Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#289 風雲録 ③…世紀の大トレード(後編)

2013年09月25日 | 1982 年 


先ず青木は自分の足元固めから始めた。大毎・本堂監督に「阪神と大がかりなトレードをやってみようと思うがウチから出せる選手はどのあたりか?」と切り出すと、「大物投手が獲得出来るなら榎本(喜八)以外なら誰でも構わない」と本堂は答えた。 "ミサイル打線" と呼ばれていた頃なので、それ相応の選手が揃っていたが「エノ以外と言うと山内や葛城(隆雄)でもOKなのか?」と確認すると「ハイ」と。昭和38年のシーズンが開幕して早々に青木は極秘裏に阪神・藤本監督に接触し、いきなり「小山か村山のどちらかが欲しい」と申し出たが藤本は「NO」と即答した。「では誰なら出せるのか?」と聞くと「一塁の藤本(勝巳)か遠井なら」との返事。大毎で出せない榎本が一塁手なので双方に利点は無く、この話は一時凍結してジッと機が熟すのを待つ事にした。

シーズンも深まり夏が過ぎた頃、今度は青田ヘッドコーチと接触した。「アオさん、実はこういう話があるんだが…」と藤本監督とのいきさつを話したが、あえて小山・村山の名前は出さなかった。「トレードは小物同士でやっても意味はない。どうせやるなら大物で」と青田が言ったのに対し、ならば「小山が欲しい」と畳み掛けた。阪神のシーズン中の戦い方を見て村山を手放す事は絶対にないと踏んだからだ。青田は即座に「なら山内をくれ」と答えた。青木は「やった」と内心ほくそ笑んだ。近鉄戦でミケンズ投手から頭部に死球を受けた後遺症で無意識のうちに内角球を逃げるようになり得意の内角打ちに翳りを見せ始めていたからだ。

だがここで話を急ぐと足元を見透かされると考えた青木は「あまりに大物過ぎるから一度球団に持ち帰ってオーナーの許可を貰って来る。阪神さんも藤本監督や戸沢代表と話を煮詰めておいて欲しい」と提案し、双方が原則的に了承し青木が戸沢代表と正式の場で会ったのは1ヵ月後だった。戸沢代表は青木と会うなり「本当に山内をくれるのか」と切り出すが、戸沢という男もなかなかの策士で「ウチの小山は何と言っても20勝投手、今の投手陣から20勝分が消えるのは痛い。山内君にもう1人投手を付けて欲しい」と言い出した。これに大毎側は反論した。「山内には大毎と言うよりパ・リーグを代表する強打者だという自負があり1対2の交換トレードではプライドが許さないだろう。阪神は投手を、ウチは打者を出すのだから今回とは別件で投手・打者逆の選手をトレードしましょう」と提案し、後にマイケル・ソロムコ外野手と若生智男投手のトレードが成立した。

ここまで大きなトレードとなるとオーナー同士の了承が必要になり大毎・永田オーナーが阪神・野田オーナーを大阪まで訪ねて最終的な合意を経て正式発表の運びとなった。実はオーナー同士の会談の席で野田オーナーが「小山投手に対する10年目のボーナスの半分が未払いだ」と告げると永田オーナーはボーナスの額を聞かずに「いいですよ、ウチが払いますから」と太っ腹な所を見せた。太っ腹と言えばこのトレード話より以前に永田と小山との間にはこんな事もあった。青木と小山が食事をしていたホテルにたまたま居合わせた永田は小山に「銀座で一杯やってくれ」と封筒を手渡した。後で数えたら30万円もの大金が入っていた。何しろ大卒男子の初任給が1万5千円前後の時代の30万だから大そう驚いたそうだ。

正式発表が終わると今度は「小山君、馬は好きかい?お祝いに1頭あげよう」と言うと「いやいやオーナー、我が家は馬を飼えるような豪邸じゃありませんから遠慮しときます」と断った。永田は所有する競走馬の内の1頭の馬主に、のつもりだったのだが。すると「血統の良い馬なのに要らないと言うのなら仕方ない。じゃ代わりに車をあげよう」と後日、新車のサンダーバードが小山の自宅に届いた。2人は移籍先の球団で結果を残した。山内は打率こそ.257 と3割を下回ったが31本塁打(3位)・94打点(2位)、小山は30勝12敗で最多勝に輝いた。阪神、大毎ともに優勝は出来なかったがこの世紀の大トレードは内容・衝撃度ともに大成功だったと言える。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#288 風雲録 ②…世紀の大トレード(前編)

