はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

(2)英国王のスピーチ(原題:The King's Speech,2010,英,豪)

2011年02月27日 | 映画(今年公開の映画を中心に)
 前評判がすこぶる高い本作を、昨日、家族で見て来た。

 感想を結論から言うと、「確かに見るに値する佳作だが、期待したほどではなかった」前評判に煽られて、私が期待し過ぎたのがいけないのか、或いは、私の感性やtasteの問題なのか…nose4

 主役級の3人(コリン・ファースジェフリー・ラッシュヘレナ・ボナム・カーター)の演技のアンサンブルは申し分なく、現代映画界を代表する名優の競演を堪能できた。おそらく、3人の内の誰かは、確実に米アカデミーの演技賞を獲得するだろう。背景に流れる音楽も美しい旋律で、格調高く物語を盛り上げ素晴らしい。

 しかし、何か物足りないのである。ピンポイントで胸にジーンと来るシーンがあるにはあるのだが、見終わった後の余韻はあまり長くは続かなかった。帰る道すがら、映画の印象的なシーンを反芻するでもなく、家族で熱く感想を語り合うでもない。家族で安心して見られるが、あまりにも優等生的な作りで、無難過ぎて、良くも悪くも心に引っ掛かるものがない、とでも言おうか。

 さらに若手監督が作った割には、清新さが感じられない(30代の若い監督なのだから、もっと冒険や荒削りな面があっていいはず)。実話に基づく作品であり、しかも英王室を描いたと言う制約(英王室に遠慮している?)のせいなのか、映画としての作りは凡庸で、俳優陣の名演に大きく救われている、と言う印象が拭えない。本作が下馬評通り米アカデミー賞作品賞を獲得したら、いよいよ私は米アカデミー賞を見放すかも(笑)。

 先ほど、WOWOWの特別番組でLAの映画評論家?オズボーンおじさんが、「『ソーシャルネットワーク』は旬の映画だから今もてはやされているが、時が経てば忘れ去られる。それに対して『英国王のスピーチ』は息の長い作品になるだろう」と本作を強力にプッシュしていた。しかし、私は思うのである。その年を代表する作品を選ぶのなら、「息の長い」作品が何ものにも優先する評価基準ではないはずだ。例えば、ロングセラー曲は必ずしも、発売年にその年を代表する曲として選出されていないように。もし「息の長い作品」のみを選ぶのであれば、米アカデミー賞を毎年開催する意味はないだろう(賞を選考する米アカデミー会員の平均年齢が57歳と聞いたら、やっぱり映画界の未来を見据え、次世代の映画ファンを獲得する為にも、そろそろ会員の若返りが必要なんじゃないかと思う)

 現女王エリザベス2世の父君、ジョージ6世の知られざるエピソードは、確かに興味深い物語だった。国王夫妻の夫婦愛と家族愛、国王とオーストラリア人言語療法士ライオネル・ローグの身分差を越えた友情と信頼によって、幼い頃から自身の吃音に悩んで来たジョージ6世が、一王族から国王となるまでに幾多の困難を克服し、国王としての自信を得る~と言った一連の流れは、品良くユーモアも交えて描かれている。

 ただ、そうした国王の苦難と努力の物語を際立たせる為なのか、第二王子であるヨーク公がジョージ6世として王位に就くきっかけとなった、兄エドワード8世の退位にまつわるエピソードの描写は、エドワード8世と「世紀の恋」の相手シンプソン夫人に対して冷淡なものに見えた。つまりは、あくまでも王室目線で描かれた物語なのだ。しかし、このような単純な善悪の対立構図で描いては、物語のリアリティと深みを損なうと私は思う。尤も、それだけ王室と(元々身内であるエドワード8世はまだしも)シンプソン夫人の溝は深いということなのかもしれないが。そして、その真相を映画で描くことは未だタブーなんだろう。

 英国を描くなら英雄伝(エリザベス1世の活躍を描いた『エリザベス』も英雄伝のひとつ)か、庶民の暮らしぶり(先日見たケン・ローチ監督の『エリックを探して』は面白かった)を。英王室を描くなら、『ブーリン家の姉妹』 のような、既に関係者がこの世におらず、何の制約もなく自由に物語を膨らませることができる歴史ドラマの方が、よりドラマチックでインパクトがあって、見応えを感じるのかもしれないなあ…

 以下はネタバレにつき、映画をまだご覧になっていない方は注意されたし。


 劇中、ライオネルは「生まれつきの吃音者はいない」と言った。当時は言語療法士の養成システムが確立されていたわけではなく、学位もなかったライオネルは、度重なる戦争で心身共に傷ついた多くの兵士達への治療を通してその腕を磨いてきた、言わば叩き上げのプロだ(それだけに治療方法もユニークmeromero2)

 そのライオネルがジョージ6世との初対面で看取したのは、ジョージ6世の心の傷。そこで治療に当たって彼が国王に求めたのは、国王である前に、ひとりの人間であることだった。互いをファーストネームで呼び合い、信頼を深めて行くにつれ、ジョージ6世はライオネルに対して心を開き、彼の吃音の原因が次第に明らかになって行く。自身のあるがままを受け入れられず、あらゆる制約と圧力によって、ひとりの人間の心が萎縮した結果のひとつが「吃音」であることに、子どもを育てた親のひとりとしては胸が痛む。

 そう言えば、主演のコリン・ファースも、インタビューでその役作りについて聞かれ、「国王と言うより、ひとりの人間の葛藤をどう表現するかを考えた」と言う主旨の返答をしている。


 王族は、制限された自由の下でしか生きられないという意味で、気の毒な存在なのかもしれない。ましてや実効権力がなく、国民の統合の象徴としてのみの存在では、息苦しいばかりだろうな(自由に振る舞ったら振る舞ったで、「王族としてあるまじきoni」と非難の的になるし)

『英国王のスピーチ』公式サイト


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 銅版画技法を学んでいます | トップ | 今年(2011年)の米アカデミ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。