初めて朝、ブログ記事を記します。
3月に入り、春の気配が次第に濃厚になって来た。三寒四温をくり返し、彼岸を過ぎれば過ごし易い日が増える事だろう。
所でご存知の様に、春は出会いと別れの季節。くり返しになるが、俺にとって昨春の岐阜の路面電車、所謂「名鉄600V」の消滅は近年屈指の痛恨事だった。
使命を終えた車輌の内、再起組を除く多くはこの正月過ぎまでに引退廃車、解体施工も行われ姿を消した。又、来月よりは遂に軌道の一部が撤去の運びだと言う。
この線区の再生保持への努力は今も民間有志により行われているが、その志に影を落さない事を祈るばかりだ。
さてはるか以前、我が街名古屋にも路面電車の姿があった。戦後復興にあたり、広い道路と自動車交通を選んだ名古屋人は、早々に輸送力も環境整合力も併せ持ったこの交通機関を放棄してしまった。そのツケは今も、週末毎に繰り返される市街地大渋滞に現れている。違法駐車も多く、待たされても待たされても自家用車にて中心部へ乗り入れる事をやめない名古屋人、本当にアホの見本の様な所があり、我が愛車も休日の中心部に近づくと嫌な顔をする・・・これは冗談(笑)。
さて、元名古屋の路面電車の多くは今から30余年前の路線消滅に伴って姿を消したのだが、何と東三河の豊橋へ移って今日まで生き延びた勢力があった。しかも戦後の後発組ではなく、戦中派だと言う。落成は、遠く1942=昭和17年。あの戦火、戦後の混乱、伊勢湾台風、そしてどこの電車も悩まされた自動車交通勃興、所謂モータリゼーションの波をかわしながら、近年まで実に10車近くが現役を守って来たと言う。
平成年間に入ると、さすがに引退する者も出て7車まで減少するが、それでも昨夏までは残る全車が健在で、今まで重い走行音を轟かせ、元気な所を見せてくれていた。
運命が大きく動いたのは昨年後半。前述の岐阜路線の取りやめに伴って、その全てが平成生まれの最新車のグループが当地へ進出。仕様変更、そして訓練を経て旧世代と入れ替わり始め、遂に今春、新兵達に路線を明け渡す事となった次第。
様々な試練を越え、人の一生にも匹敵する時空を走りきった古老達。晩年は車体こそ広告外装だったが、古き良き名古屋の雰囲気を良く伝えてくれていたと思う。
予備役として残る1車を除き、元名古屋車達の舞台は今日日中にて幕となる。