納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
◆ 市村則紀(中日)…酒だけは止められないけどタバコは正月からキッパリ止めました ◆
聞き手…滑り込みで開幕一軍を決めたけど初登板はいきなり開幕戦(4月9日・広島戦)でしたね?
市 村…ええ、今は安木さんが万全じゃないので左の中継ぎは僕一人なんで大変ですけどチャンスだと思ってます
聞き手…初登板はやはり緊張した?
市 村…あの時(一死三塁で打者・加藤)は急に言われて10球くらいの肩慣らしで出たので何が何だか…特に加藤さんには串間の
オープン戦で初球を本塁打されたので緊張しました。でもいざマウンドに上がったら「初球は直球で行こう」とハラを括って
次の山本浩さんには「もう打たれてもいいや」と開き直りました。結果が良くて助かりました
聞き手…次の大洋戦も抑えましたね?
市 村…ホッとしています。良い結果を積み重ねて今度はもっと緊迫した場面でも使って貰えるよう頑張ります
聞き手…ところで子連れルーキーと騒がれプロ入りして3ヶ月が過ぎますが、どうですか?
市 村…皆さん気軽に声をかけてくれてやり易いですね。ただ遠征が多くて子供たち(娘5歳、息子2歳)の顔を見られないのが
寂しいですけど、2日に一度は電話で話しています
聞き手…ドラフト直後はプロ入りに反対していた奥様は?
市 村…勿論、今は応援してくれてます。悔いの残らない人生を送りたい、という僕の決意に賭けたみたいです
聞き手…でもオープン戦の中盤で二軍落ちした時は不安だったのでは?
市 村…本当は心配していたと思いますけどいつも通りでしたね。でも二軍に落ちた2週間は自分にとって良かったですね
聞き手…どうして?
市 村…子連れルーキーと騒がれてプロ入りしたので取材が毎日続きプレッシャーに押し潰されそうだったのが、あの2週間で
一息つけました。同時に1日でも早く一軍に行かなくちゃと奮起しましたね
聞き手…もう名古屋での生活は慣れましたか?
市 村…ええ。でも環境とは不思議なもんで会社勤めの頃のような早起きは出来なくなりました。でも規則正しい生活を送っていますよ
酒は止められませんけどタバコは止めました。プロ入りが遅かった分、1年でも長くプロでやりたいですからね
◆ 二村忠美(日ハム)…初打席は 『こりゃ打てん』 と思ったらやっぱり三球三振 ◆
聞き手…流石の肝っ玉ルーキーも開幕戦(阪急戦)は緊張したらしいですね?
二 村…守備についた時は緊張しましたね。慣れない外野だったから「早く飛んで来い」とばかり思ってました
でも打席では落ち着いてましたよ
聞き手…プロ初打席を振り返ると?
二 村…山田さん(阪急)だったんですけど初球の外角ストレートを見た時に「こりゃ打てんわ」と思いましたね
2球目の内角ストレートをファール、3球目の外角カーブを空振りして三球三振。アッという間でしたわ
聞き手…でも2打席目に見事プロ初安打
二 村…何としても喰らいつこうと。真ん中のカーブでした
聞き手…打つ事よりも守りの不安の方が大きい?
二 村…社会人時代も殆ど外野はやってませんからね。それにナイターと人工芝はほぼ初体験ですから慣れるまで
時間がかかるでしょうね
聞き手…プロの実感っていうのは?
二 村…やっぱりお金じゃないスかね。オープン戦から既に懸賞金が有りますし、1つ1つのプレーがお金に跳ね返って来ますから
聞き手…社会人野球との違いは?
二 村…特には無いですね。投手のスピードとか打球の速さも驚く程ではない。やっぱりお金っスよ
聞き手…オープン戦では結構打っていましたけど今は苦戦してますよね?
二 村…オープン戦は調整の場ですから主力級投手は。開幕したら明らかに別人ですよ。それと打ち損じも多いですね、焦りもあるけど
良い所を見せようと力んでいるんですかね。ま、開き直るしかないっスよ
聞き手…自分が書かれている記事は読みますか?
二 村…読んでますよ。面白いっスよね、言ってない事まで書いてあったりして
聞き手…今は独り暮らしですか?
