はなこのアンテナ@無知の知

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自らの主張を暴力で訴えるのは最低な行為

2007年04月18日 | 気になったニュース
 長崎市長選たけなわの長崎市で17日(火)夜、伊藤一長(いっちょう)現長崎市長(61歳)が暴力団幹部の凶弾に倒れ、翌日の午前2時28分に出血多量で死亡した。信じられない?!こんなことがこの日本で、長崎で起こるなんて!

 容疑者は”市役所との個人的なトラブル”が動機と供述しているらしいが、なぜ市長個人を?という疑問は拭えず、しかもこの時機を狙っての犯行、何かもっと裏があるのではと勘ぐらずにはいられない。今朝の報道では自民党の中川幹事長が「政治的立場の違いがあるからと言って、暴力に訴えるのは言語道断」とコメントしていた。やっぱり何か裏があるのか?最新の報道では、容疑者は本島等前長崎市長を脅迫した前科もあると言う。”個人的な恨み”以上の何かが、容疑者の凶行の動機になっていると思えて仕方がない。

 ついさっきまで精力的に遊説していた人が、元気に動き回っていた人が一瞬の攻撃で命を絶たれてしまう。やりきれない悔しさと憤りを感じる。離れた距離から不意打ちを狙って攻撃が可能な銃。人の命を何と軽く扱い、何と容易く奪う武器なのだろう。折しも前日には米国南部の大学で米国史上最悪の銃乱射事件が起きたばかりである。

 言うまでもなく日本は米国(2億8000丁もの銃が存在する銃社会!)と違って銃所持は非合法で、誰もが所持しているものではない(それでも一説には闇ルートで8万丁の銃が日本国内に流入しているとも)。そして非合法であるが故に、それを所持しているのは治安維持を司る警察などを除けば”ならず者”たちである。”ならず者”と”卑怯な武器”が合わさることによって起こる許し難い事件。人間に悪意が存在する限り、治安組織がどんなにガードを固めても、その監視の目をくぐって銃は国内に入り込んでくる。そして事件が起きてしまう。

 しかしひるんではならないのだ。諦めてはいけないのだ。日本をけっして銃社会にしてはならないのだ。1543年、種子島に鉄砲(火縄銃)が伝来した。以来、戦乱の世を経ても、日本は銃社会にはなっていない。これは奇跡とも言える。この奇跡は、日本が日本であり続けるために守り抜かねばならない。止まらない日本の米国化の中でも、銃社会化だけは絶対に阻止しなければならない(何でもかんでも無批判に、なし崩しに受け入れることが問題。今さら”米国的なもの”を有り難がる時代でもないだろう。もちろん良いところは見習うべきだろうが)
 
 自らの主張を暴力で訴えるのは、自らの思考停止をさらけ出しているようなものだ。人間が考えることを止め、対話による問題解決を放棄するのは、人間を辞めることに等しい。自らの存在を知らしめる為なのか、事件の当日テレビ朝日に届いた容疑者からの手紙には、「自分の行動の責任は取るつもりだ」と記してあったと言う。容疑者の死を以てしても贖えないほどにその犯した罪は重いのに、どうやって責任を取るというのだ!

 最後に、核廃絶の志半ばに凶弾に倒れた伊藤一長市長のご冥福を心から祈るものである。

【追記】
「行政対象暴力」
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