Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

名鉄パノラマカー回顧Ⅳ

2009-08-16 22:16:48 | 旅行記

コナサン、ミンバンワ!今年2009=平成21年の盆休みも遂に終了。明日よりは猛暑下、再び平日が始動する。昨日々中は、愛知・静岡県境の三遠地区、今は浜松市天竜区となった佐久間の山間へ行って来た。一昨年夏の拙写真帖にてご紹介したこの地を通るJR飯田線、佐久間レール・パークが今秋を以て閉園する事となり、その前に少しでも資料を見ておきたい気もあったのだ。この地区にては昔からの盆の風習たる故人の魂を送迎する迎え火、送り火の習慣が残されており、都市に暮らす身には、忘れて来た何かを思い起こさずにはいられなかった。

と言う所で、最盛期、豊橋近辺にては飯田線にも乗り入れる形となっていた名古屋鉄道パノラマカーの話へと戻りたい。特徴的な展望式先頭車には、勿論独創的、先進的なアイデアが多く盛り込まれていた様だ。前灯=ヘッドランプが計4灯。正面窓下の2灯が主灯と思われがちだが、これは副灯。正面窓と、その上の運転台窓の間の上方の2灯が本当の主灯である。副灯は正式には「前部標識灯」と呼ばれ、状況によってはあたかも灯台の様に旋回させる事が可能であり、悪天候下ではフォグ・ランプとして機能させる事も可能だった様だ。後退時、最交尾となる時には赤のフィルターを用いて尾灯とする。副灯の脇には、自動車のバンパーに当たる、可動式の油圧ダンパーが設置され、しばしば生じた踏切事故に威力を発揮、特に前部の乗客の安全確保に貢献した。初期を中心に、時には大型トラックとの衝突例もあったが、見事持ちこたえて大規模な脱線転覆の事例はなかった様である。積荷の発火による火災事故に関わった例も一件あるが、この時も難燃化対策を施された車体が人的被害を最低に抑え、事故車両も辛くも現役復帰を果たした由。これらの対策と実績が、パノラマカーの乗客各位よりの信頼を高め、やがて全盛への道を開いたのは想像に難くない所だろう。

一方、編成の方は更なる長大化への模索も進められていた。初期には最大10両編成となる場合をも考慮して、一度は実際にテストも行われた由。やはり当時増大する乗車需要に、最大でも6両の基本編成では不安があったと言う事だろう。1965=昭和40年頃よりの数年間、兄弟車7500型にてまず7両化を経て8両化への増結措置が取られたのを思い出す。他の車種との併結協調運転が構造的にできない同車では、編成自体に同形の中間車を挿入増結する他増強策はなかったのだろう。これは先輩特急車5500型との併結協調運転のできた7000型には施されなかったはずだ。逆に同車にはこの時期、支線直通を可能にする短い4両編成、所謂P-4編成の出現を見る。この編成の先頭車には、将来の増結措置に対応すべく、ブレーキ配管や制御回路接続用配線追加、それに電気連結機能付きの連結器に換装できる様対応準備がされていた様だ。これらの追加装備は、後年実現を見るが、先輩車5500型はそれ以前にも時折7000型P-6編成の一端に加わる事があった。これは片側の先頭車が踏切事故や機器不調などで、修理工場送りを余儀なくされた場合の代役に指名された為である。同車の塗装は上半身桜色、下半身は阪急電鉄流の深いワイン・カラー。この混成列車が現れると「あ、片側の先頭車事故したらしいな」と言うのが分かって興味深かったのを、今でも覚えている。

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鎮魂~想い出の夏の風

2009-08-16 09:19:00 | インポート
真美さんお早うございます。最初に、貴方宛の伝言記事となった事後のご報告をお赦し下さい。2009=平成21年の盆休みも早最終日となりました。昨日の終戦の日の正午、私は当地三河のJR飯田線のある駅にて、黙祷を捧げました。
当地愛知のこの期間は、真夏に相応しい炎暑と、曇りがちで時折時雨れたりの不安定な天候がほぼ半々でした。今朝も雲が多く、割合凌ぎ易いのは助かりますね。

貴方とは鉄道交通に関する趣味で共通する所もあり、汽車電車の類にしても、一度路線や車両の型式など踏み込んだ話などを、夜通しできればな、などとアホな願望を抱いたりしています。身近な所では、半世紀もの歴史と栄光を誇った当地東海の名物車、名古屋鉄道パノラマカーが、遂に今月末を以てその活動に終止符を打ちます。時あたかも衆議院総選挙の日。我国のこれからにとり、岐路となり得る特別な日、8/30が勇退の日に選ばれたのも、何か因縁の様なものを感じている所です。