二 村…合宿所で若い奴らと共同生活です。5月になったら女房を呼ぼうと部屋を探しているんスけど東京は家賃が高いっスね
払える家賃の部屋だと、どんどん都心から離れていって…
聞き手…駒田(巨人)の活躍は気になりますか?
二 村…凄いっスよね、駒田。でも今は他人の事なんか気にする余裕は無いっス。自分の事で精一杯っス
聞き手…新人王は?
二 村…今は全然眼中にないっス
聞き手…じゃあ今一番欲しい物は?
二 村…そりゃあヒットですよ。どんな汚いヒットでもいいから欲しいっス
◆ 宮城弘明(ヤクルト)…ナイターが始まる頃になると眠くなっちゃって ◆
聞き手…初登板(4月13日・巨人戦)では二軍でも対決した駒田と当たりましたがどうでしたか?
宮 城…別にいつも通りでしたよ「あぁ駒田か」って。ただ派手なデビューをして波に乗ってるなという感じでしたね。でも二軍では
僕が投げ勝っていたし威圧感はなかったですけどね、打たれちゃいましたが(笑)
聞き手…駒田とは同級生だけど話をした事はあるの?
宮 城…二軍の試合前とか話をよくしてましたよ
聞き手…最近は?
宮 城…駒田は今やスーパースターですから(笑)話かけられないっス。それは冗談で神宮の試合前にも「お互い一軍入り出来て
良かったな、頑張ろう」と話しました。対戦するのは何時頃だろう消化試合の頃かな、なんて言っていたら次の日でしたね
聞き手…初登板(5回一死から三番手として登板)の状況は?
宮 城…僕の場合は何時でも行けるように毎試合準備しとけと言われてましたが本当に急でした。肩慣らしも充分じゃなかったけど
何とか抑える事が出来てよかったです
聞き手…緊張しましたか?
宮 城…想像していた程ではなかったです。もっと膝がガクガクして顔も硬直するかもと思っていたので。一死一・二塁の場面だったので
打者を抑える事しか頭になかったですね
聞き手…一軍入りで生活面も変わったと思うけど何か困った事は?
宮 城…ずっと昼間に野球をやっていたので夜型に変えようのしているのですが難しくて。ナイターが始まる頃になると眠くなっちゃって
さすがにブルペンに入れば目が覚めますけど(笑)
聞き手…合宿所から球場までは電車移動らしいけどオシャレには注意してる?
宮 城…最近トラッド風シャツ、ズボン、セーターを買いました。服装は無頓着なんですけど毎日同じ服を着て行く訳にいかないですから
それに沢山持っていても洗濯が大変なんですよ、自分でやらなくちゃならないので。実家にいた頃は楽をし過ぎてました。改めて
母親に感謝しています
聞き手…でも大きなサイズを探すのも大変でしょ?
宮 城…青山にあるんですよ大きいサイズを扱う店が。神宮からも近いし一軍で頑張っていれば服を買いに行く機会も増えそうです
聞き手…ご両親を球場へ呼ぶ事も考えている?お母様の病気も快復しつつあると聞いているけど
宮 城…ええ、もうすっかり良くなりました。実家は中華料理屋なんですがもう店に出ています。母は球場で試合を見たいと言って
いるんですが僕の出番は事前には分かりませんし、まだナイターは寒いのでもう少し暖かくなってからと考えています
聞き手…じゃその頃までにローテーション入りしなくちゃね
宮 城…ハイ。そう出来るように頑張ります
◆ 中居謹蔵(ロッテ)…朝6時に起きて野球をやるのはもうイヤ ◆
聞き手…開幕戦(対南海戦)で勝利投手の権利を残して降板しましたがあの時の心境は?
中 居…口には出さなかったけど結構イライラしてました。とにかくシャーリー投手が抑えてくれるように祈ってましたけど…
聞き手…結局、引き分けでプロ初勝利は消えてしまいました
中 居…若生投手コーチには「まだ行けます!」と言いましたけど正直ヘロヘロでしたから続投しても打たれてたでしょうね
残念でしたけど試合に出れた事が嬉しかった。ナイターで投げるのが夢でした。コーチから昼間に投げたって一銭にも
ならないと言われてましたから。朝6時に起きて野球をやるのはもう嫌です
聞き手…病気のお父さんからその後連絡は?
中 居…ありません。開幕一軍が決まったのを電話したら「そんな事でいちいち連絡してくるな」と言われました。今度連絡するのは
ローテーションに入って投げる日がハッキリするようになった時です
聞き手…昨年は悔しい思いをしましたね
中 居…日ハムとのオープン戦でクルーズ選手と大宮選手に一発を喰らって二軍落ちしてそれっきりでした。二軍で5勝6敗じゃ
お呼びはかからなくて当然です
聞き手…でも今年のオープン戦は、2勝1敗1S・防御率 2.81 と結果を残して4年目で初のの開幕一軍を果たしました
中 居…体調も良いしこれで二軍行きだったら納得出来ないでしょうね
聞き手…二軍の時と調整法に違いはある?
中 居…まだ出番がまちまちなので投げる事より今は下半身の強化が主体ですね。二軍監督の土居さんは僕をスカウトしてくれた
人なんですが「ピッチングはランニングと同じ」が口癖でとにかく走らされました
聞き手…昨年は一軍に帯同して打撃投手を任されて充分に練習出来ませんでしたね
中 居…球団の考えでしょうけど悔しかったですね、何で自分なのかと。一軍の手伝いだと自分の練習は出来ないし不安でしたね
二軍の試合にも投げられず後輩にも先を越されそうで焦りました
聞き手…実際に後輩の欠端投手が活躍しましたしね
中 居…テレビ埼玉で西武戦を中継するので見てました。口では「頑張れ」と言っていても心の中は複雑でしたね。本気で野球を辞めて
故郷に帰ろうかと考えました
聞き手…そんな時に心の支えになったものが有ったそうですが?
中 居…1つは親父(栄蔵さん)の病気ですね。心臓病で入退院を繰り返していて闘病中の楽しみはテレビで「今年はテレビ中継に
映りそうか?」と気にしているんです。だから今年こそテレビを通じて自分の姿を見せようと心に決めました
聞き手…もう1つは?
中 居…昨年のオフに地元・福島で開いたサイン会です。倉持さん(現ヤクルト)と一緒だったんですけど二軍の僕のサインなんか
誰も欲しくないんじゃないかと思っていたら多くの人が「頑張れ」「早く一軍に上がれ」と励ましてくれて、この応援を無にしたら
バチが当たると思いました。そうしたファンの人達の為にもやらなくちゃならないんです、今年こそは
300完投まであと1つだけ(4月17日現在)となった近鉄・鈴木啓示投手。選手生活18年のベテランながら相変わらず意気軒昂な所を見せてくれる。そのあたりの心境を同じパ・リーグ出身で付き合いの長い元南海・佐藤道郎氏が尋ねた。
佐藤 …やあ、今日は宜しく。長持ちの秘訣を色々と聞かせて下さいな
鈴木 …何を言わせたいんや、迂闊な事は喋らんよ
佐藤 …生まれた時は右利きだったと言うのは本当?
鈴木 …そうらしいよ。自分では憶えてないけど2歳頃に右腕を骨折してギプスしていた間に左手を使っているうちに左利きになったそうだ
佐藤 …まさに怪我の功名だな。野球を始めるまでは何に興味があったの?
鈴木 …相撲かな。ワシらが子供の頃は野球と相撲くらいしかなかったからね。今はテニスやらゴルフやら色々あるけどな
佐藤 …身体も大きいし相撲取りになっても横綱になれたかもね。四股名は「草魂山」かな(笑)
鈴木 …横綱はともかく得意な型は左四つ。食事や字を書くのは右だけど運動関連は左ばかりだね
佐藤 …へぇ~、じゃ握力はどうなの。やっぱり左の方が強い?
鈴木 …いや右の方が10㌔くらい強くて65㌔前後、やはり生まれ持った筋力かな。左腕なんかピアニストみたいに細いでしょ?
佐藤 …本当だね。マメひとつ無いね
鈴木 …でもねシーズンに入るとゴッつくなるんや
佐藤 …ところでその歳まで元気に投げ続ける事が出来る秘訣は何かな?
