コナサン、ミンバンワ!
長めにして多めの五月雨の後の五月晴れ・・・は良いんですが、どうも少し気温が高過ぎる様な気がします。
当地名古屋は、今日々中も最高気温30℃超の真夏日。明日から少しは涼しくなる様ですが、高めの気温にて推移する様であれば、ただでさえ猛暑の夏場が思いやられる所です。
さて前回の「晴耕雨読」の話題中、「親の背を見て子は育つ」との言葉を載せた所、ある読者の方より「最近の親の背は、必ずしも偉大とは言えない様だ」との反応を頂きました。そうなんですよね。実は私も同じ事を感じていた所でした。
その方によると「子は親の鏡」で、その子の態度を見ていると、親がどんな風か相当に分る由。確かにそれはありますね。申したくはないが、躾の悪さが出てしまう事が少なからずあると言う事でしょう。
確かにそう言う親達の姿勢は不良なのだが、その全てを親個人のせいにするのは無理があるでしょう。責任回避を勧める気は毛頭ありませんが、一方で社会や行政のあり様が本当に適当かを点検してみる必要もあるでしょう。
そうした面から見て参ると、どうも「戦後の教育が不良であった為」に現代社会の諸問題が噴き出して来た所があるのは、ほぼ間違いない様です。ここで、1947=昭和22年春に施行されてから、憲法同様半世紀を超えて見直される事なく、2006=平成18年暮れにようやく抜本改正の実現した教育基本法の前文を見て参る事にします。
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々はこの理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、心理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに我々は日本国憲法の精神にのっとり、我国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」
以上の前文は、改正後のものです。つい数年前まで効力のあった旧教育基本法では「公共の精神の尊重」と「(文化的)伝統の継承」と言う二つの大切な心得が抜け落ちていました。正に、欠陥法規だった訳ですね。
所詮は暫定に過ぎなかった連合国進駐軍GHQよりの頂きもの、旧教育基本法。日本国憲法にしたって、根は同じ。表向きの平和を謳いながら、結局は弱肉強食の競争志向のアメリカニズム。近代資本主義の体裁を取る以上、ある程度の競争は不可避であろうが、だからと言って、日本的な思考は全て不可、欧米は全部丸では話になりません。想えばこの事が、過度の競争の果て人的被害を伴う学校内暴力に発展したり、ひいては、過日当地にて生じた女性会社員拉致惨殺の如き残忍な凶悪事件の引き金となった面もあるのです。
旧教育基本法では、その様な不健全思考が事実上許されていた。個人の自由、と言うより放縦が優先され、地域や家庭の平和を重んじる公共心は軽んじられた。だから社会は荒廃し、学校などの教育機関でも、昔はあり得なかった様々な問題が山積しているのではないでしょうか。
旧教育基本法では「普遍的にして個性豊かな文化の創造をめざす教育の普及徹底を」謳っていましたが、自己矛盾に満ちたこの文言、今思うと失笑を禁じ得ません。
国や地域によって、教育のあり様も微妙に異なるのに、一体何をもって「普遍的」とするのか、どうも不可解であります。これは多分、合衆国発のアメリカニズムと見て間違いないでしょう。そんな思考が文化の根底を異にする我国にて根付くはずはなく、一理想論として一笑に付し得るものでしょう。そんな欠陥法規が、戦後半世紀を超えて幅を利かしていた現実には、戦慄すら覚えます。この様な不健全な状況を助長し続けたのは、左派野党と日本教職員組合、それに左傾民間有識者の面々でしょう。
この連中は、日本国憲法の番人を自称してはいるが、実態はこの事に対し、我々国民に「思考停止」を強要している印象を受けます。つまり、祖国日本の進路を明るいものにし、世の中に希望を与える為には、日本国憲法の改正も視野に入れる必要もあるのだと言う考えさえ妨げようとしている。これは過日も問題にした様に、基本的人権の重要な一項目「学問の自由」を著しく侵害するものでしょう。歴史の上での反省と言う美名の下に、自虐史観を広めようとした事と共に、その罪業は決して小さくないと、私は見ています。
一方では「自由と平和」などと言いながら、不都合な事は、例え行いたい勉強であってもさせまいとする、日本国憲法の品性は、一方で時代を経るに従って、大きく劣化している一面がどうしても見えて仕方がないのでありますが・・・。*(日本)*