2013年09月18日 | 1982 年 


青木が手がけたトレードの中で最も大型で世間をアッと言わせたのは小山正明 ⇔ 山内一弘(当時は和弘)の「世紀の大トレード」だろう。昭和38年オフに実現したこのトレードは両リーグを代表するエースと四番打者の交換で、トレードとは不要な選手を放出するものという従来の固定観念を根底から覆す前代未聞の出来事だった。

山内選手(大毎)は怪我に泣いた昭和33年を除くと昭和29年から37年の9年間で8度も打率3割をマークし、首位打者・本塁打王・打点王のタイトルも手にした押しも押されぬ強打者。一方の小山投手(阪神)は昭和33年から24勝、20勝、25勝と3年連続20勝以上をあげ昭和36年こそ11勝と振るわなかったが翌37年は27勝で阪神の15年ぶりの優勝に貢献した。しかし阪神は日本シリーズでは水原監督率いる東映に敗れ念願の日本一には手が届かず球団内の喜びも半減といった具合だった。そんな状況をジッと見つめていたのが青木だった。「藤本監督はリーグ優勝だけでは満足していない、必ず血の入れ替えを模索している筈」…理屈ではない、長年この仕事に携わって来ているうちに自然と培われた「勘」であった。

シーズン中から青木の耳には阪神球団関係者から幾度となく小山投手と「もう一人のエース」村山投手の確執話が入っていた。昭和34年に入団して力感溢れる情熱的な投球で一躍人気者になった村山と既に確固たる地位を築いていた小山は典型的なライバル関係にあった。年齢は2歳違いだが高校卒業後テストを受けて入団した小山と関西大学を全日本大学野球選手権で初の優勝に導くなどの活躍を評価されて巨人からの誘いを蹴って阪神入りした村山とは入団当初からソリが合わなかった。村山の1年目は18勝、その年の小山は20勝。翌年、村山が "2年目のジンクス" に陥り8勝と成績を落とすと小山は25勝と貫禄を見せつける。さらに翌年は村山が捲土重来で24勝と盛り返すと逆に小山は11勝と精彩を欠いた。

ここまでは一方の成績が良ければ片方は悪いといった具合に微妙な関係を保っていたが阪神がリーグ優勝した昭和37年は小山が27勝11敗・防御率1.66、村山は25勝14敗・防御率1.20 と2人ともに活躍した。その年のMVPに選ばれたのは勝ち星では劣る村山だった。「両雄並び立たず」の格言通り2人の仲の緊張関係がピークだったのがこの時期だった。チーム内はもとより球団フロントや担当記者までもが小山派と村山派に別れ反目し合った。青木は小山が新人だった頃からの付き合いで小山の人と成りについては熟知していた。小山は人見知りで人付き合いが苦手、正義感が強く好き・嫌いがハッキリしていて決して愛想は良くなく大衆受けは悪い。一方の村山はザトベック投法と呼ばれる髪を振り乱して力投する姿でファンを熱狂させ阪神では断トツの一番人気、球団が今後は村山を前面に推していく事は明白だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#287 風雲録 ①…A級10年選手

2013年09月11日 | 1982 年 


「マムシの一三」と呼ばれた敏腕スカウト・青木一三氏の回顧録。交渉能力が高く数々の大物獲得にも辣腕ぶりを発揮した。また吉田義男・三宅秀史・山本哲也・藤本勝巳ら他球団がノーマークだった選手を発掘し次々と獲得した眼力も絶賛されていた。球界へ大きく貢献する一方で裏の顔として数々の事案を演出した青木氏が当時の舞台裏を明かした。




【A級10年選手】…同一球団でプレーした選手に「ボーナス受給の権利」か「自由移籍の権利」の
            どちらか任意の権利を与える

【B級10年選手】…複数球団で10年間プレーした選手に「ボーナス受給の権利」を与える



昭和28~29年頃から新人の契約金が急騰したが「海のモノとも山のモノとも知れぬ新人に莫大な金を払う一方で安い契約金と年俸で長い間プロ野球界に貢献して来た選手に何の特別報酬を出さないのは不公平ではないか」という声に押され10年選手制度が導入された。従って昭和28年以降にプロ入りした選手にはその資格はなかった。阪神の田宮謙次郎はA級資格を持つ最後の大物と言われ動向が注目されていた。