鈴木 …ワシの持論なんやけど「投手とは投げる人ならず、走る人なり」とね
佐藤 …カネやん(金田正一)と同じか。大投手二人が揃って「走れ・走れ」と来たか
鈴木 …走り込みが足らんとマウンド上で足に震えが来るで。「地に足を着ける」とはホンマの話やね
佐藤 …俺なんかは上体で投げるタイプで、しかも短いイニングしか投げなかったから走り込みは余り必要なかった
鈴木 …同じ投手と言っても十人十色だからね。長年プロでやってると「顔」で打者を抑え込んでしまう猛者もいるわな
佐藤 …いやいや、人相の悪さならお前さんには負けるわ(笑) 確か西本(巨人)も走るのが好きだと言ってたな
鈴木 …ホンマかいな?走るのが好きな選手などおらんと思うけどな。投げたり打ったりする方が楽しいやろ?
佐藤 …巨人のグアムキャンプに行った時、投手陣がようけ走っとるんで 「何でそんなに走るん?」 と中村投手コーチに聞いたら
「貯金ですよ、1~2年先の為に」 と言うとったわ。投手王国の秘訣を見た気がしたね
佐藤 …あと1つで300完投達成だけど、どんな気分?
鈴木 …特に意識していない。まぁ、ただ長くやってきただけさ
佐藤 …またまた御謙遜を。でも投手の分業制が確立した今後はこの記録を破られる事はないだろうね
鈴木 …だろうね。昔は60試合登板も珍しくなかったからね。稲尾さんなんて平気で70試合くらい投げてた
そんな俺も最近の登板数は20~23試合だもの、仮に全試合完投しても15年かかる計算…無理だわ
佐藤 …先日、連投した投手が打たれた時にアナウンサーが「連投ですから仕方ありません」と言ってたけど世代の違いを感じたよ
鈴木 …高校時代から連投は当たり前だった。東映にいた森安なんか2日投げないと「俺は干された」と愚痴ってたくらい
佐藤 …完投した翌日にベンチ入りするのは当たり前で試合展開によっては普通に投げてたもんな
鈴木 …これからは300勝は勿論、200勝も難しくなるだろうね。江川だってあと140勝くらいでしょ、15勝を10年…厳しいな
佐藤 …もしも若い頃の鈴木啓志投手が今の時代に投げたいたらどうなっていたかね?
鈴木 …中4日、5日で投げていたら今の勝ち星(282勝)は無理だろうね。ただ選手寿命は延びて45歳くらいまで投げられそう(笑)
佐藤 …今の選手は温室育ち、ひ弱、根性無しって事かなぁ。まぁ時代だからね仕方のない事だけど
鈴木 …ワシらだって当時は「最近の若い者は…」と言われたから同じだよ、今の選手と
鈴木 …プロ根性と言えば思い出す事があってね、プロ1年目に4勝くらいしかしてないのに鶴岡監督(南海)がオールスター戦に
選んでくれた。テレビで見た選手と間近に会えて嬉しくてね憧れの投手に「カーブの投げ方を教えて下さい」と言ったんだ
そしたらね「あぁ君が鈴木君か、速い球を投げるらしいね」との社交辞令の後「いいかい、ここはクラブ活動じゃないんだよ
教えて欲しいならコレを持って来なさい」と指で銭マークを示してね。憧れていた分だけ悔しくてね、このオッサンよりも凄い
カーブを放ったる!と思ったわけよ
佐藤 …持ち前の反骨精神に火が点いた訳だ
鈴木 …でも感謝しとるよ。あれ以来、現状に満足しなかった事が今に繋がっている。技術は見て盗み、創意工夫してこそ自分の物になる
簡単に教えて貰った事は身につかんよ
佐藤 …俺も現役の頃にコノヤロ~という気概は持ってたよ。新人の時は朝8時過ぎに自転車でグラウンドに行って整備をさせられたんだ
すると11時頃になると杉浦さんや三浦さん達がバスで悠々と現れてね。『コン畜生、俺も来年はバスに乗ってやる』 と頑張った
鈴木 …そうそう、プロの世界の「平等」とは活躍した選手にはその成績に応じて御褒美を配分するという事。大した成績でもないくせに
要求ばかり一人前なのは「平等」を履き違えているね
佐藤 …今年で36歳、これまでの鈴木啓志投手の野球人生を振り返るとどう?
