2011年3月の東日本大震災以来、日本列島は地震の活動期(とでも言うのかな?)に入ったのは確実のようなので、地震はもちろんのこと、火山の噴火にも気を付けた方が良いのだろう。
熊本の震災の件もあってか、最近の自分のアンテナが、災害時にどう対処すべきなのかについてビンビン反応しているので、先日、「避難所で口中の清潔を保つことと適度な運動」の重要性を当ブログにメモした。
他に気になるのは、水と食料の備えと、現金の準備であろうか?災害時にはクレジットカードなんて役に立たないだろうから、現金も使い勝手の良い千円札と、公衆電話用に小銭の100円玉と10円玉を用意しておこう。
最近読んだ本では、曽野綾子さんの著書であったが、「『自分で判断する』と言う自己防御力の欠如」の項が、心に引っ掛かった。
韓国で起きた「セウォル号沈没事件」での多数の被害を例に挙げ、「災害時にはあるべきものがすべてなくなる。指令や指示には必ず混乱と間違った判断がつきまとう。予測のつかない事態が次から次へと起こる。だから最終的に自分の運命を決めるのは自分の判断しかない」と曽野さんは言う。
「誰からの指示を受けなくても、自分の判断で動き、非常事態を逃れる為に自分ひとりで運命と戦う姿勢を持つ。自分の運命を誰の手にも任せてはいけない」
同様に「つねに『最悪』を予想して生きる」の項。曽野さんの「戦中派」らしい用心深さが、ユーモアを交えて綴られていた。電気やガスが通っている。清潔な水が潤沢にある。これらは文明社会では当たり前のことだが、世界では今でもこれらが揃っていない場所が至るところにある。文明生活の象徴であるこれらは、災害時には真っ先に失われてしまうものでもある。
「安全」でさえ危うい。自分の身は自分で守るしかない。
このことを関東の人間も、先の震災で学んだはずだ。しかも地方である東北や熊本でさえ、あの混乱ぶりだ。これが首都圏で起きたらどうなるか?想像するだけで恐ろしい。
おそらく行政の助けはすぐには来ないだろうことを覚悟する必要がある。何でもかんでも人頼みにせず、自分で自分の始末ぐらいはしないとだめだ。その為の水と食料と現金の備えである。
今の日本において、「災害は忘れた頃にやって来る」ではなくて、「記憶も新しいうちに襲いかかって来るかもしれない」厄介な代物である。
~~~~~~~~~~~~~
被災者が自助努力する前提で敢えて言いたいこと。
今回の熊本の震災でも感じたが、今や災害はいつなんどき、どこで発生してもおかしくない。過去の教訓が生かされなかったのか、熊本では避難所が人で溢れかえり、車社会の地方ということもあって、駐車場に車で避難生活を送る人も多かった(そこで新たにエコノミークラス症候群発症の問題も発生)。さらに避難所ではセクハラも多発したと聞く。
災害発生時に自宅からの避難を余儀なくされた人々が、安全に避難できる場所をどう確保するかは、各自治体の課題だろう。
どこに、どのような形式(家族単位が基本ながら、単身世帯は男女別にしたり、乳幼児や老人を抱える世帯への配慮も必要)で避難所を設置するか、警備体制はどうするかまで(自警団はリンチに発展する可能性が高いので警察や警備会社等のプロに任せるべきとの意見あり)、水、食事・風呂場、トイレの確保をどうするか等、平時からきちんと行政の側で取り決めておく必要があると思う。
また、今回も被災地への支援物資の輸送で混乱があった。これに関しても、「支援物資の受け入れ方法」や「効率的な輸送体制の確立」を目指すべきだと思う。ケースバイケースで、どのような方法ならば円滑に支援物資を被災地へ届けることができるか、対策をあらかじめ考えることは出来るはずだ。
熊本県や熊本市は、自分達の被災を想定していなかったのだろうか?それとも災害対策は予め取っていたが、想定を超える被害だったのだろうか?
