先日、「ぼくらの時代」と言うトーク番組の過去5年間の総集編を見た。そこで最も印象に残ったのは、詩人谷川俊太郎の言葉。
「ぼくは母親に120%愛された自信がある。そこまで愛されると、自分は生きてていいんだと叩き込まれた感じ。(人生で)何かあっても回復できる。母親に溺愛されたことで、生きる力を貰ったんだと思う。」
これは、母親の無償の愛情が、谷川氏の自尊心を育んだと言うことなのだろう。
このところ、麻薬に似た幻覚症状を起こすと言われる「脱法ハーブ」を吸引して体調を崩し、救急搬送されるケースが増えていると聞く。
痛みや吐き気が大の苦手な私からすれば、なぜ、そのようなイカガワシイものを、何の警戒心もなしに安易に自分の身体に取り込むのか、理解に苦しむ。
タトゥーもそうだが、親から貰った身体を、なぜ、自ら好きこのんで痛め付けようとするのだろう?
確かに母親の胎内から産み落とされた時点で、子供の身体はひとつの独立した個体だが、血を分けた親子の繋がりと言う点では、子供の身体は子供自身のものであっても、子供自身だけのものではないはずだ。
これはもしかして、親の我が子に対する誤った愛情(←たぶん、これにしても親には悪意はなくて、親自身が人間的に未熟であったり、愛情と所有欲をはき違えて自分と我が子を同一視してしまうが故に、親子間で起きてしまう齟齬なのではないか?)、もしくはネグレクト(←これはこれで、親自身と言うより、もっと遡る親子関係の根深い問題が潜んでいるような気がする。愛情を知らない人が親になることの難しさみたいなものを感じる。ただし、親自身の強い意志で、その負の連鎖を絶つこともできると思うんだよね)に対する(無自覚な?)子供なりの復讐なのだろうか?もしそうだとしたら、自分自身を痛め付けることで充たされる心って、何だか哀しくて切ない。
脱法ハーブで思い出した光景がある。3年前のLA旅行で、リトルトーキョーに行った時のことだ。LAのダウンタウンでも、例によって暑い中を自分の足で散々歩き回り、喉が渇いたので、ペットボトルのお茶でも買おうと目についたコンビニに入った。LAのダウンタウンには至る所に「ファミマ」があり、そこでは日本でお馴染みの伊藤園の「おーいお茶」も買える。
何気なく入ったコンビニには確かに「おーいお茶」があったが、それ以上に目についたのが、レジカウンターの背後の棚だ。そこには「タバコ」ではなく、ひところ日本でも問題になった「マジック・マッシュルーム」をはじめとした、ワタクシ的にはいかにもアウトなモノたちが陳列されていた。レジには店主と思しき小柄な老婆。しかし、顔立ちからしてアジア系だが、日系には見えない。
そう言えば、「リトルトーキョーに元いた日系人の多くは郊外に転出して、今や中国系や韓国系の姿が目立つほど」と日本人ガイドが言っていたっけ。ホテル近くのメーシーズ内の飲食店街でも、およそ日本の弁当とは似つかわしくない、一向に食欲をそそられない色合いの「BENTO」を売っていたのは、その顔付き、しゃべりから韓国系の女性だった。ホテル近くの「ファミマ」で買ったおにぎりも、ヒスパニック系の名前の食品工場製だった。
日本のコンビニとは違って心なしか薄暗く、清潔とも言い難い店内で怪しげな存在感を放つその棚の商品に、夫も私も内心ギョッとし、結局何も買わずに店を出た。
店の外には、明らかに短期旅行者とは違う、いかにも崩れた感じの日本人の若者が3人立っていた。語学留学か何かで来て、そのまま居着いたのか?ボサボサの髪に生気を失った表情、だらしない身なりのその3人の若者は、かったるそうに喋っていた。LAで日本人同士でつるんで、しかも、いかがわしい店の前で、何してんねん?
LAはNYに比べたら旅費も安く、より気軽に行ける雰囲気だ。あの陽光眩しい突き抜けた青空も魅力的で、若者を惹きつけて止まないだろう。そこに、チャレンジャーな若者の好奇心をそそるような怪しげな、しかし明らかに違法とも言えないモノがあれば、旅の開放感も手伝って、手を出してしまうこともあるのかもしれない。そこで覚えた味が忘れられず日本でも、と言うケースも多々あるのではないか?
