納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
◆ 西田真二(昭和53年・PL学園)
何と言っても決勝戦。高知商の森投手(現阪急)に抑えられて2点差で9回二死まで追い詰められたけど僕が同点打を打って追いついた。エースで四番でしたから優勝できてホッとしたのを憶えています。それよりも主将だった木戸(現阪神)がワンワン大泣きした方が強く印象に残っています(笑)あの同点打はその後の僕の野球人生を変えたと言っても過言ではありません。
◆ 香川伸行(昭和54年・浪商)
甲子園にはセンバツが2・3年生、夏の大会は3年生の時の3回行きましたがやっぱり最後の夏が一番印象に残っています。比叡山との試合中にファールチップを右肩に受けて投手に返球する事さえキツくてまともにバットを振れなかったのですが、監督さんに「痛かったら一振りだけして仕留めろ」と言われて打ったら左中間にホームラン。試合終了と同時に医務室へ直行して校歌はベッドの上で聴いてました。
◆ 藤本修二(昭和56年・今治西)
2年生の夏に出場しました。2回戦で国学院久我山に3-2で勝って勢いに乗って準々決勝まで進みました。相手は報徳学園。エースは金村さん(現近鉄)でその年の優勝校です。金村さんと投げ合ったのですが1-3で負けてしまいました。2年生だったので捲土重来を誓いましたが実現する事が出来なかったのが心残りです。
◆ 渡辺久信(昭和56年・前橋工)
1年生の時に「10」番を付けて出場しましたが無我夢中で何をどうしたらよいとか全く分からずアッと言う間に終わってしまいました。高校時代の思い出としては甲子園よりも予選の方が残ってますね。3年生だった群馬県予選の決勝戦で太田工に9回押し出しで負けた時は悔しかったです。自分のせいで甲子園に行けなかったという思いが今も残っています。
◆ 小野和義(昭和58年・創価)
僕が出場したのは2年前です。江夏2世と騒がれましたが自分でも「調子が良い時はいつでも三振を奪える」くらいの自信は有りました。でもイザ甲子園のマウンドに立ってみると思い通りにはいかなかったですね。楽勝だと思っていた東山に打たれてアッサリと負けてしまいました。皆となんか野球をした気がしないなぁ、と試合後に話したのを憶えています。
◆ 津野 浩(昭和58年・高知商)
3年生の時に出場しましたが投げる事より打つ方の印象が残っています。3回戦の箕島戦は8-3で勝ったんですが箕島のエース・吉井(現近鉄)から満塁本塁打を打ちました。実はこの一発が甲子園大会通算450号の記念本塁打だったのです。役員の方から日付の入った記念ボールを頂いて実家で家宝として大事に飾っています。
◆ 石川 賢(昭和53年・日川)
今年もPL学園の前評判が高いですが僕が出場した時の初戦の相手がPL学園でした。試合は終始ウチが押していたのですが、田舎と都会のチームの差とでも言うのかPL学園の試合巧者ぶりに負けてしまった感じです。スコアは2-5でしたがウチはスクイズを見破られたり、PL学園は少ないチャンスを生かした隙のないチームでした。個人的には投手としてより打者として3安打した事の方が印象に残っています。
◆ 欠端光則(昭和55年・福岡)
今、僕がこうして投手としてプロ野球選手になれたのも甲子園に出たからなんですよね。実は高校時代の本職は遊撃手だったんです。当時のエースが予選の1回戦で肘を痛めてしまい仕方なく僕が2回戦から投げる事になりました。そうしたら何と甲子園出場となってしまいました。本大会では1回戦で大分商に負けてしまいましたが、もしもエースが故障していなければ今の僕は存在しません。
◆ 秦 真司(昭和55年・鳴門)
鳴門高の主将として出場して5年が経つんですね。ウチは2回戦からで相手は前橋工。それに勝ってヨシ次も、と意気込んだのですが愛甲君がいた横浜に負けてしまいました。宿舎に帰ってエースの島田と一晩中泣きました。四番を任されていたのに6打数1安打と情けない結果だったのが悔しくてね。その時に持ち帰った甲子園の土は大事に飾ってあります。
◆ 小松辰雄(昭和51 , 52年・星稜)
僕は昭和51年と52年に出場していますが印象に残っているのは初めて出た2年生の時です。予選の時も目立たない存在でしたが1回戦の日体荏原戦で13個の三振を奪って完封勝ちして注目されるようになりました。準々決勝の赤嶺さん(元巨人)がいた豊見城戦で決勝点となる二塁打を打ったのが最高の思い出です。結局、準決勝で桜美林に負けてしまいましたが甲子園には良い思い出が沢山あります。
◆ 深沢恵雄(昭和47年・狭南)