どんなに功労のある者も、又、どんなに栄光の軌跡を描いた者にも、その終わりは平等に訪れるものですね。そう言えば、貴方は鉄道車両や艦船の模型も手掛けていらす様ですね。拙方にも画像を下さり、有難うございます。艦船と来れば旧日本海軍の事。私も名司令官山本五十六さんや異色の将官井上成美さん等の伝記を拝読して戦中の苦境に少しは接した事がありますし、海軍在籍のご経験を持つ作家、阿川弘之さんがとても良い資料を残して下さっており、残る大物、米内光政さんの事と共に、これから読むべき事共も多く、まだまだ勉強って感じです。苦笑

さて、戦艦大和の最期に象徴される様に、我国は先の大東亜戦争こと太平洋戦争において、欧米連合国に大敗北を喫した訳ですが、戦没並びに戦災犠牲の各位に対する弔意のあり方について、未だに見方が分かれているのは遺憾です。
戦中出陣した方々は「死んだら、靖国で会おう」と声をかけ合い、戦地へお越しになったやに聞いています。ご存じの様に、戦没各位の亡き魂は、東京九段の靖国神社に合祀されています。その事自体に私は異論はありません。
左翼的思潮が幅を利かせていた拙10代の頃、上京していた私に、両親も靖国参拝を勧めてくれたのですが思考面で逡巡があり、この時は同社を訪れていません。ようやく今世紀に入って思考面の整理もつき、参拝に至った次第であります。この辺りの事は2005=平成17年10月の拙日記「靖国へ・・」に記しましたので、良ければご参照下さる様。

靖国のあり方に、議論がある事自体は異論はないが、我国の戦没者表敬のあり方は、靖国を抜きにしては語れないのも事実だと思います。
勿論、合祀された中には現在の中華民国、大韓民国出身の方々もいらっしゃる。この方々の遺族各位より合祀見直しを求める声もあるやに聞かれ、所謂A級戦争犯罪人と言われた方々の処遇と共に、靖国神社の対応が注目される所です。
願わくば、長い時間をかけて少しでもこうした遺族各位の希望が少しでも叶えば良いが、神社側もその可否につき、もう少し誠意のある説明があっても良いのではと思います。
昔と異なり、少しでも相手の立場も理解しなければと言う時代。又、双方がそう言う努力をする事が「平和を築く」と言う事やないかと思う訳であります。

この事につき、貴方には独自のご見解がある事と思います。ここはご自身の信念によってこの記事を読んで下さればと思います。それにしても、この問題は息長く取り組む必要がありそう。性急に結論を出すべきではない様に思います。

話をパノラマカーに戻します。今回の添付画像、こだわりのある貴方向けに、昨年引退した正当の6両隊、所謂P-6編成の模様を載せます。先頭車も他の編成との増結装備のない原形。非常用連結器があるだけです。
昨夏は、この第4編成、車番7007F(東京方先頭車)を追って、活発に動き回る愛好者達の姿が目立ちました。
その様な中、丁度昨盆の夕暮れ、東海市の太田川駅の構内に、一人の愛好者もなく一般の乗客各位、親子連れや退勤の会社員らしいネクタイ着用の男性達、それに夏の装いの若い女性達に囲まれて、束の間幸せそうに見えた同編成の心和む姿は、今も忘れられない光景です。
P.S 勇退する名古屋鉄道パノラマカーの回顧記事を、拙ブログにて連載しております。*(日本)*
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名鉄パノラマカー回顧Ⅲ

2009-08-13 00:13:50 | 旅行記

コナサン、ミンバンワ!恐れながら、拙方は昨日より盆休み。天気予報によれば、盆休中の当地東海は、ほぼ連日の晴天と猛暑に見舞われそうだが、水分補給などに留意の上、何とか健康留意にて乗り切れれば、などと思っている。夏パテの影響は、今月下旬に出る事が多いからだ。

さて、今月連載の「名鉄パノラマカー回顧」、3回目の今夜よりは、いよいよ同車の全盛期を振り返って参りたいと思う。と申しても、俺は概ね名古屋本線の名古屋~豊橋、又は豊川線諏訪町の間にて乗る事が圧倒的に多かったのだが。

1961=昭和36年初夏にデビューした名鉄パノラマカーは、その後兄弟分7500型や親族のニセ・パノラマカー7700型をも含め、10次を超える増備を重ねて最終車が現れた1975=昭和50年には210車を超える名古屋鉄道の一大勢力へと躍進する。名古屋本線にては、在来のものに加え全車指定席の特急も運行され、現在に続く特別車「ミュー」の原形が出来上がる訳だ。

本線以外の主要な路線、常滑線や犬山線などにもほぼくまなく乗り入れ、短縮された4両編成、所謂P-4でも乗入れが不可能な支線特急には、短編成でも走れる前述の7700型の出番となった訳である。

この様にして名古屋鉄道のほぼ全線を制圧したパノラマカーとその一族、ごく初期には本線の特急にて車内販売が行われていた記憶があり、又先頭席のエリアにては、正月の豊川稲荷や犬山成田山の初詣期間などには、記念の催しなどが行われ、乗客各位を楽しませた様だ。俺は10代前半の頃乗った、豊川稲荷行きの指定席制の初詣列車内にて地元の伝統芸能「三河万歳」の実演に接する機会を得て、今も良い思い出となっている。

ただ、指定席については、一般の旧国鉄やJRで言う自由席との設備格差が少なく、そんな状況下での特別料金徴収を疑問視する声があったのも事実。旧国鉄の急行などでは、指定席車と自由席車が同一でも、問題視する向きは少なかったが、こうした見方も名古屋圏特有のものだろうか。この事で、後年野党県議団が名古屋鉄道に対して改善を求め、やがてこの動きが全国にその存在を知られた、特急用白帯車の出現へと繋がるのである。(以下次号)

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予感~想い出の夏の風

2009-08-12 15:11:00 | インポート
空心さん今日は。毎度の拙日記コメントと、折々に下さる画像、誠に有難うございます。

恐れながら、拙方も今日より5日間の盆休みに入り、天候もようやく夏らしくなって、日頃の疲労回復を初め、少しでも有益に過ごせられればと思っている所であります。

所で昨日早朝、静岡県付近にて強い地震があったのはご存じかと思います。
貴方を初め、多くの知友がいらす首都圏は直撃を免れた様ですので、特にお見舞い等を申さなかった無精はどうかお赦し下さい。ただ、気象庁の見解によると、この地震は近い将来発生の懸念される東海大地震の引き金となる可能性が否定できない由。もし生じれば、首都圏も当地名古屋圏も相当の被害を免れないであろう状況を考えますと、お互い無関心で済まされる問題ではない様に思われますが如何でしょうか?

今回の地震に際し、住宅の多くが揺れをしのいだ反面、社会資本は思いの外脆弱でありました。
特に東名高速道の崩落は、当初震度7クラスの激震にも耐えられる構造との触れ込みであっただけに、大いに裏切られた感がありますね。雨がちの気候だった後である事を考えても、設計施工面の不備不足は世間よりの批判を免れないでしょう。毎年毎年、高額の道路財源を多くの使用者より徴収しておきながら、一体どこに使用しているのか?と揶揄したくもなる。人的被害を伴う大事故に繋がらなかったのが、不幸中の幸いでした。

ご存じの様に、これからの盆休みの時期は事件事故も多く、それなりの緊張も必要とされます。我々日本人は、ともすれば「己の身は己で守る」自衛意識に欠けると言われる。周りで禍いがあっても「自分だけは大丈夫」と思い込みがちな訳です。海外にて色んな問題を起こしたり盗難被害に遭ったりしている事実にも、それが表れています。
戦後に至って、祖国日本が平和志向になったのは良いが、どうも必要な事共までが等閑になってしまった様な感じがするのです。

事件事故の発生を抑える為に、特に犯罪加害者には徹底した倫理教育が必要なのだが、自称進歩的勢力、実は左派勢力やエセ人権勢力共は「戦前戦中の軍国主義の復活に繋がる」などと徒らに不安感を煽って妨害しようとする。被害者もしくはそうなり得る方々に対しては、自衛の心がけ「自らは、自らで守る」と言う啓蒙を行おうとすればこれ又「平和社会に相応しくない。自衛努力など不要」などと反発して横槍を入れ、周囲に思考停止を強要しようとする。一体この「誤った自由と民主主義」にかぶれた連中、何を考えているのかと激しい憤りを感じている所。具体的には社会民主党、日本共産党、日本教職員組合、日本弁護士連合会、そして国際人権擁護機構日本支部の一部勢力などがこれに該当します。