昭和33年には首位打者のタイトルを取り大物ルーキー長嶋の三冠王を阻止した選手が移籍するかもしれないとあって田宮の周囲は騒がしくなった。私(青木一三)は当時大毎オリオンズのスカウトだったが旧知の仲という事もあり仕事抜きで相談に乗っていた。彼は元々お金に対する執着心は無く周りの人間から「アッサリし過ぎるよ。君クラスの選手ならもっと貰ってもバチは当たらないよ」と言われても「俺はそういう性分だから」と取り合わなかった。

まだシーズン中に私が彼の自宅を訪ねて身の振り方を聞くと「アオさん、俺は10年選手の権利を振り回そうとは考えてないよ。阪神が好きだし法外な要求をするつもりはない。球団がA級選手として納得できる条件を出してくれたら残るよ」と契約更改同様に欲の無い事を言った。シーズンオフに突入すると在阪スポーツ紙が虚実入り混ぜた報道合戦を始めた。「田宮の要求とは数百万円の差が」「球団はいざとなったら放出も辞さない」 等々…

交渉のタイムリミットは12月25日午後5時であった。田宮の要求はボーナスを含めて2,000万円、対する球団の提示は1,500万円と開きは中々埋まらず時間だけが過ぎて行った。田宮は最後まで残留を考えて1,800万円まで額を下げ、球団も1,700万円まで譲歩したがどうしても100万円の差が埋まらない。「100万円ぐらい出せば…」「100万円ぐらい我慢しろ…」両者は共に譲ろうとしない。こういう時は選手とフロントの間を監督が取り持ってメデタシ・・と行きたい所だが運悪く当時の監督は日系二世のカイザー田中。日本人の義理人情を理解するのが難しかったのか我関せずを貫き結局、交渉は決裂した。

首位打者・田宮はどこへ?騒動は過熱した。甲子園浜の自宅周辺は早朝から深夜まで報道陣が張り付き家の前の道路は各社の車で埋まり群がる報道陣目当てにラーメンの屋台まで出る始末。「田宮獲得」の球団指令を受けた私も大阪のホテルに泊まり続けた。色々な情報が耳に入って来たが娘さんが転校するのを嫌がっている為、田宮は関西圏から出るつもりは無く在阪球団への移籍を考えているようだった。在阪球団で獲得に名乗りを上げたのは近鉄と阪急。特に近鉄は根本睦夫スカウト(現西武・管理部長)が精力的に動き一歩リードと伝えられていた。

このままでは田宮獲得は無理だ。何か策はないかと考え田宮に影響力を持つ人物を探した。いた。しかも私の身近に。私が阪神在籍当時に世話になった松木謙治郎氏だ。聞けば田宮は松木を「人生の師」と仰いでいるという。口説き役として彼以上の人物はいない。早速、松木に連絡を取り仲介を依頼したが当時松木は東映の打撃コーチで同じパ・リーグのライバル球団の大毎オリオンズ移籍を薦めてくれるか不安だったが、快く口説き役を引き受けてくれた。

田宮は悩みに悩んだ。田宮から「静かな所で頭を冷やしてじっくり考えたいが家の周りは記者だらけで抜け出せない。手を貸してくれないか」と頼まれ私は報道陣に悟られないように家の周辺を見て回り死角を見つけた。隣家の裏口である。そこで隣人に頼み塀を乗り越えて庭を横切り裏口から抜け出して待たせていた車で四国へ行く事に成功した。熟慮の結果、田宮は大毎オリオンズ移籍を決断した。決め手はやはり娘さんで熱狂的なファンが多い事で知られる阪神から出る以上、同じセ・リーグ球団は論外。また近鉄や阪急は同じ電鉄会社という事で阪神ファンから娘さんや奥さんが責められる可能性もある。ならば心機一転、故郷の茨城県にも近い東京で勝負しようという気になったそうだ。

そして移籍先の発表は異例の実況中継が行なわれる事となった。親しい毎日放送の香西アナが密着して「ただいま田宮選手は甲子園浜の自宅を出ました…田宮選手を乗せた車は今、淀川を渡りました…桜橋に差し掛かりました…どちらに曲がるのでしょうか?左折なら阪急球団事務所、右折なら近鉄。直進なら大毎です」長い私のプロ野球人生でも後にも先にもこのような実況放送は聞いた事がない。ただ大毎入りは既に本人から聞かされていたのでゆったりと待機していた。車は直進し私たちが待つ国際ホテルに向かった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#286 新聞辞令 ②