鈴木 …本音を言うとワシは阪神に入りたかったけど、よくよく考えてみると近鉄で正解だったと思う。当時の阪神には小山・村山・
バッキー投手が全盛で投手王国だった。そこには高卒の1年坊主が潜り込む隙間はなかったろう。投手力の弱かった近鉄
だからこそ打たれても、打たれても使って貰えた。職場として近鉄は最高だった、と感謝せんとね
佐藤 …俺がいなくちゃ、という自負も生まれるしね
鈴木 …よく言うのが阪神は 「LIKE」 だけど近鉄は 「LOVE」 なんや。まぁ惚れとるっちゅうこっちゃ
佐藤 …300完投達成後の目標は?
鈴木 …300勝は勿論だけど1年でも長く現役で頑張る事が目標かな
佐藤 …冗談じゃなく45歳目指して頑張って下さい。今日はありがとうございました
昨年の近藤竜・初Vの蔭で一人だけ蚊帳の外にいた大島。あの忌まわしい交通事故以来、何故か自分を襲い続ける不運と手を切れずにいる悩みはかなり深い…昭和54年には打率.317 ・36本塁打・103打点とリーグ2位&3位の成績をあげながらベストナインには王(巨人)が選ばれた。その王が「トータルで見れば大島君が受賞する方が相応しい」と発言した。その主軸を打つべき大島が4月12日の横浜戦で「二番」で先発出場した。近藤監督の新打順構想に「二番・大島」プランがあると報道陣から聞かされても半信半疑、オープン戦で二番を打っても「オープン戦だから。悪くても六~七番だよ、二番を打つくらいならベンチにいる方がマシ」とまで言い切った。しかしそれは現実のものとなった。
昭和44年、投手として大分・中津工から中日入り。入団後すぐに野手に転向して早くも2年後には一軍デビューを果たした。昭和46年6月17日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)の5回裏、代打でプロ初打席。会田投手から左前に初安打、更に9回裏には石岡投手からプロ入り初本塁打を放つ鮮烈なデビューを飾った。その後も順調に成長して打線の主軸を打つまでになり、王をして「彼こそ真のベストナイン」と言わしめた昭和54年がプロ野球選手としての絶頂だった。しかし悪夢はすぐ傍で待ち構えていた。昭和55年4月13日のヤクルト戦(神宮)は未明からの大雨で早々と中止が決定。その為、球団は14日の帰名予定を13日に繰り上げた。本来なら試合を行なっていた筈の13日夜、名古屋に戻った大島は開幕5連敗の憂さを晴らす為に夜の街に繰り出した。友人たちと麻雀をやり気分を晴らした後に帰路についた。雨がそぼ降る道路で前を行く車がスリップ、急ブレーキを踏むと車は中央分離帯を飛び越え大破し大島も全身打撲の大怪我を負った。「彼の車が外車(トランザム)じゃなかったら恐らく死んでいただろう(警察関係者)」と言う程の大事故だった。
この事故の影響は大きかった。今風に言えば大島を「ネアカ」から「ネクラ」な人間に変えてしまった。 " 交通事故… " が大島の枕詞になった。打撃不振に陥れば「後遺症で視力が落ちているんじゃないか」 守りでエラーをすれば「恐怖で球から逃げているのでは」など何をやっても事故と結びつけられた。「交通事故は誰のせいでもなく僕の不注意が原因。球団に迷惑をかけたと思うと、ただ黙して自省するのみです」と多くを語らない大島に世間は更なるバッシングを続けた。それでも大島は無口を通した。自省を続けた大島だが昨年に二度だけ我慢がならず烈火の如く感情を爆発させた。一度目はシーズン中の6月上旬、大島は開幕から不調だった。打率は2割5分にも届かず本塁打は5本、40試合を過ぎた頃の熊本での広島2連戦で何度も自分に巡って来たチャンスに凡退し2試合とも僅差で負けた。「大島君のお蔭です」と広島関係者の軽口にも打てない自分が悪いとジッと耐えたが中日球団幹部の「もう大島は終わりだ。トレードに出そうにも欲しがる球団も無いだろう」には流石に耐えきれなかった。