幾ら尤もらしい組織であろうとも、必要な教育啓蒙まで妨げる所業は断じて許されるものではありません。

些か過熱した点はどうかお赦し下さい。ただ、やはり各自が相応の自覚を持たないと、国や社会の平和、そして個人の安全は守れない点は強調しておきたく思います。それと一度強い揺れがあった以上、東海大地震に対する引き続いての警戒も必要。そうした所と健康面、水分補給や熱中症対策に留意して、お互いに大過なく、有意義な休日を過ごせればと思いますね。

P.S 今月は、一般社会を騒がせた芸能界の薬物汚染の問題もありましたが、これは次回以降に取り上げる事と致します。*(風鈴)*
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苦悩~想い出の夏の風

2009-08-09 22:40:00 | インポート
おおずしさん今晩は。いつも有意義な拙日記へのコメントを有難うございます。かつて自衛のお仕事も担われ、又、既婚でもある貴方のご見解は、拙方いつも尊重しなければと思っている所です。時に少し、見解の相違を生じる事もありはしますが、そこの所は少しでも相互理解が叶えば、とも思いますね。

振り返るに、去る8/6は広島の、今日8/9は長崎の原爆忌でありました。
先の大戦、大東亜戦争こと太平洋戦争末期の1945=昭和20年のこの日、両市に対し米合衆国軍による原子爆弾投下が強行され、現在の豊橋市の総人口に匹敵する、計30万を超える人命が瞬時に失われたのは良く知られる所であり、同時に我々日本人が、末代にまで語り継ぐべき史実であると強く思います。

核兵器廃絶を目指し、その実行を大国に迫る国民運動。その趣旨は良く理解できるのですが、同時に、我々の生きる世界は現実の勢力均衡によって、その安全が保たれている実情にも良く目を向ける必要がある事はご存じかと思います。

今年の広島原爆忌の当日、同市内にて前空自航空幕僚長、田母神俊雄さんが平和と安全に関する講演をされ、その席にて朝鮮民主主義人民共和国の核兵器保有に対抗し、我国も核兵器保有の可能性を探るべき、とのご発言があったやに聞いております。これには、さすがに少しでも同氏のご見解を理解したく思っていた私も、ちと首を傾げざるを得ませんでした。
確かに、公職をお離れになった以上、言論表現は現行の日本国憲法の下では自由かも知れないが、殊原爆被害に直に遭った広島・長崎と言う場所柄を考えると、些か慎重さに欠けるのでは、とも思うのです。

仮に筋としては通っていても、それは緊急に結論を要する課題ではない。だとしたら後日、又時と場所を改めてご発言になれば良かったのでは、との印象をも受けますね。
尤も、野党勢力の側にも田母神さんのご見解について、揶揄や批判をする資格はない様に思われます。何故なら、旧日本社会党と日本共産党は、旧ソビエト連邦の核政策を巡って見解が対立、1960年代の昭和中期には、原水爆禁止を目指す国民組織を分裂させてしまう暴挙を犯しているからです。この問題は、未だに尾を引いている様です。

実は今日々中、インター・ネットの報道を閲覧していたら、興味深い記事が一つありました。
長崎ご出身の元幹部自衛官で、同市にて被爆体験をお持ちの方が、核戦争時の防備について言及されると共に、核兵器への対応について、大筋で以下の様に仰っていました。
「原水爆の大きなダメージを経験した以上、核兵器はなくすべきであるのは事実。その一方で、中華人民共和国やロシア共和国、そして朝鮮民主主義人民共和国までが核を保有し、周辺諸国が核だらけになってしまった現状に、我国が何らの対応もしなくて良いのか、と正直迷い悩んでいるのも事実。大きな声では申せないが」と言う事でありました。

被爆と言う凄惨な体験をなさる一方で、我国の核保有の必要性をも視野に入れなければならない苦しさが、表われている様なご見解です。
ここに、我々日本人が自覚すべき、苦悩の大きな一つが示されている様な気が致します。
この事につき、勿論拙速に結論を出すべきではないのも事実ですが・・・。
P.S 以下に、今回拙記事の関連記事のアドレスを載せます。必要に応じ、ご参照下さる様。
http://news.goo.ne.jp/topstories/life/20090809/44ef49f0b1114957ef3b780fbfa985a5.html? *(日本)*
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