長めにして多めの五月雨の後の五月晴れ・・・は良いんですが、どうも少し気温が高過ぎる様な気がします。
当地名古屋は、今日々中も最高気温30℃超の真夏日。明日から少しは涼しくなる様ですが、高めの気温にて推移する様であれば、ただでさえ猛暑の夏場が思いやられる所です。
さて前回の「晴耕雨読」の話題中、「親の背を見て子は育つ」との言葉を載せた所、ある読者の方より「最近の親の背は、必ずしも偉大とは言えない様だ」との反応を頂きました。そうなんですよね。実は私も同じ事を感じていた所でした。
その方によると「子は親の鏡」で、その子の態度を見ていると、親がどんな風か相当に分る由。確かにそれはありますね。申したくはないが、躾の悪さが出てしまう事が少なからずあると言う事でしょう。
確かにそう言う親達の姿勢は不良なのだが、その全てを親個人のせいにするのは無理があるでしょう。責任回避を勧める気は毛頭ありませんが、一方で社会や行政のあり様が本当に適当かを点検してみる必要もあるでしょう。
そうした面から見て参ると、どうも「戦後の教育が不良であった為」に現代社会の諸問題が噴き出して来た所があるのは、ほぼ間違いない様です。ここで、1947=昭和22年春に施行されてから、憲法同様半世紀を超えて見直される事なく、2006=平成18年暮れにようやく抜本改正の実現した教育基本法の前文を見て参る事にします。
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々はこの理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、心理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに我々は日本国憲法の精神にのっとり、我国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」
以上の前文は、改正後のものです。つい数年前まで効力のあった旧教育基本法では「公共の精神の尊重」と「(文化的)伝統の継承」と言う二つの大切な心得が抜け落ちていました。正に、欠陥法規だった訳ですね。
所詮は暫定に過ぎなかった連合国進駐軍GHQよりの頂きもの、旧教育基本法。日本国憲法にしたって、根は同じ。表向きの平和を謳いながら、結局は弱肉強食の競争志向のアメリカニズム。近代資本主義の体裁を取る以上、ある程度の競争は不可避であろうが、だからと言って、日本的な思考は全て不可、欧米は全部丸では話になりません。想えばこの事が、過度の競争の果て人的被害を伴う学校内暴力に発展したり、ひいては、過日当地にて生じた女性会社員拉致惨殺の如き残忍な凶悪事件の引き金となった面もあるのです。
旧教育基本法では、その様な不健全思考が事実上許されていた。個人の自由、と言うより放縦が優先され、地域や家庭の平和を重んじる公共心は軽んじられた。だから社会は荒廃し、学校などの教育機関でも、昔はあり得なかった様々な問題が山積しているのではないでしょうか。
旧教育基本法では「普遍的にして個性豊かな文化の創造をめざす教育の普及徹底を」謳っていましたが、自己矛盾に満ちたこの文言、今思うと失笑を禁じ得ません。
国や地域によって、教育のあり様も微妙に異なるのに、一体何をもって「普遍的」とするのか、どうも不可解であります。これは多分、合衆国発のアメリカニズムと見て間違いないでしょう。そんな思考が文化の根底を異にする我国にて根付くはずはなく、一理想論として一笑に付し得るものでしょう。そんな欠陥法規が、戦後半世紀を超えて幅を利かしていた現実には、戦慄すら覚えます。この様な不健全な状況を助長し続けたのは、左派野党と日本教職員組合、それに左傾民間有識者の面々でしょう。
この連中は、日本国憲法の番人を自称してはいるが、実態はこの事に対し、我々国民に「思考停止」を強要している印象を受けます。つまり、祖国日本の進路を明るいものにし、世の中に希望を与える為には、日本国憲法の改正も視野に入れる必要もあるのだと言う考えさえ妨げようとしている。これは過日も問題にした様に、基本的人権の重要な一項目「学問の自由」を著しく侵害するものでしょう。歴史の上での反省と言う美名の下に、自虐史観を広めようとした事と共に、その罪業は決して小さくないと、私は見ています。
一方では「自由と平和」などと言いながら、不都合な事は、例え行いたい勉強であってもさせまいとする、日本国憲法の品性は、一方で時代を経るに従って、大きく劣化している一面がどうしても見えて仕方がないのでありますが・・・。*(日本)*