸君!ただし落合にも
悩みはある。守りである。本職は三塁だがロッテには有藤がいる為に今は不慣れな二塁を守っている。「守備につくのが嫌で・・
サインプレーなんてとんでもないです。飛んで来た打球を取るのに必死で精一杯です」試合の終盤は守備固めで交代させられ
ベンチに下がる事も多く、これからの課題は守りだ。フル出場できるようになれば本塁打数もさらに増えるのは間違いない。
「ノンプロの時の方がインコースによくバットが出てさばけていた。まだまだ課題は多いです」末恐ろしい打者である。



最近の落合は意識的にキャラを演じているように感じます。先日もファン感謝デーに昨年に
続き参加しなかったと報じられましたが球場に足を運んでいる時点で悪意は無く批判する声を
楽しんでいるかのようです。年俸1億円突破やFA制度で移籍した初めての選手は落合でした。
選手会を退会した落合が、選手会が交渉の末に獲得したFA権利を行使したり、名球会に入る
ことを拒否したりなど群れることを嫌う落合らしい生き方です。一般社会では決して通用しない
生き方を現役を退いた今でも、思いのままにしている様は羨ましい限りです。この記事の翌年
1981年に初のタイトル首位打者を獲得したのを皮切りに大ブレークしました。




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#145 1980年 ドラフト会議

2010年11月24日 | 1980 年 



大方の予想通り新人王は石毛と原でしたが2人以外の選手も活躍し、前評判通りの
「当たり年」と呼んで差し支えないと思います。

中尾 ( プリンスH→中日1位指名  980試合  699安打 109本塁打  打率 .263 )
 「光栄です。満塁本塁打を放った気分」 ドラフト前夜は本人以上に父親が高ぶる気持ちを抑える為に近所の神社で
 「お百度」を踏んだとのこと。その甲斐あってか意中の中日が1位指名し気色満面の記者会見は、まるで入団会見のよう。
 近藤監督は「木俣の後継者。唯一の難点はスローイングだが、それを直せばすぐ使える。木俣と併用するのは勿体ない。
 外野手としての二本立ても考えている」  


中田 ( 日産自動車→阪神1位指名  226試合 33勝 23敗 14S )
 横浜高では愛甲の前代エースで亜細亜大進学後に家庭の事情で中退。その後に日産自動車に入社、スカウトの目に
 留まったのは今年夏の世界アマ野球日本代表との壮行試合で先発して、全日本を3回1安打に抑える好投がきっかけ。
 会社側は「都市対抗に出るまであと1年…」と慰留の姿勢を見せるも「本人の意思を尊重する」としている為、阪神入りに
 大きな支障にはならない。

石本 ( 滝川高→近鉄1位指名  267試合 35勝 19敗 48S )
 昨秋の近畿大会、石本は名門滝川高のエースナンバー「1」を付けながらも登板する事が無かった。兵庫県予選で露呈した
 ノーコン病のせいで一塁手で起用されたからだ。「名前だけのエース」から脱却する為に練習に明け暮れ遂にエースの座を
 取り戻したのだ。そして今春センバツ大会で四国の鳴門高戦で完封勝利し、プロの評価もAランクに一変した。愛甲投手と
 比べても完成品であり即戦力に近い投手である。

駒田 ( 桜井商→巨人2位指名  2063試合 2006安打 195本塁打 打率 .289 )
 高校通算本塁打はドカベン香川を超える。駒田を一躍有名にしたのが今年の奈良県春季大会の強豪天理高戦での出来事。
 無死満塁で駒田をむかえると何と敬遠したのだ。「本塁打で4点取られるより押し出しの1点の方が得策」とは相手の監督談。
 ただ香川が太り過ぎで論議を呼んだように「いい打撃センスを持っているのは認めるが果たしてあの巨体を使いこなせるのか
 (ヤクルト・片岡スカウト)」と体格を懸念する声も。球審の判定にクレームをつける異色選手が優等生そろいの巨人に馴染む
 ことが出来るのかどうかも注目のひとつ。
 