二度目はその球団幹部が査定した昨年の契約更改の席だった。提示された金額は200万円の減俸。確かに打率.266・18本塁打・60打点 は主軸と期待されての数字としては物足りない。それでも8年ぶりのリーグ優勝に貢献したとの自負がある。勝負どころの9月下旬、ナゴヤ球場での巨人との直接対決で角からサヨナラ中前打、阪神戦でも山本和からサヨナラ左前打とチームを救ってきた。谷沢と2人でチームを鼓舞してきたのに減俸である。「チームを纏める為に自分達がしてきた事は球団はまるで分かっていない」大島は怒りを通り越して悲しくなった。今だから言えるがチームは一度、崩壊寸前までいった。監督の投手起用に対して主力投手が反発して一時は険悪なムードがチーム全体を覆ったのだ。その投手に「気持ちは分かるが辛抱してくれ、頑張って優勝しようじゃないか」と大島と谷沢の2人がかりで説得した事もあった。結局、度重なる交渉の末に最初の200万円減から100万円減となる2100万円で更改した。
あの事故以来、大島は「何で俺だけ」との思いを持ち続けてきた。実は谷沢も大島同様に契約更改で揉めた。最初は100万円増の2700万円の提示だったが越年交渉の結果、何と一挙に700万円増の3300万円になった。待遇の違いに球団に対し「俺への評価はこの程度か」と腐った。人は「巡り合わせが悪い」「そういう星の下に生まれたんだ」と言う。ここ4~5年、オフになるとトレード話が必ず浮上する。別の球団幹部は「大島クラスでも…と言う意味じゃないの?私の耳には入って来ないけど」と否定するが本人にとっては落ち着かない。近藤監督のターゲットも大島だった。「中日には守備の穴が4つある」「だから諸君(若手)らも頑張れば大島だって抜ける」と大島の名前を挙げて訓示し、それを伝え聞いた大島は「また俺かよ…」となる。8年ぶりの優勝の恩恵に与れないどころか守りと鈍足を理由に打順をタライ回しに。「悔しいけどヤレと言われた所で頑張るよ。残り少ない選手生活を自分の為だけにね」…男とは何と悲しい生き物なのか
初打席満塁本塁打というド派手なデビューをした3年目の駒田に続いて同じ巨人から今度は2年目・19歳の槙原寛己が初登板・初先発・初完封、それも 0対0の延長戦を投げ抜きプロ初勝利を飾った。駒田の衝撃デビューから6日後の4月16日、篠突く雨の甲子園球場でまた一人ヒーローが誕生した。槙原寛己(19歳)、「あがりはしなかったけど阪神の応援がうるさくて…。カーブは見せ球で、あとは全て直球勝負でした」と延長10回を一人で投げきり涼しい顔で言ってのけた。熱投 145球、最高球速 149km、平均でも145km前後の球を最後まで投げ続けた。
「今日は負けてもいいから槙原と心中した」と藤田監督に言わせた。槙原が生まれた1年後にプロ入りした藤田平や若虎・掛布を自慢の豪速球で捻じ伏せた。ゼロ行進が続いた延長10回表に味方が取った1点を守りきった。最後の打者の掛布が放った中堅への大飛球が中井のグローブに吸い込まれた瞬間、初登板を完封勝利で飾った。スタンドの7~8割は阪神ファンで埋め尽くされた過酷な状況下で勝つ為の頼りは自らの直球だけだった。山倉のミットだけ目がけて投げ続けた。
「おいマキ、甲子園の第2戦はお前が行くぞ」 中村投手コーチが槙原に先発を告げたのは駒田が派手なデビューを飾りベンチ裏が記者でごった返していた時だった。しかし槙原は先輩・駒田が眩いフラッシュを浴びながら多くのマスコミに取り囲まれている喧騒を自分の事のように興奮していて中村コーチの話をきちんと聞いていなかった。「前の晩に準備は大丈夫か?と聞いたらアイツ、『エッ、先発ですか』と目を丸くしていたよ」と中村コーチは笑いながら明かした。
