Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

「終戦の日」の向き合いも、復習が大事という事が分った

2020-08-15 21:10:30 | 国際・政治

今日 8/15は、75回目の「終戦の日」。先の大戦・大東亜戦争こと太平洋戦争に際し、関連を含め 300万超の戦没並びに戦災犠牲被害の各位に向け、深い弔意を新たにする次第。折から流行続く 中国大陸発、新型コロナ・ウィルス肺炎と特に今夏の高温の為、熱中症との「二重の脅威」により政府主催の戦没者追悼式典を初め、各地の追悼行事も参加人数を絞るなど規模の規制を余儀なくされている様だが「英霊に感謝」を初め戦災犠牲被害の各位への、些かも変わらぬ弔意が表されたものと心得る次第。

それらを踏まえた上で、今夏のこの日も「二度と繰り返してはならぬ戦争」のより真に近い意味と、我々日本人がその為にすべき心がけを少し考えて参りたく思う。「二度と繰り返してはならぬ戦争」とは、例えば 20万超の沖縄県民各位が犠牲となった日米沖縄戦(終戦の前年 1944=昭和 19年に生じた、疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦に撃沈され、小学生多数が犠牲となった一件を含む)や、南方のタイ、ビルマ(現ミャンマー)両国に跨り展開された 悪名高いインパール作戦の様な「泥沼戦争」や、東京初め我国各主要都市が見舞われた、原爆行使を含む空襲などの事で、我国の独立、尊厳や国民市民の安全を守る為の必要最低限の自衛力、警察力の行使とはくれぐれも区別されなければならない。

然るに新聞各紙や TV各局などの報道のあり様は、相変わらず前述両者が混同され、後者の「最低限必要な やむなき自衛力、警察力の行使」に関する事共までが否定的に記され伝えられ、読者や視聴者への同調圧力になっている節があるのは遺憾だ。こうした安保の為の健全な区別は、幼少時からの教育と 健全な報道のあり様によって確立するものの様だが、我国の教育行政と報道各社は、そうした努力を怠った・・というより初めから不作為だったと申さざるを得ない。例えば教育の方面にあっては、以前はあった健全でバランスもそれなりだった保守志向の美点が継承されたとは言い難く、左派容共の権化の様な日教組一派の影響力が増した結果、安保面の健全な教育が難しくなったとの見方も多い様だ。

報道にしても似た様なもので、こちらも日教組に感化された勢力が増大した結果、前述の様な「戦争と平和との向き合い」に関する不良な見方が横行する様になったのではないか。先の大戦勃発の経緯についてもよく語られる事だが、大東亜戦争こと太平洋戦争の戦端にしても、我国が一方的に開いたものでなく 米合衆国側の挑発による所も大きく、更にその裏側で旧ソ連邦が関与の国際共産組織「コミンテルン」が開戦向けに暗躍をしたとの指摘も聞く所だ。アジア圏においては、我国側加害の側面があった事共もそれはあったが、これまで何度も主張して参った様に「全てが我国の侵略」だの「我国は世界唯一の戦犯国」などの明らかな一方的主張は間違いだ。

先の大戦の教訓を正しく学ぶ姿勢につき、何度もご紹介している言葉に 女流作家・田中澄江さんと曽野綾子さんが表されたご見解があるので、今回もそれを載せたく思う。田中さんは既に故人だが、以前の「終戦の日」の際し スローガン的平和や反戦への動きが左派容共側に政治利用されている可能性を懸念され、その事から「反省にせよ、誓いにせよ、もっと心静かな祈りと想いの日とすべきではないか」と静かな中にも強靭なご見解を表した記憶がある。

又、曽野さんは過日の某雑誌記事にて「先の大戦は 確かに凄惨な事象ではあったが、一方で私の学んだ事共も多くあった。そうした事象から何も学べない人は、残念だが進歩は望めないであろう」との見方を示された。曽野さんの語られた「残念な面々」の内には、先の大戦の凄惨さを一方的に利用し、読者や視聴者に同調圧力を迫って自勢力増大を図る既成メディアと、これも似た意図で影響力強化を図る左派容共勢力の不良な利用意図が感じられてならない。前述の安保面の健全な捉え方をした上での「平和への誓い」こそこれからの日本及び日本人にとり必要な心得であり、先の大戦犠牲被害各位への大いなる供養ともなると心得るものだが。今回画像は、これまでも何度か訪れた 愛知県護国神社拝殿前の様子を。恥ずかしながら「終戦の日」の拙参拝は初めてで、これからは毎回行おうと誓う所です。末筆になったが、良き思考姿勢を残された田中澄江さんと、先日ご逝去の俳優・渡 哲也さんのご冥福も併せて祈念するものであります。

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