他に指名された選手の中にも、大石(近鉄)・高木(横浜)など結果を残せた選手がいた一方で
芽が出なかった選手もいましたが、その筆頭が竹本由紀夫投手でしょう。
竹本 ( 新日鉄室蘭→ヤクルト1位指名  37試合 0勝 5敗 0S 防 4.71 )
 「彼ひとりで成果は90%以上」と武上監督に言わしめる程の男なのだ。昨年のロッテ1位指名、ロッテの追い込みは一説には
 「契約金7千万、年俸6百万円」と破格だったが頑として拒否、「在京セ希望」を貫いた。近鉄との競合となったが見事ヤクルトが
 引き当て満願成就となった。ヤクルトが提示する条件は「契約金5千万、年俸5百万円」とロッテの条件を下回る予想だが本人は
 「条件は二の次」とのこと。今夏の世界アマ野球では4勝をあげるなど実績は木田(日ハム)に引けをとらず、新人王は原ではなく
 この竹本が本命である。



ドラフトで当たり・ハズレがあるのは当然ですが、この竹本くらい大ハズレだったのはあまり
記憶に有りません。社会人野球のエースとして全日本にも選ばれ国際試合でも結果を残し
ドラフトでも2度の1位指名。過去にもドラフトで複数回指名された選手がいましたが、その
多くがプロで結果を残しました。森繁和(ロッテ・西武)、小池(ロッテ・近鉄)、藤沢(計5回指名)
特に竹本の様に2年連続で1位指名された投手となると江川(クラウン・阪神)以来です。

















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#144 王選手 突然の引退表明

2010年11月17日 | 1980 年 




前々週号の段階では現役続行するとし「来季に選手生命を賭ける」との記事を掲載してました
10月上旬に王は長嶋監督に「来年やれる自信は五分五分です」と心境を吐露していたので長嶋監督続投が決まった段階では
長嶋はもう1年務めるが王は引退する可能性が強い、と言われていたのだ。だが事態は一転、21日に長嶋監督辞任のコメントを
聞きに来た記者に対して「もちろん現役を続けますよ。僕にとっても来年は勝負の年になるんですから」と引退を明確に否定した
のだが翌22日のスポーツ紙には「王進退微妙」と出た。しかも それが報知新聞だったので王の身辺は再び騒がしくなったのだ。
これにはさすがの王も苦笑まじりに「なぜ僕の談話を素直に受け取ってくれないのかなぁ。改めて言いますが、今は100%来季も
現役でやると宣言します」と念を押した。巷間ウワサされている助監督兼任については 「藤田さんから相談を受けた事はある、
21日にね。だけど正式な助監督ではなく『助監督的』なポジションだよ」と あくまでも軸足は「選手」である事を強調していた。 
(11月10日号)


ここまでハッキリと否定されると「引退」と書けないでしょうね。報知が「微妙」と書いたのは
情報は得たものの球団からストップが出されたんでしょう。引退記事のスクープを各社とも
狙っていましたが結局、本人の会見までスッパ抜いた新聞社はありませんでした。


・・・王が引退するなら知っている親しい人間は必ずいる筈と人海作戦で、とりあえず電話しまくっていた。そこへA記者から
連絡が入る。Aは日ハム担当で日ハムの球団事務所が王の自宅近くだった為に行かされていたのだ「奥さんしか居ません」
「そんな事は分かっているワ」「でも奥さんが変な事を言うんですよ、何も言えないって。これって辞めるという事ですよね?」
系列テレビ局の文化部デスクに確認するが「まだ特番の連絡は無い。本当に引退するのか?」との事。巨人球団事務所に
張っている記者から「芝の東京グランドホテルに予約が入ったとの情報が有ります。確認して下さい」 すぐにホテルに確認を
取ると「5時から『桜の間』を予約されています。今朝9時半に巨人軍の紺野広報担当様からの予約です」・・・ これで引退は
決まりだ。これが午後2時半過ぎの事。引退は決まりだが長嶋に続いて王も退団するのでは?との情報が乱れ飛んで社内は
大混乱になった。午後3時、長谷川代表が慌てて球団事務所から出て行き 「やはり王は退団するらしい。オーナーと代表が
説得に向かった」と連絡が入る。午後3時15分、正式に巨人軍からマスコミに連絡 「午後5時から王選手が記者会見する。
出席者は、王・オーナー・代表・藤田監督」 ただ退団か助監督就任かどうかは未確認・・・