大府高校時代に投げた甲子園球場とは明らかに雰囲気は違っていた。プロ初登板の投手を威圧するような阪神への応援が渦巻くマウンドに向かう槙原に中村コーチは「グアムから宮崎、そしてオープン戦とお前は夜も惜しんで練習したよな。その練習のままを出せばいいんだ、欲は出すなよ。それから四球を恐れて球を置きにいかないでくれ、思い切り腕を振れば打たれたっていいんだ」と言い渡し送り出した。2回まで無難に阪神打線を抑えていたが3回一死からアレン・北村に連続死球を与えてしまった。「マズイ、何とか一巡目は持ち堪えたがこんな崩れ方もあるのか…」 野球の裏の裏まで知り尽くした牧野ヘッドコーチは天を仰いだ。
中村コーチがマウンドへ駆けつけた。「どうした、雨で球が滑るのか?」と問うと「いいえ、胸元を狙ったのが少しズレただけです」と答えた。それを聞いた中村コーチは直ぐに踵を返した。外角を狙った球がスッポ抜けたのなら「ご苦労さん」と交代させるつもりだったが、この若者は全く逃げていなかった。並みの投手なら2人連続でぶつけたら遠慮するものだが次打者の佐野に投じたのはまたも内角の厳しい球だった。阪神ベンチからの野次は一瞬で消え、佐野は三塁への詰まったハーフライナーに倒れた。そして二死一・二塁で打席には掛布が入った。
この試合が記念すべきプロ入り1000試合目だったセ・リーグを代表する打者の掛布をプロ2年目の投手が睨み付ける。昨年11月23日の秋季キャンプ中の練習試合で高卒新人の槙原と初めて対戦した掛布はその印象を問われ「まだまだ一回りの投手だね。確かに球は速いけど2巡目になると球威は落ちていた。まぁ、あと2~3年は焦らず二軍で力を付けて頑張って欲しい」と余裕のエールを送っていた。あの若者が今まさに半年前とはまるで別人の姿となって自分の前に立ち塞がっている。
1球目、直球でズバリとストライク。2球目も直球。掛布は狙いすましたように強振するがバットは空を斬った。3球目、遊ぶ事なく3球勝負の直球。虚を突かれた掛布は辛うじてファールで逃れる。続く4球目、「カーブも考えたが自分には直球しかなかった」と試合後の槙原が語ったようにまたも直球。やや外角寄りの高目の球で空振り三振を奪いピンチを脱した。掛布の視線の先には堂々と胸を張りマウンドを降りる姿があった。半年前、自信無さげにマウンド上でおどおどしていたあの時の面影は消えていた。
試合が4回を過ぎたあたりから雨は本降りになった。カクテル光線に乱反射する雨の中でも槙原は冷静さを失わずにいた。「野村さんも同じ条件の中で投げている。負ける訳にはいかない」 阪神の先発は36歳の大ベテラン・野村収投手、4球団を渡り歩き辛酸を舐め尽したプロ15年生だ。延長10回裏二死、最後の最後に4度目となる掛布との対決が待っていた。あわや、という中堅への大飛球だったがもうひと伸び足りず掛布にとって屈辱の1000試合出場となった。そう言えば2年前の夏、槙原が初めて甲子園のマウンドを踏み報徳学園相手に勝ち名乗りを上げた時もやはり甲子園球場は雨模様だった。
昭和55年のドラフト会議で原(東海大)に続き2位で指名された駒田。奈良・桜井商時代は投手兼一塁手だったが投手よりも打者として注目を集めた。高校3年間の通算本塁打は43本、特に2年生だった昭和54年秋の県大会では4試合連続の5本塁打を放ったが、そのうち4本は橿原球場の場外に飛ばす特大弾だった。3年生になると対戦相手校が勝負を避けて徹底的に歩かされ満塁の場面でも敬遠されたのは有名な話だ。この話にはオマケが付いている。次の打席も再び満塁の場面だったが今度は相手も勝負してきた。結果は見事に満塁本塁打を放った。これだけを聞くと桜井商が試合に勝ったと思われがちだが実は「駒田投手」が13四死球と大乱調で大敗したのだ。それほど規格外だった駒田もプロの世界では壁にぶち当たった。1年目は二軍で62試合に出場し179打数34安打・打率.190 ・3本塁打、2年目は77試合に出場して268打数69安打・打率.257 ・7本塁打と成績は向上したが一軍レベルには程遠く、二軍暮らしが続いた。