1回戦で強豪の柳井と対戦しましたが僕が初回に3点を取られ0-3で完封負けしました。実は初回に何本ヒットを打たれたのか全く憶えていません。まさに甲子園には魔物がいました(笑い)その後は抑えたので悔しさ倍増です。でも対戦した柳井が準優勝したのでもしも僕らが勝っていたら、ひょっとして…なんて皆で話してました。
◆ 中西清起(昭和55年・高知商)
僕が出場した頃の高知県内では春に優勝した学校は夏の大会には出られない、といったジンクスがありました。なので明徳に勝って出場が決まった時はホッとしました。周囲からは春夏連覇を期待されましたけど連覇するより夏に出られた事の方が嬉しかったですね。1回戦は松商学園に2-0で勝ちましたが、2回戦は箕島に0-5で負けました。悔しさより「これで終わった」の安堵感の方が強かったです。
◆ 江川 卓(昭和48年・作新学院)
やはり一番思い出に残っているのは第55回大会2回戦の銚子商戦ですね。延長12回裏、無死満塁で押し出しサヨナラ負け。フルカウントになって皆がマウンドに集まって「お前の一番好きな球を放れ」と言ってくれたのが嬉しくてね。それまでのチーム内は僕だけがマスコミに注目されてどこかギクシャクしてたのが一つになれた感じがしました。負けたのは悔しかったですけど得たモノは大きかったです。
◆ 石嶺和彦(昭和52 , 53年・豊見城)
高2の春から甲子園には4回出場しましたけど最後の試合(準々決勝の岡山南戦)が一番印象に残っています。この試合で初めてホームランを打って個人的には嬉しかったですけど、延長10回裏にスクイズを決められてサヨナラ負けでした。僕は捕手だったので捕球した球を審判に返した時に「あぁ、もう球を握る事はないんだ…」と寂しくなりました。
◆ 山崎隆造(昭和51年・崇徳)
センバツ大会で優勝しましたから夏も、という気持ちは勿論ありました。怪物と騒がれた酒井投手(現ヤクルト)の海星高と3回戦であたり、ウチのエースの黒田(現ヤクルト)との投げ合いは両チーム合わせて5安打の息詰まる投手戦でした。結果は0-1で負けてしまいました。広島に帰ってやることがなくてテレビで甲子園の試合中継を見たら無性に寂しくなりました。
◆ 鹿取義隆(昭和48年・高知商)
2年生の時ですから昭和48年の大会ですね。4回戦まで勝ち進んで広島商と戦ったんですけどウチのエース・浜田さんが足の怪我で降板して3回から僕が登板しました。交代して直ぐにチーム初安打を打って気分良くマウンドに上りましたが、達川さん(現広島)にホームランを浴びるなどして2-7で負けてしまいました。突然に巡ってきた晴れ舞台は惨々なものになってしまいました。
もはや " 死のロード " は死語となった。20泊21日の胸突き八丁で緒戦からいきなり5連勝(8月12日現在)だ。バース・掛布を中心とした新ダイナマイト打線の爆発、中西と山本の両ストッパーの踏ん張りでタイガースはひた走る。危惧された長期ロードで快進撃が続く秘密は何なのか?密着ルポから探り出してみる。
長期ロードを目前にしたある日、球団から首脳陣・選手全員に2通の文書が配布された。1通はトレーナーからクーラーや体調管理・食生活に関するもので毎シーズン恒例の事で物珍しさはなかったが、もう1通は球団管理部からだった。これは過去に例のない事で内容は門限厳守の徹底、その為にも点呼を行なうというものだった。「毎年、口頭で注意はしていましたが今回はより徹底する為に文書にしました」と岡崎球団代表は言う。吉田監督も「門限破りを繰り返す者がいたら二軍へ行ってもらう。私生活の徹底管理がこのロードを乗り切る重要なポイントです」と厳しい口調で言い切った。阪神ではこれまでにない管理に選手達の反応は意外にも反発はなかった。
「当然でしょう、野球をやりに行くんですから。このロードの大切さは我々自身が一番よく分かっている。結局は自覚です」と掛布ら主力勢は口を揃える。阪神が優勝争いを繰り広げるようになると写真週刊誌で選手の夜の姿が狙われる機会が増え、球団としても対策を講じる必要に迫られたのも事実だが21年ぶりのリーグ制覇が現実味を帯びてきて選手間にも緊張感が漂い始めたせいで反発が少なかったのかもしれない。つい最近に写真週刊誌に醜聞を報じられた岡田選手は「宿舎でジッとしてますよ」と神妙だ。こうして今季の長期ロードは異例の " 管理ロード " としてスタートを切った。
門限破りゼロ…これまでの所、選手は驚く程おとなしくしている。門限を破る者はおらず、それどころか外出すらしない選手が続出。せいぜい知り合いと食事に行く程度で、呑みに行く選手は稀である。「自分の身体は自分で守らないと。遊び歩いて悪い結果が出て困るのは自分ですから」と若きエース・池田投手。「嶋田(弟)とじっくり話たいと思うんですが若い連中を夜の街に連れ出すのはちょっとね。すっかり酒が弱くなっちゃいました」と笑うのは自他ともに認める酒豪ナンバーワンの中西投手。