結局、各マスコミが大混乱の中「口はばったい様だが、王貞治としてのバッティングが
出来なくなった・・」として引退を発表した。退団はせず助監督に就任する事になったが
実は前々から引退後の退団は球団も了承していたらしい。ただ長嶋に続いて王にまで
退団されては球団の存亡にかかわると説得されて渋々助監督就任を受けたようです。







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#143 1980年日本シリーズ 広島vs近鉄

2010年11月10日 | 1980 年 
ロッテvs近鉄のプレーオフは近鉄が勝ち、日本シリーズへ
















前年と同じ顔合わせでしたが広島の連覇となり、近鉄の悲願は達成出来ませんでした。
近鉄は一度も日本一になる事なく「球団合併・消滅」の道を辿る事となります・・・この頃の
カープはまさに黄金期でした。









プロ野球界最大のイベント「日本選手権シリーズ」も長嶋監督辞任騒動の余波で注目度は減り
メディアへの露出は例年以下で寂しいものでした。広島が連覇を達成して世間の眼が野球に
戻りかけたら、今度は「王選手引退」で再び蚊帳の外・・

恐らく最も印象が薄いであろう日本シリーズを少し振り返ってみると・・第1戦は山根-井本の
先発で始まり一進一退の展開で4対3 広島リードの9回、江夏から吹石が犠飛を放ち同点。
延長戦も江夏が続投するが疲れの見えた12回表羽田が決勝の2ランで近鉄が先勝。 続く
第2戦は雪辱を期す広島が2点をリードするが5回に吹石が逆転3ラン、6回にはマニエルが
3ランを放つなど結局、9対2で2連勝。悲願の日本一に向けて最高のスタートとなった。…が
3戦以降の詳細は分かりません・・・ちなみに「江夏の21球」は前年の出来事です。


















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#142 長嶋監督解任劇

2010年11月03日 | 1980 年 




当時は社会問題化するほどの大騒ぎでしたが 「6年間で2度のリーグ優勝・日本一は無し」
優勝を逃した4年は最下位・2位・5位・3位ですから解任は理不尽ではないでしょう。 特に
「常勝を義務付けられている(笑)」巨人なら尚更。1993年からの第二次就任時は多少マシに
なりましたが、FA制度を使って補強しまくりの優勝ですから大した価値は有りません。


いち早く報じた10月21日付 スポニチの見出しは『解任』、日刊スポーツは『辞表』、そして巨人の機関紙・報知は来季の開幕権を
得た事だけ報じていた。長嶋本人が 「讀賣上層部で長嶋をクビにし新しい監督を連れて来ることを決めた」 との情報を知ったのは
10月15日の夜半だったと言われている。その前日夜に長嶋は正力オーナーに会って「来季こそ…」と情熱を込めて自分の構想を
披瀝している。その時すでに球団を遥かに超えた讀賣グループ上層部で長嶋更迭を進めていた事を知って長嶋は大きなショックを
受けた。後に分かった事だが、その時点で既に藤田新監督は「内示」を受けていたのだ。

夏頃から流れていた更迭説は長嶋擁護派の巻き返しで一旦は消えたと思われたが、球団レベルを超える更迭派が留任をアッサリ
蹴散らした。この解任劇が完璧かつ、隠密裡に進められた証拠が鈴木セ・リーグ会長の発言である。巨人だけではなく球界内の
事案処理に長けて各球団の内情を誰よりも熟知していた筈の鈴木会長でさえ、スポーツ紙が解任を報じた10月21日午前11時に
リーグ事務所に顔を出した際つめかけた報道陣に「長嶋クンは辞めないよ、先日も讀賣の務台社長に話したんだ。"今の戦力じゃ
優勝は無理だよ、開幕権が取れれば御の字" とね。務台さんだって分かってくれてる筈、だから…」藤田氏がNHKに辞表を出した
との情報が入っても「藤田クンはヘッドコーチだよ」と留任説を引っ込めない。あまりの自信たっぷりの言葉に記者たちも 「会長が
言うのなら」と帰って行った。