3年目の今年、グアムキャンプに抜擢されその後の宮崎キャンプも何とか一軍に生き残りオープン戦も帯同した。暫くは代打出場のみだったが3月20日の阪急戦で左手甲を痛めた原の代わりに中畑が三塁に回り、空いた一塁に駒田が起用された。第1打席こそ凡退したが2打席目に山沖から左翼線二塁打、続く打席も右前打し結局4打数3安打と結果を出した。終わってみればオープン戦で15打数7安打・打率.467 と結果を残して3年目にして初の開幕一軍を手にした。開幕戦での出番はなかったが翌4月10日の対大洋2回戦の試合前に中畑が右手首を痛め欠場する事に。通常なら控えの山本功が出場するのが妥当だが藤田監督は七番・駒田の起用を決めた。
1回裏、巨人が2点先制した後なおも一死満塁の場面で駒田に回ってきた。先発の大洋・右田投手がカウント2-1から投じた4球目を右中間スタンドに叩き込んだ。これで波に乗った駒田は3回裏の一死二・三塁で右翼線二塁打で2打点。5回裏の二死三塁では三振を喫したが何と振り逃げで一塁に生きるなどツキまくっていた。仕上げは7回裏の最終打席に右安打してデビュー戦を4打数3安打6打点で飾った。初打席満塁本塁打も凄いがデビュー戦で3安打固め打ちも滅多に出来るものではない。現役選手では南海・新井(昭和50年7月26日・対太平洋ク)、西武・石毛(昭和56年4月4日・対ロッテ)、阪神・田中(昭和57年8月15日・対巨人)の3人がいるが6打点をあげた打者は見当たらない。
衝撃のデビュー以降も駒田は活躍している。4月12日のヤクルト戦では5回表一死後、中前打で出塁すると一塁牽制球が悪送球となり三進し先制点の足掛かりとなり翌13日は5回表二死二・三塁で左前に適時打。4月13日現在、11打数5安打・打率.455・7打点で中畑から正一塁手の座を奪いかねない勢い。張本勲氏曰く「これまで巨人は川上さん、王助監督と2人で40年間も一塁を賄って来た。駒田が順調に成長すればこの先20年、つごう60年間を3人だけで一塁を守るという事になる、またその可能性は高い」と語る。
昭和13年に入団した川上は春のシーズンこそ投手が主で一塁には1試合しか就かなかったが秋からは一塁に定着して打率.263 で早くもベストテン入りした。その後、昭和17年に入隊するまで不動の一塁手として活躍し戦後に復帰以降は打撃ベストテンの常連だった。しかし、昭和32年に打率.284 、翌33年は.246 と3割を打てなくなると「3割打者として契約している自分はこれ以上プレー出来ない」として引退した。川上が去った昭和34年は新人の王が主に一塁を守ったが打率.161 と冴えず与那嶺との併用が多かった。王は2年目から正一塁手となったが、その後の活躍は敢えて説明する必要はないだろう。
王にも現役を去る時が来る。昭和56年の開幕、巨人の一塁には大洋から移籍して来た松原がいた。巨人の一塁手は長らく球界を代表する2人が当たり前のように四番を務めていたが松原は七番打者で「四番・ファースト…」の場内アナウンスに慣れ親しんだ多くのファンは改めて王の引退を実感する事になる。その松原も開幕から7試合目には山本功にレギュラーの座を取って代わられた。この年、一塁を守ったのは中畑と山本功が各75試合、松原が27試合、平田が1試合と誰一人として規定試合数の「86」に達した選手はいなかった。翌57年は中畑が定着したが打率.267 と打撃ランク 28位では巨人の一塁手としては物足りない。果たして駒田が「巨人の一塁手」に相応しい選手となれるか注目だ。