はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

形も大きさもさまざまな野菜が語るもの

2008年08月08日 | 「食」についての話題
ボランティア仲間のMさんから、時々野菜をいただいている。既に会社を定年退職されたご主人と共に、近所の農家から借り受けた家庭菜園で種や苗から育てておられる無農薬野菜だ。農薬を一切使わないとは、さぞかし手間暇がかかることだろう。雑草をこまめに抜いたり、傷んだ葉や害虫を取り除いたり…その労力を想像しながら、有り難くいただいている。

トマトはそのまま冷やして食したり、キュウリと共に冷やし中華の具にしたり、ざっくり切って薄切りベーコンとコンソメスープの素でサッと煮込んでスープ仕立てで食したり。シシトウガラシはしょうが焼きの最後の残ったタレで絡めてサッと火を通し、付け合わせに。さやいんげんは煮物や、みそ汁の具に。ピーマンは夏野菜カレーの具にと、すべて私たち家族の胃袋に収まった。

家庭菜園の収穫物は選別されることなく、全て人々の手に。だからその形も大きさもさまざまだ。それが、スーパーマーケットや八百屋で販売されている規格揃いの野菜を見慣れている目には、自然のありのままの姿を改めて思い起こさせられ、敬虔な気持ちになる。工業製品と違って、その年の降雨量や日照時間、気温、害虫の発生など、人間のコントロールが及ばない、さまざまな自然の要因に、味も生育の具合も収穫量も大きく左右される。農業ほど、自然の営みの偉大さを思い知らされるものはないのかもしれない。

久しく農業から遠ざかっている大多数の日本人は、案外、この自然の営みの偉大さを忘れてしまっているのではないか。すべては人間によってコントロールできると尊大になってはいないか。個人的には、例えば一部の生殖医療の現状に、人間の不遜さを感じたりする。一方でまた、1人として重複する存在のない人間の個性に、説明のつかない神秘性を感じている。

人智の及ばない領域が、この世界にはまだまだあるのだということを、形も大きさも不揃いの野菜たちに、私は教えられているような気がする。
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