その時の様子を鈴木会長が手記として回顧しています
長嶋君の退団は私にとって全く予想外の出来事だった。8月下旬、巨人は5位から4位に上がるかどうかというところであった。
パ・リーグの日ハムが後楽園で開幕するのも良いが、後楽園は大正力の時代から深いかかわりがある。その後楽園で巨人は
このところ開幕権を失っていて、3位になって開幕権を得れば大成功だと思っていたのである。優勝した広島を表彰する為に
18日は広島に滞在しセレモニー後も広島に留まり巨人戦を見物した。19日・20日の2試合とも巨人が勝ち3位が確定したのを
見届け帰路についた。同じ飛行機に搭乗した長谷川代表に「後楽園で開幕出来る、これで正力君も安心しただろう」と告げると
長谷川君も喜んでいる風だったので長嶋続投を信じて疑わなかった。一夜明けた21日、一部のスポーツ紙が「辞表を叩きつける」
「解任」と書き立てたが、その紙面は急に書いたものではなく、あらかじめ用意された予定稿に感じられたのでトバシだなと思った。
事実、長嶋君は「オーナーに報告してからですが来季もやりますよ」と言っていたのだ。辞任すると分かったのは記者会見が始まる
直前に、巨人の球団関係者から「秘密にして申し訳なかった・・」と連絡が入った時だね。実は長嶋君自身も自分がどうなるのか
分かってなかったそうだ。21日朝からマスコミにマークされ自宅から出られなくなり球団からの連絡を待ち続けたが「とりあえず
大手町の讀賣新聞社本社に来い」と言われ行くと解任を告げられた。あの記者会見の10分前だったそうだ。巨人にも色々と都合も
あるだろうが日本プロ野球最大の功労者に対して遇する道を誤ったと言えるのではないか。テレビに映る長嶋君の自分を抑え、
言葉を探して喋っているのを見た時、不覚にも涙が出たよ。



また今回の解任決定は正力オーナーの不在を狙ったクーデターとの見方がある。オーナーは
時には苦言を呈する川上前監督と違い、長嶋が可愛くて仕方ない。そのオーナーが長嶋監督を
切ることに賛成しないのは明らかだった。そこで8月に讀賣新聞社・社主として渡米中の留守を
ついて務台社長ら解任派が決起したというのだ。未だに正力オーナーは長嶋に球団常務取締役
就任を要請するなど未練タラタラだが讀賣新聞は「巨人を辞めた人間を特別扱いするのは…」と
既に「過去の人」扱いだった。こうした巨人の仕打ちに対して長嶋は記者会見でも「解任」との
表現は使わず、あくまで自らの意思で身を引いた「辞任」であるとの主張を貫いた。





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#141 回顧・60年つづく日本シリーズ

2010年10月27日 | 1980 年 
今週末に日本シリーズが開幕します。クライマックス・シリーズ制は来年以降も続くのでしょうか?
下手をしたら3位同士の対戦で勝った方が「日本一」って・・今年の日本シリーズの開幕1・2戦は
地上波では全国テレビ中継されずローカル放送のみだそうで。NPB自らがプロ野球の存在価値を
落とすシステムを採用し、自分の首を絞めているという風に思えてならないのですが。かつては
日本中の目を釘付けにした日本シリーズを写真で振り返ります。



第1回は昭和25年 「毎日オリオンズ vs 松竹ロビンス」 4勝2敗で毎日が初代王者に





昭和30年代前半は西鉄ライオンズ黄金期です






昭和30年代中盤以降は南海ホークスが台頭





昭和40年代になると巨人の「V9時代」が始まります




昭和49年は今年と同じロッテvs中日の対戦でした




昔はエースの連投は当たり前




「遂に」か「やっぱり」なのか今年の日本シリーズのテレビ中継が一部ローカル扱いになるそうで
御愁傷様と言う他ありません。かつて隆盛を極めたプロレスを追うかの様な衰退っぷりですなぁ
テレビ中継もゴールデン帯から深夜へ送られた後に消滅したプロレス中継の様に同じ道を辿って
行く気がします。巨人一極集中からの脱却を求める声も有りますが、今さら遅すぎでしょうね