2013年09月04日 | 1982 年 



開幕から14試合で2勝10敗2分と出遅れチーム内にはギクシャクした雰囲気が充満して「内紛」やら「対立」の話題ばかりがスポーツ紙に書かれてファンからも「ダメ虎」と見放されていた阪神が息を吹き返した。7月3日から甲子園に巨人を迎えての3連戦の初戦は西本投手を打ち崩し破竹の11連勝で借金を返済して貯金を「3」にまで増やした。この連勝を生んだ裏側には選手個々の怒りや反発があったのは言うまでもない。その筆頭にいるのが若菜捕手である。

5月初旬に一部スポーツ紙に「若菜ロッテへ移籍」と書かれ大騒ぎとなった。左胸に死球を受けた影響で控えに回った所、代役の笠間が大活躍したがヤンチャ坊主的な性格の若菜は面白くない。ムスッとした表情をベンチで見せる日々が続くと当然、首脳陣の心証も宜しかろうはずもない。そこへ例の記事が出て若菜の周辺の雰囲気は最悪。更に翌週には別のスポーツ紙が「若菜年上女優と結婚へ」と追い討ちをかけたから堪らない。結果的にはどちらの記事も「誤報」だったのだが「トレード話や女性との関係を書かれるのはお前自身がシッカリしていないから」と安藤監督に説教され、本間勝広報担当には「ああしたゴシップ記事を見返すには野球で結果を出すしかない。汗水垂らして必死の姿を見せればチームメイトやファンもお前を認めてくれるよ」と深夜まで切々と説かれた。

こうした周囲の声に若菜は「記事を書かれた原因は自分自身がシッカリしていないから。死んだつもりで頑張る」と一念発起して朝一番に球場入りして室内練習場で特打を始めたり、妻子を九州に残してマンションで一人暮らしをしていたのをやめて若手選手の合宿所である虎風荘に移って野球に専念するようになった。元々力のある選手だけにプレーに集中出来れば自ずと結果は付いて来る。シーズン当初は不振を極めていた伊藤投手と工藤投手の独り立ちや「数年に一度の珍事」と揶揄された益山投手の好投を引き出すリードでチームの勝利に貢献した。「野球がこれだけ楽しいと思ったのは初めて。今ではあの記事に感謝してるよ。色々と書かれたけどあれが俺を立ち直させてくれたのも事実だからね」と当時とは別人のような笑顔を見せた。

もう一人、スポーツ紙の記事を発奮材料にしたのが小林投手だ。開幕直後に完投勝利を一度マークしたものの、それ以降は勝ち星こそ増えたが終盤になると打たれて降板する場面が多かった。スタミナ切れか集中力の欠如か原因は定かではないが「完投出来ないエース」のレッテルが貼られて「7回戦ボーイ」とマスコミに叩かれた。小林は常々「先発投手は完投するのが当たり前。僕は完投出来なくなったらこの商売からキッパリ足を洗いますよ」と公言していただけに、体たらくぶりに「口だけエース」「エエ恰好しい」とここぞとばかり集中砲火を浴びたのだ。14試合に先発して完投が1試合のみではエースの称号が泣く。「ウチのエースはコバ。完投するのが当然のクラスの投手がいつまでも『7回戦ボーイ』では情けない」と奮起を期待していた安藤監督にはマスコミのバッシングは好都合だった。

「皆さんに色々と言われないように完投勝利もお見せしようじゃありませんか」と有言実行宣言した小林は6月20日の中日戦での今季初完封に続き6月25日の広島戦で自身初の2試合連続完封を記録した。それも7回二死まで無安打に抑え、山本浩に左前安打を許して大記録達成は逃したが見事な「1安打完封」だった。だが連続完封ぐらいでは小林は満足しない。散々叩かれたマスコミを見返すかのように次の登板は志願して中3日で大洋戦に先発して勝利し、続く巨人戦も中3日で江川と投げ合った。低迷していた開幕当初が嘘のような現状を「皆がそれぞれ自分の役割を一生懸命に頑張ってくれたお蔭。結果論だがマスコミの『誤報』も時として良薬になる」とあれだけスポーツ紙をはじめとしたマスコミ報道を批難していたのと同じ人物とは思えない安藤監督の笑顔が印象的だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする