はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

2月の雑感

2011年02月04日 | はなこのMEMO
この10日間に、ちょっと感じたことあれこれ…

■アジアカップで決勝ゴールを決めた李忠成選手を巡る報道

アジアカップはカメルーン戦辺りから見始めて、すっかり嵌ってしまい(笑)、スポーツ観戦嫌いの夫が出張で不在なことを幸いとばかりに、深夜に一人で見ていた。

日本-オーストラリア両者共に、なかなか点の入らない決勝戦。延長戦での、長友選手の弾丸クロスから、李選手の鮮やかなボレーシュートで1点入った時には、思わず手を叩いて喜んでしまった。どんなスポーツであれ、個人競技なら選手の国籍に関係なく選手を応援できるのに、国別対抗戦になると、なぜかナショナリスト?になってしまう私。スポーツって、どうしてこうも血潮を熱くたぎらせるoniんだろうね?

そんでもって、決勝ゴールを決めた李選手が元在日韓国人四世で、代表選手としての要件を満たす為に帰化申請をして日本国籍を取得した人と言うことで、何やら話題になっているようだ(った?)

李選手は日本生まれ日本育ちで、小学校までは朝鮮学校に通い、中学からは日本の公立中学、高校で学んだ人である。一度は韓国代表を目指したようだが、夢叶わず、今回日本代表として、アジアカップ出場を果たした。

そもそも人は誰も出自を選べないんだよね。そして、出自や、自分を取り巻く環境に否応なく影響される。

李選手も日本生まれ日本育ちとは言え、そのルーツの誇りは、曾祖父から連綿と受け継がれて来たに違いない。出自の違いゆえに、何かと移住先の社会との摩擦が絶えない移民にとって、それは当たり前のこと。自分のアイデンティティ、尊厳に関わることだから、建前はどうであれ、自らのルーツに誇りを持たずして、人が生きることなど困難だ。李選手が一見して、その出自がわかる名前で通しているのも、その思いの顕れなんだろう。

かつての移民は、祖国で不遇をかこつ人々が、他国に新天地を求めたケースが多かった。つまり祖国には戻るに戻れない事情を抱えた人々が、まさに背水の陣で移住先へと赴いたのである。北米、中南米の日系移民も、その殆どが、そうだったのではないか?祖国を愛しつつも、移住先の国にできるだけ早く馴染みたい。その国の国民になりたい。その葛藤に苦しむ移民の心の支えは、やはり出自の誇りだったのだと思う。

だから、誰にも出自の誇りを否定される言われはないのである。しかし、同時に自分を育んでくれた第2の祖国への感謝も忘れないで欲しい。そうして、2つの祖国を持つ人間として、堂々と生きて行けば良いのではないか(これは混血の人にも言えることだと思う)

先年のノーベル賞受賞者の南部氏も、既に米国に帰化した米国籍だったにも関わらず、日本では「日本人の受賞」と喜んだ。韓国でもこの度の李選手の活躍を「我が同胞の活躍」と讃えているようだ。在日韓国人は日本でも韓国でも差別の対象と聞いたことがあるが、だからこそ余計に、自分の出自を意識せざるを得ない部分があるのだろう。そして差別される悔しさが、さまざまな活動の原動力にもなっているのかもしれない。世間の一部に未だ残る差別意識は、自身の「活躍(移住先の社会への貢献)」で跳ね返したら良いのだ。活躍(貢献)すれば、差別する方が社会で嘲笑される。

サッカーに話を戻せば、「ストライカーはエゴイストでなければ大成しない」とも聞いた。人に「何だ、コイツ!」と思わせる位の強気の発言、自らを鼓舞するような自賛の発言ができるような、負けん気の強さは、ストライカーに必要な気質なのだろう。その意味では、李選手は正しくストライカー向きの性格なのかもしれない。


■何やら世間(実はマスコミだけ?)が騒がしいが…

私は「斎藤佑樹」も「韓国産アイドル」も「大相撲」も興味ない。

まだプロとして活躍もしていない選手に、未知数の期待だけで熱狂する人の気が知れない。マスコミが煽るのも不快。

昨年はマスコミで「K-POPブーム」と盛んに喧伝していたが、どこでそんなブームが起きていたの?少なくとも私の周囲には、韓国産アイドルに夢中になっている人は皆無だ。どういった人々が彼ら、彼女達のファンなの?毎日、ワイドショーならともかく?、朝夕のニュース番組で逐一取り上げるほど、アイドルと事務所の間に起きたトラブルは価値のあるニュースなの?そんなに多くの日本国民が、韓国産アイドルの動静を気にしているとでも言うの?

もう「大相撲」がどうなろうが、知ったこっちゃない(とは言え、これでも千代の富士が活躍した時代はよく見ていた。大相撲に幻滅したのは若貴ブームの頃からかな?)。「大相撲」を巡る醜聞にはもう飽きた。モンゴルから来て、生真面目に相撲に取り組んでいる白鵬には気の毒だが…タニマチとか言う、庶民には意味不明な支援体制が整った日本の「伝統文化」には、そこに携わる人間をスポイルする土壌があるのだろうか?

もっと報道すべき大事なことがあるのではないか?

その大事なことから、国民の目を逸らそうと必死なように見えるのは、私の気のせいなのか?

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