コナサン、ミンバンワ!今年2009=平成21年の盆休みも遂に終了。明日よりは猛暑下、再び平日が始動する。昨日々中は、愛知・静岡県境の三遠地区、今は浜松市天竜区となった佐久間の山間へ行って来た。一昨年夏の拙写真帖にてご紹介したこの地を通るJR飯田線、佐久間レール・パークが今秋を以て閉園する事となり、その前に少しでも資料を見ておきたい気もあったのだ。この地区にては昔からの盆の風習たる故人の魂を送迎する迎え火、送り火の習慣が残されており、都市に暮らす身には、忘れて来た何かを思い起こさずにはいられなかった。
と言う所で、最盛期、豊橋近辺にては飯田線にも乗り入れる形となっていた名古屋鉄道パノラマカーの話へと戻りたい。特徴的な展望式先頭車には、勿論独創的、先進的なアイデアが多く盛り込まれていた様だ。前灯=ヘッドランプが計4灯。正面窓下の2灯が主灯と思われがちだが、これは副灯。正面窓と、その上の運転台窓の間の上方の2灯が本当の主灯である。副灯は正式には「前部標識灯」と呼ばれ、状況によってはあたかも灯台の様に旋回させる事が可能であり、悪天候下ではフォグ・ランプとして機能させる事も可能だった様だ。後退時、最交尾となる時には赤のフィルターを用いて尾灯とする。副灯の脇には、自動車のバンパーに当たる、可動式の油圧ダンパーが設置され、しばしば生じた踏切事故に威力を発揮、特に前部の乗客の安全確保に貢献した。初期を中心に、時には大型トラックとの衝突例もあったが、見事持ちこたえて大規模な脱線転覆の事例はなかった様である。積荷の発火による火災事故に関わった例も一件あるが、この時も難燃化対策を施された車体が人的被害を最低に抑え、事故車両も辛くも現役復帰を果たした由。これらの対策と実績が、パノラマカーの乗客各位よりの信頼を高め、やがて全盛への道を開いたのは想像に難くない所だろう。
一方、編成の方は更なる長大化への模索も進められていた。初期には最大10両編成となる場合をも考慮して、一度は実際にテストも行われた由。やはり当時増大する乗車需要に、最大でも6両の基本編成では不安があったと言う事だろう。1965=昭和40年頃よりの数年間、兄弟車7500型にてまず7両化を経て8両化への増結措置が取られたのを思い出す。他の車種との併結協調運転が構造的にできない同車では、編成自体に同形の中間車を挿入増結する他増強策はなかったのだろう。これは先輩特急車5500型との併結協調運転のできた7000型には施されなかったはずだ。逆に同車にはこの時期、支線直通を可能にする短い4両編成、所謂P-4編成の出現を見る。この編成の先頭車には、将来の増結措置に対応すべく、ブレーキ配管や制御回路接続用配線追加、それに電気連結機能付きの連結器に換装できる様対応準備がされていた様だ。これらの追加装備は、後年実現を見るが、先輩車5500型はそれ以前にも時折7000型P-6編成の一端に加わる事があった。これは片側の先頭車が踏切事故や機器不調などで、修理工場送りを余儀なくされた場合の代役に指名された為である。同車の塗装は上半身桜色、下半身は阪急電鉄流の深いワイン・カラー。この混成列車が現れると「あ、片側の先頭車事故したらしいな」と言うのが分かって興味深かったのを、今でも覚えている。