被災が極地的に甚大ならば、日頃から他の都道府県と互いに協力しあう関係を築いて、一時的に地元の被災民を他の都道府県に避難させることも必要ではないかと思った。
(今回も、個人レベルで妻子を別の場所に避難させている人がいるようだ。
地元以外に親類や友人など頼れる人がいない人、経済的な理由でそれが難しい人だけでも、道路や鉄道や飛行機などの移動手段が回復次第、自治体主導で他のより安全な地域への一時避難を行って欲しい。
尤も津波で家屋・家財諸共流されてしまった東日本大震災と異なり、今回の熊本・大分の震災は、家屋の倒壊被害が主で、家財の盗難被害の恐れがある為、遠方への避難も難しいところがあるのかもしれない)
実際、東日本大震災以後、他府県と相互支援の協定を結んでいる地方自治体もあるようだ。
「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、今回も災害時の対処方法について、いろいろと考えさせられた。
熊本の震災の件もあってか、最近の自分のアンテナが、災害時にどう対処すべきなのかについてビンビン反応しているので、先日、「避難所で口中の清潔を保つことと適度な運動」の重要性を当ブログにメモした。
他に気になるのは、水と食料の備えと、現金の準備であろうか?災害時にはクレジットカードなんて役に立たないだろうから、現金も使い勝手の良い千円札と、公衆電話用に小銭の100円玉と10円玉を用意しておこう。
最近読んだ本では、曽野綾子さんの著書であったが、「『自分で判断する』と言う自己防御力の欠如」の項が、心に引っ掛かった。
韓国で起きた「セウォル号沈没事件」での多数の被害を例に挙げ、「災害時にはあるべきものがすべてなくなる。指令や指示には必ず混乱と間違った判断がつきまとう。予測のつかない事態が次から次へと起こる。だから最終的に自分の運命を決めるのは自分の判断しかない」と曽野さんは言う。
「誰からの指示を受けなくても、自分の判断で動き、非常事態を逃れる為に自分ひとりで運命と戦う姿勢を持つ。自分の運命を誰の手にも任せてはいけない」
同様に「つねに『最悪』を予想して生きる」の項。曽野さんの「戦中派」らしい用心深さが、ユーモアを交えて綴られていた。電気やガスが通っている。清潔な水が潤沢にある。これらは文明社会では当たり前のことだが、世界では今でもこれらが揃っていない場所が至るところにある。文明生活の象徴であるこれらは、災害時には真っ先に失われてしまうものでもある。
「安全」でさえ危うい。自分の身は自分で守るしかない。
このことを関東の人間も、先の震災で学んだはずだ。しかも地方である東北や熊本でさえ、あの混乱ぶりだ。これが首都圏で起きたらどうなるか?想像するだけで恐ろしい。
おそらく行政の助けはすぐには来ないだろうことを覚悟する必要がある。何でもかんでも人頼みにせず、自分で自分の始末ぐらいはしないとだめだ。その為の水と食料と現金の備えである。
今の日本において、「災害は忘れた頃にやって来る」ではなくて、「記憶も新しいうちに襲いかかって来るかもしれない」厄介な代物である。
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被災者が自助努力する前提で敢えて言いたいこと。
今回の熊本の震災でも感じたが、今や災害はいつなんどき、どこで発生してもおかしくない。過去の教訓が生かされなかったのか、熊本では避難所が人で溢れかえり、車社会の地方ということもあって、駐車場に車で避難生活を送る人も多かった(そこで新たにエコノミークラス症候群発症の問題も発生)。さらに避難所ではセクハラも多発したと聞く。
災害発生時に自宅からの避難を余儀なくされた人々が、安全に避難できる場所をどう確保するかは、各自治体の課題だろう。
どこに、どのような形式(家族単位が基本ながら、単身世帯は男女別にしたり、乳幼児や老人を抱える世帯への配慮も必要)で避難所を設置するか、警備体制はどうするかまで(自警団はリンチに発展する可能性が高いので警察や警備会社等のプロに任せるべきとの意見あり)、水、食事・風呂場、トイレの確保をどうするか等、平時からきちんと行政の側で取り決めておく必要があると思う。
また、今回も被災地への支援物資の輸送で混乱があった。これに関しても、「支援物資の受け入れ方法」や「効率的な輸送体制の確立」を目指すべきだと思う。ケースバイケースで、どのような方法ならば円滑に支援物資を被災地へ届けることができるか、対策をあらかじめ考えることは出来るはずだ。
熊本県や熊本市は、自分達の被災を想定していなかったのだろうか?それとも災害対策は予め取っていたが、想定を超える被害だったのだろうか?
被災が極地的に甚大ならば、日頃から他の都道府県と互いに協力しあう関係を築いて、一時的に地元の被災民を他の都道府県に避難させることも必要ではないかと思った。
(今回も、個人レベルで妻子を別の場所に避難させている人がいるようだ。
地元以外に親類や友人など頼れる人がいない人、経済的な理由でそれが難しい人だけでも、道路や鉄道や飛行機などの移動手段が回復次第、自治体主導で他のより安全な地域への一時避難を行って欲しい。
尤も津波で家屋・家財諸共流されてしまった東日本大震災と異なり、今回の熊本・大分の震災は、家屋の倒壊被害が主で、家財の盗難被害の恐れがある為、遠方への避難も難しいところがあるのかもしれない)
実際、東日本大震災以後、他府県と相互支援の協定を結んでいる地方自治体もあるようだ。
「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、今回も災害時の対処方法について、いろいろと考えさせられた。