コナサン、ミンバンワ!
旅がお好きな方々、そして鉄道愛好者の各位はご存じかと思いますが、昨3/14、年に一度のJR社の全国列車時刻改正が執り行われました。
より利便性の向上を図る、との意図は一面では感じられるのですが、もう一方で、残念にして惜しまれる別れがあるのも事実。その痛恨事の一つが、東京対山陽・九州間を結ぶ夜行寝台列車、所謂「ブルー・トレイン」の運転終了でありましょう。
想えば、この長距離列車のルーツは遠く20世紀初めの1911=明治44年に運行の始まった特急「富士」であるとされます。東京より当時の大陸への玄関であった下関まで、ほぼ24時間をかけて走り、大正、昭和の初期を経て過酷な戦中も良く頑張り、1944=昭和19年秋まで30年以上に亘り運転が続けられました。
戦後は東海道線の日中の特急として復活、1956=昭和31年秋に運行の始まった東京対九州特急の一員として1964=同39年に、東海道新幹線の開業と時を同じくして日豊線の大分、宮崎を経て西鹿児島、今の鹿児島中央を結ぶルートを担う様になります。
元々はこの列車、前年の1963=同38年運行開始の東京対熊本特急「みずほ」の上り側の数両の車両が九州の玄関、門司駅にて熊本行きと別れた後、単独で大分へと向かっていたのが始まりとされ、翌年の単独化にて大分、宮崎経由にての鹿児島乗り入れを果たし、1570kmを超える運行距離は長く我国の最長距離列車として記憶される事となります。この「富士」の名が最後まで残った事は本当に喜ばしく、又我々の誇りでもあると強く思います。
もう一つ、「富士」と並んで最後まで走り続けたのが「はやぶさ」。
こちらは1960=昭和35年に博多特急「あさかぜ(1958=昭和33年秋に、旧世代車で運転されていた所、車両更新された)」、長崎特急「さくら(1959=同34年夏、以前の特急「平和」が改称の上車両更新)に続くブルー・トレイン第3弾としてこちらも長く東京対九州特急の主役を張り続け、1980=同55年に「富士」が宮崎打切りとなった後は我国最長距離列車となり、これは1997=平成9年まで続く事となります。因みに「みずほ」は第4弾、「富士」は第5弾と言う事になります。
1999=平成11年には熊本止りとなった「はやぶさ」と長崎への「さくら」が本州内は併結の一個列車にまとめられ、「富士」も大分までとされて、いよいよ夜行列車の退潮が顕在化します。又この前後、ブルー・トレインの始祖だった「あさかぜ」も、九州内の下関~博多間の運行が打ち切られました。
2005=平成17年春には「あさかぜ」と「さくら」が運行を終え、「富士」と「はやぶさ」が本州内併結の一個列車となって孤軍奮闘して参りました。この間にも2006=平成18年春に東京対山陰を結んだ「出雲」、昨春には京都・大阪と九州を結んでいた「なは」「あかつき」、そして東京~大阪間の「銀河」が姿を消し、今回の退場で東京発の夜行列車は東京対岡山と山陰、それに四国高松を結ぶ「サンライズ出雲・瀬戸」を残すのみとなった次第。
直接の消滅原因は、航空機や新幹線の速度と利便性の向上、それに高速道路網の整備に伴う安価な夜行長距離バスの台頭によるものの様ですが、旅行者の高齢化を考えるとある程度の寝台需要はあるとされ、限定的にでも存続の余地はなかったのか、との思いがあるのも事実です。例えば1988=昭和63年まで運航の続けられた、本州と北海道を結ぶ青函連絡船の寝室は日中でも利用可能であったとされ、先日のTV番組にても拝見したのですが、高齢の方の旅行時は長時間の着座が困難で、どうしても寝台を必要とする場合もある由。これはこれから長距離化する新幹線にても、顧みられて良い配慮であると思います。
夜行列車・・・想えば独特の情趣があったのは事実です。
寝台車でなくても言える事ですが、夜の旅立ちと言うのは、何か期待と不安の入り混じった感情があるんですね。
ブルー・トレインと言う愛称。これは確かジャズのサキソフォンの名手、故J・コルトレーンさんの作品のタイトルだったと記憶しています。
今しも夜の街から旅立とうとする様な、ふくよかなテナーの旋律は、夜行列車の出発に相応しい調べでありました。直訳すれば「哀愁列車」と言う所でしょうか。そう言う感情を引きずっている所もある様に思います。それを象徴する一つが、旅立つ方と見送る方のお別れの場面であり、これは新幹線や長距離バスではこうは行くまいと思う程の重い何かを感じたものでした。
もう一方の、朝の風情も優れたものがありました。明け始めの張りつめた空気の中を駆け抜ける列車には、暗闇を乗り越えて来た者の誇りと気迫が感じられる好ましい何かがありました。この朝の場面を捉えるべく、未明から多くの愛好者が撮影地に集まるのも頷ける気が致します。
運行終了直前の今月初めには、私も2回程名舞台の浜名湖を訪れましたが、どちらも多くの撮影各位で賑わっていました。定刻の通過もあれば、運転事情により1時間程遅れる事もありました。しかしながら皆、最後だからそれ位は、の気持ちだったと今は思います。そして、半世紀にも亘って我国の夜の交通を守り続けてくれた大いなる功労と栄光の軌跡に、心よりの一礼をと皆がお思いの事でしょう。
「お疲れ様、有難う。」の一言と共に、遠ざかったブルー・トレインが我々に残してくれた至高の言葉を、ここに載せます。
「明けない夜は ない。」*(三日月)*