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#140 世紀の大スクープだったのに・・・

2010年10月20日 | 1980 年 



見出しは派手ですが中身は最後の最後で「…しかし、讀賣側が再契約を申し出たらしい…」と
ウラが取れなかったのかトーンが下がりスクープを逃がしてしまいました。

「深く、静かに…」の言葉以外、何と表現したらいいのだろう。それほど親会社の讀賣新聞と関連会社、それと巨人球団との間で
幾度となく「ある話し合い」が行なわれてきたと言うのだ。「ある話」とは長嶋と王の去就である。最初は長嶋の周辺から始まり、
10月に入って本社筋から突然、長嶋を代えろとの声が出たというのだ。東京・大阪・西部 各讀賣新聞の重役会議が行なわれた
直後だった。寝耳に水の球団フロントは慌てて「長嶋の次は誰が…」とお伺いを立てると、特定の名前は出ず長嶋解任ありきの
話で後任は誰でもいい、とにかく長嶋をクビにしろという事だった。次第に長嶋を取り巻く状況にも変化が出始めたのである。

実は長嶋は今年も静岡県伊東市で秋季キャンプをやるつもりで、球団も11月いっぱい伊東スタジアムを押さえていて、受け入れ側の
伊東市も準備万端で待っていた。それが急にキャンセルとなり多摩川グラウンドで行なう事になったのだ。中止の表向きの理由は
多摩川に2千万円もかけてトレーニング施設を作ったので、それを使うと言う事だった。だが、その施設は伊東に行かないベテラン
選手が使う予定だったので伊東キャンプ中止の理由にはならない。「長嶋をクビにするのではないか…」球団内に不穏な空気が
漂い始めたのもこの頃だった。この手の話は必ず漏れ伝わるもので、この頃から長嶋の周辺に微妙な変化が現れ始めた。

長嶋擁護論が日本テレビ・報知新聞など長嶋人気が直接、営業に響いてくる系列会社から出てきたのだ。こうした声を受けて長谷川
球団代表が長嶋体制維持で動き始めた結果、本社筋も長嶋続投を了承したというのだ。ただし、過去2度の「3年契約」ではなく
「1年契約」とのこと。解任寸前まで追い込まれた長嶋に残された時間は少ない。来年は優勝する事が絶対条件で、V逸すれば
再来年は無い。来年が長嶋のユニフォーム姿を見られる最後の年になるかもしれない。





一方の王選手に関する記事は具体的な動きを掴んだものではなく、「雰囲気・匂い」程度の
域を出ていませんでした。

10月12日のヤクルト戦で神部投手から19年連続の30号を放ったものの、1年を通して本来のバッティングが出来なかった
姿を見て「ひょっとしたら王は引退するんじゃないか」との噂が流れたのも当然だ。こうした声に対して球団幹部は「王は球界の
至宝、彼の引退はもはや彼個人の問題で済まない。仮にその時が来たら本人から相談がある筈」と引退の噂を一笑に付した。
ところが別の球団幹部によると王は「今はシーズン中ですからプレーに集中します。今後の事はシーズンが終わったらじっくりと
考えて結論を報告します」 つまり事前の相談は一切しないという王の言葉に、この球団幹部は愕然としたそうだ。

「可能性は40%くらい有ると思いますよ、普段の話の中で微妙な事を最近よく口にするしね (某ベテラン選手)」 王は本心を
明かさない人間だから一体どうゆう結論が出て来るのか分からない。今のところ11月上旬に予定されている人間ドッグの後に
結論が出るのでは、という説が有力だ。「王は来季もバットを握るのか否か」長嶋監督続投が決まった巨人に残された最大の懸念の
結論は未だ出ていない。




翌週号は「長嶋監督辞任」 しかし、この号でも王選手は「来季に…」と
引退記事はボツとなり結局、2大スクープは幻に・・・




前に取り上げた「松沼兄弟・巨人入り」や「スパイ行為」等の記事など、かつての週べは
東スポ並みの勇み足的記事や球界暗部の追求記事も有り楽しく読む事が出来ましたが
徐々にNPBの広報誌であるかの様な無難で当たり障りのない記事が目立つようになるに
つれて買う回数も減っていき、今では立ち読みすらしなくなってしまいました。
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#139 1980年 ドラフト候補選手たち