しかし、このテの冒険は、人生の糧にはなりそうもないね。命を懸けるに値しない冒険だと思う。人生には経験するに値するものと、そうでないものがあるはずで、自尊心のある人間は、その都度、正しい選択ができるはずだ。なぜなら、自分を粗末にすることは、最も親不幸なことだと知っているから。仮に若気の至りで1度や2度の失敗はあったとしても、それを繰り返したりはしないはずだ。
そう考えると、親が我が子に対して愛情を幾ら注いでも、「注ぎすぎる」と言うことはけっしてないのだなと思う。自分の元に生まれて来てくれた我が子には出来得る限りの愛情を注ぎ、我が子の将来的な自立に向けて責任を持って育てるのが、親としての務めと言えるだろうか。
「ぼくは母親に120%愛された自信がある。そこまで愛されると、自分は生きてていいんだと叩き込まれた感じ。(人生で)何かあっても回復できる。母親に溺愛されたことで、生きる力を貰ったんだと思う。」
これは、母親の無償の愛情が、谷川氏の自尊心を育んだと言うことなのだろう。
このところ、麻薬に似た幻覚症状を起こすと言われる「脱法ハーブ」を吸引して体調を崩し、救急搬送されるケースが増えていると聞く。
痛みや吐き気が大の苦手な私からすれば、なぜ、そのようなイカガワシイものを、何の警戒心もなしに安易に自分の身体に取り込むのか、理解に苦しむ。
タトゥーもそうだが、親から貰った身体を、なぜ、自ら好きこのんで痛め付けようとするのだろう?
確かに母親の胎内から産み落とされた時点で、子供の身体はひとつの独立した個体だが、血を分けた親子の繋がりと言う点では、子供の身体は子供自身のものであっても、子供自身だけのものではないはずだ。
これはもしかして、親の我が子に対する誤った愛情(←たぶん、これにしても親には悪意はなくて、親自身が人間的に未熟であったり、愛情と所有欲をはき違えて自分と我が子を同一視してしまうが故に、親子間で起きてしまう齟齬なのではないか?)、もしくはネグレクト(←これはこれで、親自身と言うより、もっと遡る親子関係の根深い問題が潜んでいるような気がする。愛情を知らない人が親になることの難しさみたいなものを感じる。ただし、親自身の強い意志で、その負の連鎖を絶つこともできると思うんだよね)に対する(無自覚な?)子供なりの復讐なのだろうか?もしそうだとしたら、自分自身を痛め付けることで充たされる心って、何だか哀しくて切ない。
脱法ハーブで思い出した光景がある。3年前のLA旅行で、リトルトーキョーに行った時のことだ。LAのダウンタウンでも、例によって暑い中を自分の足で散々歩き回り、喉が渇いたので、ペットボトルのお茶でも買おうと目についたコンビニに入った。LAのダウンタウンには至る所に「ファミマ」があり、そこでは日本でお馴染みの伊藤園の「おーいお茶」も買える。
何気なく入ったコンビニには確かに「おーいお茶」があったが、それ以上に目についたのが、レジカウンターの背後の棚だ。そこには「タバコ」ではなく、ひところ日本でも問題になった「マジック・マッシュルーム」をはじめとした、ワタクシ的にはいかにもアウトなモノたちが陳列されていた。レジには店主と思しき小柄な老婆。しかし、顔立ちからしてアジア系だが、日系には見えない。
そう言えば、「リトルトーキョーに元いた日系人の多くは郊外に転出して、今や中国系や韓国系の姿が目立つほど」と日本人ガイドが言っていたっけ。ホテル近くのメーシーズ内の飲食店街でも、およそ日本の弁当とは似つかわしくない、一向に食欲をそそられない色合いの「BENTO」を売っていたのは、その顔付き、しゃべりから韓国系の女性だった。ホテル近くの「ファミマ」で買ったおにぎりも、ヒスパニック系の名前の食品工場製だった。
日本のコンビニとは違って心なしか薄暗く、清潔とも言い難い店内で怪しげな存在感を放つその棚の商品に、夫も私も内心ギョッとし、結局何も買わずに店を出た。
店の外には、明らかに短期旅行者とは違う、いかにも崩れた感じの日本人の若者が3人立っていた。語学留学か何かで来て、そのまま居着いたのか?ボサボサの髪に生気を失った表情、だらしない身なりのその3人の若者は、かったるそうに喋っていた。LAで日本人同士でつるんで、しかも、いかがわしい店の前で、何してんねん?
LAはNYに比べたら旅費も安く、より気軽に行ける雰囲気だ。あの陽光眩しい突き抜けた青空も魅力的で、若者を惹きつけて止まないだろう。そこに、チャレンジャーな若者の好奇心をそそるような怪しげな、しかし明らかに違法とも言えないモノがあれば、旅の開放感も手伝って、手を出してしまうこともあるのかもしれない。そこで覚えた味が忘れられず日本でも、と言うケースも多々あるのではないか?
しかし、このテの冒険は、人生の糧にはなりそうもないね。命を懸けるに値しない冒険だと思う。人生には経験するに値するものと、そうでないものがあるはずで、自尊心のある人間は、その都度、正しい選択ができるはずだ。なぜなら、自分を粗末にすることは、最も親不幸なことだと知っているから。仮に若気の至りで1度や2度の失敗はあったとしても、それを繰り返したりはしないはずだ。
そう考えると、親が我が子に対して愛情を幾ら注いでも、「注ぎすぎる」と言うことはけっしてないのだなと思う。自分の元に生まれて来てくれた我が子には出来得る限りの愛情を注ぎ、我が子の将来的な自立に向けて責任を持って育てるのが、親としての務めと言えるだろうか。