旅がお好きな方々、そして鉄道愛好者の各位はご存じかと思いますが、昨3/14、年に一度のJR社の全国列車時刻改正が執り行われました。
より利便性の向上を図る、との意図は一面では感じられるのですが、もう一方で、残念にして惜しまれる別れがあるのも事実。その痛恨事の一つが、東京対山陽・九州間を結ぶ夜行寝台列車、所謂「ブルー・トレイン」の運転終了でありましょう。
想えば、この長距離列車のルーツは遠く20世紀初めの1911=明治44年に運行の始まった特急「富士」であるとされます。東京より当時の大陸への玄関であった下関まで、ほぼ24時間をかけて走り、大正、昭和の初期を経て過酷な戦中も良く頑張り、1944=昭和19年秋まで30年以上に亘り運転が続けられました。
戦後は東海道線の日中の特急として復活、1956=昭和31年秋に運行の始まった東京対九州特急の一員として1964=同39年に、東海道新幹線の開業と時を同じくして日豊線の大分、宮崎を経て西鹿児島、今の鹿児島中央を結ぶルートを担う様になります。
元々はこの列車、前年の1963=同38年運行開始の東京対熊本特急「みずほ」の上り側の数両の車両が九州の玄関、門司駅にて熊本行きと別れた後、単独で大分へと向かっていたのが始まりとされ、翌年の単独化にて大分、宮崎経由にての鹿児島乗り入れを果たし、1570kmを超える運行距離は長く我国の最長距離列車として記憶される事となります。この「富士」の名が最後まで残った事は本当に喜ばしく、又我々の誇りでもあると強く思います。
もう一つ、「富士」と並んで最後まで走り続けたのが「はやぶさ」。
こちらは1960=昭和35年に博多特急「あさかぜ(1958=昭和33年秋に、旧世代車で運転されていた所、車両更新された)」、長崎特急「さくら(1959=同34年夏、以前の特急「平和」が改称の上車両更新)に続くブルー・トレイン第3弾としてこちらも長く東京対九州特急の主役を張り続け、1980=同55年に「富士」が宮崎打切りとなった後は我国最長距離列車となり、これは1997=平成9年まで続く事となります。因みに「みずほ」は第4弾、「富士」は第5弾と言う事になります。
1999=平成11年には熊本止りとなった「はやぶさ」と長崎への「さくら」が本州内は併結の一個列車にまとめられ、「富士」も大分までとされて、いよいよ夜行列車の退潮が顕在化します。又この前後、ブルー・トレインの始祖だった「あさかぜ」も、九州内の下関~博多間の運行が打ち切られました。
2005=平成17年春には「あさかぜ」と「さくら」が運行を終え、「富士」と「はやぶさ」が本州内併結の一個列車となって孤軍奮闘して参りました。この間にも2006=平成18年春に東京対山陰を結んだ「出雲」、昨春には京都・大阪と九州を結んでいた「なは」「あかつき」、そして東京~大阪間の「銀河」が姿を消し、今回の退場で東京発の夜行列車は東京対岡山と山陰、それに四国高松を結ぶ「サンライズ出雲・瀬戸」を残すのみとなった次第。
直接の消滅原因は、航空機や新幹線の速度と利便性の向上、それに高速道路網の整備に伴う安価な夜行長距離バスの台頭によるものの様ですが、旅行者の高齢化を考えるとある程度の寝台需要はあるとされ、限定的にでも存続の余地はなかったのか、との思いがあるのも事実です。例えば1988=昭和63年まで運航の続けられた、本州と北海道を結ぶ青函連絡船の寝室は日中でも利用可能であったとされ、先日のTV番組にても拝見したのですが、高齢の方の旅行時は長時間の着座が困難で、どうしても寝台を必要とする場合もある由。これはこれから長距離化する新幹線にても、顧みられて良い配慮であると思います。
夜行列車・・・想えば独特の情趣があったのは事実です。
寝台車でなくても言える事ですが、夜の旅立ちと言うのは、何か期待と不安の入り混じった感情があるんですね。
ブルー・トレインと言う愛称。これは確かジャズのサキソフォンの名手、故J・コルトレーンさんの作品のタイトルだったと記憶しています。
今しも夜の街から旅立とうとする様な、ふくよかなテナーの旋律は、夜行列車の出発に相応しい調べでありました。直訳すれば「哀愁列車」と言う所でしょうか。そう言う感情を引きずっている所もある様に思います。それを象徴する一つが、旅立つ方と見送る方のお別れの場面であり、これは新幹線や長距離バスではこうは行くまいと思う程の重い何かを感じたものでした。
もう一方の、朝の風情も優れたものがありました。明け始めの張りつめた空気の中を駆け抜ける列車には、暗闇を乗り越えて来た者の誇りと気迫が感じられる好ましい何かがありました。この朝の場面を捉えるべく、未明から多くの愛好者が撮影地に集まるのも頷ける気が致します。
運行終了直前の今月初めには、私も2回程名舞台の浜名湖を訪れましたが、どちらも多くの撮影各位で賑わっていました。定刻の通過もあれば、運転事情により1時間程遅れる事もありました。しかしながら皆、最後だからそれ位は、の気持ちだったと今は思います。そして、半世紀にも亘って我国の夜の交通を守り続けてくれた大いなる功労と栄光の軌跡に、心よりの一礼をと皆がお思いの事でしょう。
「お疲れ様、有難う。」の一言と共に、遠ざかったブルー・トレインが我々に残してくれた至高の言葉を、ここに載せます。
「明けない夜は ない。」*(三日月)*