2010年10月13日 | 1980 年 



    ドラフト会議を控えて週べが1位指名選手12人を予想をしています


石毛 (プリンスホテル):「原以上の逸材」が一時はプロ拒否宣言をしたが、その後「西武なら」と軟化。しかし他球団も
               諦めていない。守備・走塁はプロでも一級品、打撃も粗さは残るが成長の跡がうかがえる。

愛甲 (横浜高):「契約金は4千万円以上」発言で顰蹙を買うも、それもハングリー精神ゆえと評価する声も。投手より
          甲子園の右翼スタンドへ弾丸ライナーで放り込んだ打撃を生かして打者転向が予想される。

山内
(リッカー):浜名高から駒大に進学したが親友の野球部退部につられて?一緒に退部&退学。1年ほどブラブラと
          過ごした後、高校OBの口利きでリッカー入社。 「野球が出来るだけで幸せ」と12球団OKの即戦力。

(東海大):文句無しのドラフトの目玉。一応、巨人・大洋・西武・広島を意中球団としているが本心は巨人一本。
        打撃よりも腰高の守備面を危惧する声もあるが、それも大物ゆえの難クセか。

川村
(松商学園):今夏の甲子園で彗星の如く現れた豪速球投手で風貌や言動から「江川2世」の異名。1試合平均
           10個以上の奪三振を記録する好投手だが「西武以外ならプリンスホテルへ」と宣言。

市川
(東海大):将来性なら中尾(プリンスH)を凌ぐと言われる走・攻・守そろった好捕手ながら2~3年は辛抱か。

広瀬
(峰山高):「高校生左腕No,1投手、内角へ食い込む速球は今すぐにでもプロで通用する(中日・水谷スカウト)」
          PL学園のセレクションを落ちて以来、強者を倒すことに生き甲斐を感じるようになった。

竹本
(新日鉄室蘭):去年のロッテ1位を拒否して希望の在京セを貫く。社会人時代の木田(日ハム)以上と言われ
             「去年ロッテ入りしていれば新人王は木田ではなく竹本だったろう」との声も。

岡村
(河合楽器):今夏の世界アマ大会では3打席連続本塁打を放ち準優勝に貢献。12球団OKの堀り出し物。

高山
(秋田商):150kmを出せる高校生は高山くらいだろう。実家が横浜の為、既に親子揃ってプリンス野球部を
          見学済みで、西武以外ならプリンス入りが決定的。

石本
(滝川):「素材としては愛甲が上だが第一線に登場するのは石本の方が早いだろう」との声があるように
         高校生ながら即戦力に近い大型左腕。

中尾
(プリンスホテル):都市対抗では補強選手として出場し4本塁打で久慈賞を受賞。強肩に加え100㍍を11秒台と
               捕手とは思えぬ俊足も魅力の即戦力。





この年は人材豊富で1位候補は多かったのですが、市川(東海大)・岡村(河合楽器)以外は
週べの予想は的中しました。中田(日産→阪神)、川口(デュプロ→広島)が1位指名でした。












慶応大出身の野手はプロで通用しませんねぇ・・・青島、堀場、上田、大森





この時代は六大学以外の大学リーグの方がレベルが高くプロ入りする選手も多かったです







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#138 巨人はFAを30年前から画策していた

2010年10月06日 | 1980 年 




巨人がFA制度を本気で考えたのはドラフトでPL学園・清原を逃し、その清原が西武入り後も
巨人への思いがむしろ強まっているとの情報を掴んだからとの話を耳にした事がありましたが
実際は30年前には既にFA制度導入を画策していたようです。



日本でもかつて10年&14年選手制度というものがあった。昭和39年暮れ、当時の国鉄球団の
金田正一投手が巨人へ移籍したのを最後に、この制度は廃止され翌40年にドラフト制が開始。
今回 報じられた巨人の提案は「10年」を「6年」に短縮したものだ。長嶋が引退し王にも衰えが
顕著になった今、巨人が戦力をアップさせる方法はコレしかない。実現すれば高橋慶彦(広島)
山口高志(阪急)・工藤一彦(阪神)などが「自由宣言」をし、オフに指名会議を開催し交渉権を
獲得していこうとする日本版リエントリー制度を巨人は目指している。




