はなこのアンテナ@無知の知

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財)河鍋暁斎記念美術館に行って来ました(1)

2011年02月11日 | 文化・芸術(展覧会&講演会)

住宅街の中にある河鍋暁斎記念美術館、外観
 先日、美術館ボランティア・スタッフ有志で、埼玉県蕨市(最寄り駅:JR西川口駅)にある(財)河鍋暁斎記念美術館(カワナベ・キョウサイ・キネンビジュツカン)に、行って来た。

 河鍋暁斎記念美術館は、JR西川口駅西口を出て徒歩15分の、住宅街の中に慎ましやかに佇んでいる、白亜の三階建てだ(展示室は1階のみ。写真には写っていないが、建物左側にはミュージアム・ショップがある。アクセス方法は冒頭の美術館名をクリックして、美術館公式HPをご覧下さい)

 今回の訪問はボランティア・スタッフMさんの発案で実現したもの。美術館では、Mさんご夫妻と旧知の仲であられる元日本フェノロサ学会会長で河鍋暁斎研究家の山口静一先生と、河鍋暁斎記念美術館学芸員の方に懇切丁寧な解説をいただき、大変勉強になった。この場を借りて、御礼を申し上げたい。ありがとうございました。

 河鍋暁斎は幕末から明治前半にかけて活躍した画家で、生前は特に庶民の間で人気を博し、それこそ多彩な作品を遺しているのだが、特に第二次世界大戦以降、久しく世間から忘れ去られた画家であった。

 そこで暁斎の画業を顕彰し、その一門の活動を広く知らしめたいとの思いで、暁斎の曾孫に当たる河鍋楠美氏が、当初は河鍋家に伝わる画稿、下絵類をコレクションの核に、1977年11月に自宅を改装して開館させたのが、河鍋暁斎記念美術館なのである。その後、徐々に肉筆画のコレクションも加え、1986年には財団法人の認可を受けている。こぢんまりとした美術館だが、館長以下スタッフの暁斎への真摯な思いが、鑑賞者の心に響いて来るような美術館である。

 河鍋暁斎は幼い頃から周囲を驚かす画才を発揮したらしく、3歳にして蛙の絵を描き、7歳から約2年間、浮世絵師、歌川国芳に学んだ後は、10歳から狩野派の絵師、前村洞和、狩野洞白陳信に師事し、19歳の時に「洞郁陳之(トウイクノリユキ)」の画号を得て、その修行を終えている。8歳の時には、川上から流れて来た生首を引き上げて、夢中になって写生したと言うエピソードも伝えられる、なかなかの強者である(笑)(今回、後年暁斎が描いたと言う、その時の場面を描いた絵をスライドで見せていただいた)

 当初は自らを狂斎と名乗ったようだが、これはどうも生涯を画業に捧げ、偉大な足跡を残した葛飾北斎を私淑してのことらしい。北斎は生涯に30回も画号を変えたと言われているが、そのひとつに「画人」がある。まさに自らを北斎になぞらえて、画家として生涯を生きようとの、暁斎の決意の表れのような気がする。後に「暁斎」と画号を変えた時も、読み方は「きょうさい」に拘っている。因みに正式には惺々暁斎(セイセイ・キョウサイ)と名乗ったようだが、名前の「惺」と「暁」は、共に「悟る」と言う意味があるそうだ。

 訪問時の展示作品は、初春に因んでテーマを「初春めでた尽くし」とし、今年の干支の兎や七福神を描いた十数点であったが(2月25日(金)まで)、2カ月毎にテーマを設定して展示替えを行い、暁斎のひとつの枠に収まらない多彩な画業を紹介されているようだ。画像は『新富座妖怪引幕』(部分) 

 因みに、昨年9~10月にかけては、「暁斎一門の描く妖しき世界~幽霊図、妖怪画」展であったらしい。昨年、NHK朝の連続ドラマで話題となった水木しげる氏も、かつて暁斎の妖怪図を参考にしたと伝えられる程、その描写は真に迫るものであると同時に、どこかユーモアを湛えたもののようだ。

 とにかく、暁斎の画才には驚嘆すべきものがある。注文があれば、ジャンルを問わずに何でも描いたようである。精緻な仏画、目の覚めるような美人画、愛らしい動物画、「目を背けたくなるような残酷場面」「笑いを誘う風刺画」と、なんでもござれのサービスぶり。そして、その何れもが巧みな筆致で魅せる。彼が画家として独り立ちしたのは"幕末"と言う時代の変わり目。最早、武家社会を後ろ盾とした狩野派絵師として生きることが難しかった時代背景が、彼を変幻自在な画家に仕立て上げたのかもしれない。

 



  



【作品タイトル、左上より】
「観世音菩薩図(部分)」「大和美人図屏風」「閻魔大王浄玻璃鏡図」
「達磨図」(河鍋暁斎の肖像写真)「美人観蛙戯図」

※筆者注:上掲の作品は何れも河鍋暁斎記念美術館所蔵ではありません

 ひとりの画家の1本の腕から生み出されたとは思えない、それぞれの作品の多様な持ち味。並べて見れば、一目瞭然である。まさに「狩野派、浮世絵に限らず、伝統的な土佐・住吉派、円山四条派、琳派、文人画、中国画、西洋人体図等々、学べるもの全てを嚢中した暁斎だからこその画業であった」(←「」内リーフレットより抜粋)

 一度は風刺画で咎めを受け入牢するも(不敬罪?思想犯と同等の扱いを受けたらしい)、彼の才能は誰もが認めるところであったのは間違いなく、1876年にはフィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品し、1881年には第二回内国勧業博覧会で「枯木寒鴉図」(右画像)が最高賞を獲得している。期を同じくして、欧州圏の人々とも交流を深め、彼の作品は欧州でも知られることとなった。

 にも関わらず、彼がいつしか忘れ去られた存在になったのはなぜか?前述の山口先生は以下のように推察する。「暁斎は当時の明治政府、文明開化を嗤うことで、旧幕臣を中心に人気を得た。しかし、時が経ち、文明開化世代が社会の中心となった時代には、そうした暁斎の作風が、古くてつまらないものと厭われたのではないか?」

 つまりは"流行作家"としての宿命であろうか。江戸の浮世絵がそうであったように、その時代の風俗や思潮をテーマとした作品は、その本質的価値に関係なく、"同時代性"にまず価値が見い出される。まさに"旬"だからこそ、もてはやされる。そして、それは"次々と生み出され"、"消費されるもの"でもあるのだ。だからこそ、その存在はいつしか軽んじられ、"浮世絵"も海外向け輸出製品である陶磁器の"包み紙"として使われたりしたのだろう。

 しかし、暁斎もまた"浮世絵"と同様に、その価値が改めて海外の人間によって見い出され、"復権"することになるのだ。
 
つづく



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