はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

最近、ちょっと気になること

2016年11月28日 | はなこのMEMO
 駅地下のパン屋さんでパンを買っている間、外から子どもの叫び声が響いていた。

 買い物を終えて店を出ると、人が行き交う通路の真ん中で2~3歳位の女の子が床に大の字になって何やら叫んでいた。

 その足元には、女の子に靴を履かせようとしている母親らしき女性がいた。少し離れた場所に、荷物を積んだベビーカーと共に父親らしき男性がぼんやり立っていた。

 店とエスカレーターの間にある通路の幅はそれほど広くない。しかも時間帯は夕方で、多くの人が行き交う通路である。買い物客らは直径2.5m程度を占拠している親子の周りを迂回するようにして、エスカレーターへと向かう形になっていた。

 どうして、この親子は公共空間である通路を占拠して、ふてくされて床に寝転んだ女の子に悠長に靴など履かせてあげているのだろう?

 父親や母親がなだめるなり叱るなりして、この女の子を床から抱き起こすことを、なぜしないのだろう?

 なぜ、母親もしくは父親が我が子をしっかり抱きしめて、その高ぶった神経を少しでも落ち着かせようとしないのだろう?

 せめて通路の真ん中でなく、他の人の歩行の妨げにならない場所へと移動しないのだろうか?

 女の子のわがままぶりより、両親の周りへの配慮の欠片もない思考停止ぶりが気になった(夫婦して、それほどまでに我が子の扱いに途方にくれ、子育てに疲れているのだろうか?)。特に父親の傍観者然とした姿が気になった。なぜ、こうした場面で傍観者としていられるのだ?なぜ父親としてイニシアチブをとらない?


 一部の子どもに見られる"癇癪"や"利かん気"は殆どが一過性のものであり、その多くは親の躾けによって改善されたり、子どもの成長によって自然に解消するものである。

 しかし、稀に器質的なものもある。それでも専門家のもとで適切な療育を受ければ、程度にもよるが自分の感情をコントロールする術を学び、社会の中で身内以外の誰かとも良好な関係を結ぶことで、生きづらさを軽減して生きて行けるようになると言う。

 だから、件の子どもを疎ましくは思わない。問題は両親の子どもへの向き合い方だ。

 育て方が難しい子どもであっても、その子が将来自立して社会で生きて行く為に、親として出来ることが何かあるはずだ。その何かを必死に探すぐらいのことはして欲しい。それは、子どもをこの世に送り出した者として果たすべき責任でもある。

 その意味で、子育ては母親任せにせず、父親も主体的に関わるべきだ。そして自分達だけで子育ての悩みが解消できないのならば、遠慮せず、体面など気にせずに誰かに助けを求めるべきだろう。

 近年は核家族化の進展で、親も孤立しがちだ。だからこそ行政や医療機関が協力して子育てに悩む親達を支えるしっかりとした仕組みを構築し、その周知にも力を入れることは大事だし、「社会全体で子どもを育てる」と言う合意形成を図って、私達ひとりひとりもけっして他人事とは思わずに、子育てに何らかの形で継続的に関わって行く必要があるのかもしれない。

 その意味では、件の親子に何か言葉をかけてあげるべきだったかなと、今にして思う。
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