       ・・・この報道が明るみに出た夜、巨人・長谷川代表は後楽園球場内で会見し、記事を全面否定した。
 
   「そうでなくても仮に、仮にですよ、私達が球界全体の為に…と考えて正しい提案をしたとしても、今はまだ "あの巨人が…"
   球界に弓を引く、というふうに取られてしまう。そんな状況下で私どもがそんな大胆な提案をすると思いますか?たちどころに
   世間の猛反発を喰らうだけですよ」  長谷川代表は今回の件については巨人は「被害者」だと言う。「誰かがウチを悪者に
   する為にアドバルーンを揚げたのではないか」 今や巨人は被害者意識に取り憑かれているかの様な弱気な発言が代表の
   口から次々と出た。 ・・・長谷川代表はセ・リーグ理事会で他球団に泣きを入れたそうだ。「現行のドラフトがある以上、ウチに
   再生の道は無いと。トレードをしようにも "あの選手は出すな" など意見する球団外のOBもいて思うようにいかない。なのに
   "巨人は勝たねばならぬ" とか言われても、どうすればいいのか…と嘆いていたよ」 また別の球団の関係者は「あれは決して
   愚痴や泣き言じゃないよ、一種の自慢じゃないかな。 "皆さんだって巨人がいつまでも弱いと困るんじゃないですか?" という
   ニュアンスが感じ取れるもんね」 その意味はこうだ、なんだかんだ言っても巨人戦は客が入る、テレビの放映権収入も大きい。
   でも敵役の巨人が弱すぎたら客も減り活気も無くなってくる。つまり入って来る金も減りますよ、それでもいいのですか? と
   巨人は迫っているんです。



有力選手を巡って高額の条件が乱れ飛ぶ事態になれば人気&財力のある巨人に有利になる。
リエントリー制度を使って「V9の再来」を・・記事ではFA制度が実現したら各球団の主力選手が
巨人入りし、戦力バランスが崩れ巨人ばかりが優勝するようになると書かれています。実際は
13年後にFA制度は実現します、そして記事のように何人もの主力選手が巨人に移籍しました。
・・が、巨人が優勝し続ける事は有りませんでした。'80年代以前は、巨人から移籍した選手が
活躍すると「こんなに良い選手を飼い殺ししている」と言われ、逆に入って来た選手が思った程
活躍しないと「外様に冷たい雰囲気が萎縮させてる」と批判されていました。それは多分 選手の
力量と言うよりも対戦相手の違いが原因だったのではないでしょうか。

当時の巨人戦は毎試合全国放送されていた為、他球団はいわゆる「表ローテ投手」を起用して
いました。巨人相手に活躍すれば「巨人キラー」とモテはやされ人気も給料も上がります。一方
「裏ローテ投手」相手に好成績をあげていた選手が巨人にやって来ると毎試合エース級と対戦
する事になり思うような結果は残せず、出て行った選手は逆に好成績を残した、みたいな感じ?
現在では巨人戦は他球団にとって「One of them」に過ぎず、どの相手に勝っても1勝は同じ と
なり特別視される事は少なくなったようです。






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#137 プロ1年目の牛島・香川の浪商コンビ

2010年09月29日 | 1980 年 
















後にPL学園・清原、桑田の同級生が共に1位指名されましたが、浪商コンビの頃は同じ
高校からドラフト上位指名選手が出るのは珍しい事でした。即戦力は木田・岡田でしたが
ドラフト時はこの2人の方が注目を浴びていました。当時の高卒ルーキーが1軍に上がる
のは稀で、さらに勝ち星(2勝)や本塁打(8本)を記録する事はめったにありませんでした。

高校時代は香川の方がファンやマスコミの人気はありましたが、プロ野球選手としては
牛島の方が大成しました。香川にはプロ入り前から体型を危惧する声が多かったですが
その不安を払拭することは出来ませんでした。香川以降も矢作(日ハム)・山之内(ダイエー)
など同じ様な体型の選手がプロ入りしましたがモノにはなりませんでした。今年も中日に
中田(ぶーちゃん)が入団しましたが、どうなるのでしょうか?
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#136 本塁打が乱舞する極狭球場