電話 " 愛 " 作戦…そんな息が詰まりそうな遠征中の楽しみといえば家族や彼女への電話。木戸や中田ら新婚組は毎日LOVEコールを欠かさない。平田や吉竹の婚約組も勿論だ。甘~い新婚期間は過ぎた掛布の楽しみは愛息・啓悟ちゃん(2歳)との会話だそうだ。「最近は話が出来るようになってねぇ」と可愛くてしょうがないらしい。7月15日に陽集ちゃんが誕生したばかり岡田は「まだ話せないけど、ウ~とかア~とか声を聞くだけでも嬉しい。今の時期は毎日のように顔つきが変わるので遠征から帰った時に顔を見るのが楽しみ。女房には色々と心配をかけたので、もう夜遊びはしていないよと証明する意味でも毎晩の電話は欠かせません」と " 例の一件 " がさすがに堪えたようだ。
掛布のツキ…掛布は食べ物に関する験担ぎを幾つか持っていて、各球場によって試合前に食べるモノを決めている。ナゴヤ球場ではラーメン、神宮球場では天ぷら蕎麦、広島市民球場では必ずコーラを飲む。今季の長期ロードの緒戦となった神宮球場でこの掛布のツキに便乗したのが平田でロッカールームで仲良く二人並んで天ぷら蕎麦をズルズル。すると平田はその試合で2安打した。「ツキを分けてくれた掛布さんアリガトウ」と顔をほころばせたのは言うまでもない。
冗談?も好調…5連勝と好スタートを切った長期ロード。試合に向かうバスの中は和やかなムードが漂っている。神宮球場へ向かう途中、ある主力選手(本人の名誉の為に名前は伏せる)が車窓の外を指差して「それにしてもデッカイ家だな。庭も広いしどんな人が住んでいるんだろ?」と呟いた。一瞬の静寂の後に車内は爆笑の渦となった。その選手が指差した先は皇居だったのだ。本人曰く「冗談だよ」と弁解したが誰も信じていない。
真夏の祭典…毎年このロード中は高校野球真っ盛り。球場へ出発する前の僅かな時間も惜しんで選手達はテレビに釘づけ。母校の日大三高が1回戦負けとなってしまった並木打撃コーチは「打てなかったね。もう少し健闘すると思ったんだけど…」とガックリ。先輩連中から冷やかされるのがPL学園OBの木戸。「皆が僕より桑田や清原の方が有名人だと言うんです」と頭をポリポリ。独り浮かない顔をしていたのが掛布。母校の習志野高が不祥事で出場辞退をしたからだ。「選手が気の毒。今年は強いと聞いていたから残念ですね」としんみり。
笑顔の里帰り…8月10日からの中日3連戦(平和台)を楽しみにしていた選手が何人かいる。福岡県出身の真弓・竹之内・吉竹だ。中でも吉竹はこの日をずっと待っていた。12月7日に結婚を控えており「実は衣装合わせに行くんです。彼女の方は終わっているんですが僕は今回の遠征に合わせてスケジュールを組んでいました。仲人をお願いする松島監督(九州産業高)にも挨拶に行きます。何だか照れくさいです」と顔を赤らめる。仲の良い平田らに冷やかされながら朝早く起きて披露宴を行なう予定の西鉄グランドホテルにいそいそと出掛けて行った。
独身組の実態…初めて一軍の遠征に参加した嶋田弟。「小遣いは5千円しか持って来ませんでした。他にはウォークマンだけ」と初々しい。食事は宿舎で用意されたもので済まして何だか修学旅行気分。「遠征は良いですね。移動は楽だし洗濯も全てやってもらえるし部屋にはクーラーがある。一年中遠征でもいいくらい」と実に明るい。他の和田や月山ら独身組も同じような事を言っている。どうやら独り身には " 死のロード " ならぬ " 天国のロード " のようだ。
唯一の娯楽…外出に関して厳しい姿勢をとる球団も麻雀までは禁止しない。宿舎内に麻雀部屋を設けて楽しめるようにしている。阪神で麻雀好きといえば川藤・佐野・岡田らが有名。今回の東京遠征で岡田はなんと役満の「四暗刻」で上がった。最近この面子に新人の和田と佐藤が加わった。和田はなかなかの腕前らしく「ほとんど負けてないですね。気を遣って勝たせてもらっているのかなぁ(和田)」とうそぶく。また佐藤は黙々と打つタイプで岡田ら先輩諸氏は不気味がっている。「麻雀は性格が表れる。野球にも通じるものがある」と麻雀部屋の主・川藤は語る。
ボス…選手に大号令を発した以上、吉田監督自身も聖人君子のような生活を送っている。たまに知人と会う為に外出する以外は部屋でゆっくり静養している。「今年は毎日のように電話をかけてきます。余程やる事が無いんでしょうね(笑)。テレビを見ていて気付いたのは最近ちょっとお腹が出てきた事。お蔭さまでチームの調子が良いので食欲も旺盛なのでしょうね。今度帰って来たら摂生させます」と篤子夫人。吉田監督以下、今季の阪神にとって " 死のロード " は死語になっている。