2010年09月22日 | 1980 年 



最近は「飛ぶボール」の影響なのか、本塁打が量産され大安売り状態です。東京ドームが
「ドームラン」と揶揄されて叩かれていますが東京ドームが誕生した当時は「広い」「巨人は
本塁打が激減するゾ」などと言われていました。それくらい以前の後楽園球場は狭かったの
でした。何しろ西武球場と横浜スタジアムが広い球場の双璧と言われていた程でしたから。
球場の広さに関する記事がありましたが、ビックリするような数字が載っていますが当時は
話題にならなかったのでしょうかね?観客動員数と同じくアンタッチャブルな問題だったか・・



・・・下田コミッショナーの「各球場の規格は同一の方が望ましい」の発言に端を発した球場問題も
一朝一夕には解決しないのである。せめて「誇大表示」くらいは止めてくれよ、がファンの声だが・・

「実際はね、81㍍しかないんだよ。フェンスを高くして 90㍍にしてるんだ」 マスコミ関係者が声を
ひそめて言った。テレビ中継でおなじみの後楽園球場の両翼のフェンスにはハッキリと 「90m」 と
書かれているけど実際は9 ㍍も短いと言うのだ。あるスポーツ紙が実測したところ 82.08 ㍍だった
などの話も耳にするが、大変な誇大表示である事は間違いない。「でもね後楽園だけじゃないよ。
広島、ナゴヤ、もちろん川崎球場も全てフェンスの高さを計算に入れて表示してる」「横浜や所沢は
実測94㍍だから後楽園とは10㍍以上違う」 これが本当だとすると "青少年の模範となるべき
プロ野球がインチキをしていることになるではないか!" ・・・・下田コミッショナーの「横浜を規格に
したい(両翼94m 中堅122m)」発言を真剣に考える時期に来ているのではないか。



東京ドームは左右中間の膨らみが無いので狭く感じますが両翼100㍍は本当らしいです。つまり
後楽園球場は20㍍も短かった・・米メジャーが王選手の「世界新記録」を無視したもの頷けます。
ならば当時の狭い球場は野球規則違反なのかと言うとそうではありませんでした。公認野球規則
にはこう書かれています。


        ・・・本塁よりフェアグランドにあるフェンス、スタンドまたはプレイの妨げになる施設までの距離は
          250フィート(76.199㍍)以上を必要とする・・・



後楽園球場の「81㍍」は充分、野球規則をクリアしていたのです。ちなみに1970年代以降
プロ球団が本拠地にしていた中で最も狭かったと言われていた 「東京球場」 の形状は後の
東京ドームそっくりで左右中間の膨らみの無い、投手泣かせの球場でした。









完璧に個人的意見ですけど人工芝球場は嫌いです。文字通り「人工芝」の緑は美しくなく
いつ見ても色褪せた感じです。初めて見た野球場は神宮球場で、内野の土は黒色に近く
外野の芝の緑とのコントラストが実に綺麗でした。今も有るかどうか分かりませんが内野の
ダイアモンド部分の人工芝を土色にしている球場がありましたが、アレは無いです・・・。

いま現在、天然芝球場が甲子園と広島だけとは残念です。人工芝に加えてドームとなると
最悪です。たまに守備についている選手がツバを吐いている場面を目にしますが、ドームで
風雨で流されないアレらはどうなるのでしょうか?想像すると気分が悪くなります。定期的に
清掃はしてるんですかね、じゃないと密閉された球場内は悪臭が漂う事に・・・維持費の面で
人工芝を採用しているのでしょうが、選手寿命も考慮してみて再考して欲しいです。



# 744 極狭球場 Part 2 - Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

# 744 極狭球場 Part 2 - Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

本塁打が乱舞する今年のセ・リーグで開幕から38イニングも被本塁打がなかった江本投手(阪神)だったが、4月29日の大洋戦で遂に2本塁打を浴びると試合後「セ・リーグはこ...

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