本作は2005〜2009年に南米ボリビアの「メノナイト」✴︎のコミュニティで実際に起きた出来事をもとに書かれた小説(2018年に出版)を映画化。
原作小説に感動した名女優フランシス・マクドーマンドが、企画をブラッド・ビットの映画制作会社プランBに持ち込み、女優兼脚本家として活躍するサラ・ポーリン (『死ぬまでにしたい10のこと』の主演女優)が脚色と監督を務めた。サラ・ポーリンは男性視点で書かれた原作小説を敢えて女性視点に書き換えての脚色で、本年度の米アカデミー賞脚色賞を受賞している。
✴︎映画の公式サイトによれば、「メノナイト」はオランダのカトリック神父メノ・シモンズ(宗教改革時代の人で、後にアナバプテスト<新教の一派>に改宗)が始めたとされる、自給自足を旨とする閉鎖的な宗教コミュニティで、前近代的な集団生活を送り続けるキリスト教徒の一派。現在も世界に150万人いるとされる。
ボリビアのメノナイトの99%はカナダ出身のキリスト教徒(全員白人)で、近代社会を受容できず、カナダから米国、メキシコを経てボリビアへと行き着いたらしい。
1985年制作・公開の『刑事ジョン・ブック 目撃者』も、閉鎖的な「アーミッシュ」と呼ばれるキリスト教徒のコミュニティを舞台に描かれた作品だ。
一見して類似する「メノナイト」と「アーミッシュ」の違い、さらには「アーミッシュ」「メノナイト」それぞれの現状についても、ネットで調べた限りでは書き手によって解説内容が微妙に異なるので、ここでは明確に述べることは出来ない。
おそらく源流は同じだとしても、住む国、地域によって、長い歳月を経て、それぞれのコミュニティが独自の文化を創り上げて来たのだろう。
現時点で確実に言えるのは、どちらも傍目には「宗教の教義の下で、文明社会から距離を置いて生活する、閉鎖的なコミュニティ」であること。
原作小説、映画共に、時代設定は2010年となっているが、終始一貫、21世紀に起きた出来事とは信じ難いエピソードの連続である。
自給自足で生活するキリスト教一派の村で起きた連続レイプ事件。それまでは「悪魔の仕業」「作り話」であると男性たちに言いくるめられた来たが、ある日、それが実際に犯罪だったことが明らかになる(つまり、未婚女性から産まれた父親不明の子どもも少なからずいるわけだ)。
それが判明した今、女性たちは勇気を持って立ち上がり、男性たちが街に出かけて不在の2日間に、代表を選んで今後のことについて話し合うことにする。
現状維持か、男たちを裁くか、それとも村を出て行くか…
驚くことに、この村では「学校」と言う教育施設はあるにはあるのだが、女性たちには教育の機会が与えられず、全員文盲である。彼女たちは「文字」を知らないから、概念の説明も意思確認も、「口承」か「イラスト」や「記号」を用いる。
それでいて、代表で話し合う女性たちは理知的で、意外に言語表現も豊かだ。これは教会で幼いころから口承で学んで来た「聖書」の賜物であろう(さらに聡明な母親に育てられた娘は聡明である)。
ただし、「文字」を読めないから、聖書の内容は男たちの都合の良いように端折られ、教義も捻じ曲げられている可能性は高い。
ここで思い出すのはアフガニスタンのタリバンの所業だ。タリバンは元々イスラム教の経典コーランを学ぶ神学生の一派だった。それが権力を握った途端、徹底的に女性を社会の表舞台から排除するようになる。今ではテレビ局の女性アナウンサーは失職し、女性は学校で学ぶことすら許されない。「不義密通」と言う時代錯誤な罪状で、女性のみが公開石打ちの刑で嬲り殺されたりする。
結局、権力を握った者は知っているのだ。「教育」の力を。教育によって人間が覚醒することを。覚醒した人間は権力に歯向かうことを。
いつだったか、貧しいアフリカのある国は、国家予算の実に80%を教育予算に充てると言う話を聞いた。「教育」は国民を、ひいては国を豊かにする手段でもあるのだ。そのことを理解する賢者が、その国にはいたのだろう。
件(くだん)のボリビアのコミュニティが二重に愚かなのは、子どもの主な教育の担い手は女性であると言う視点が抜け落ちていることだ。女性の教育を疎かにするコミュニティや国家に未来の発展は望めない。尤も、彼らは元よりコミュニティの発展など望んでいないのだろうけれど。
翻って、我が国の近隣諸国は些か加熱ぎみなほど、我が国以上に教育熱心である。特に言論の締め付けが厳しい彼の国は、教育によって覚醒し、自国以外の「世界」を知ってしまった国民を、今後もイデオロギーによって縛り続けることができるのだろうか?
我が国は我が国で、国家予算に占める教育予算の割合はOECD加盟国の中でも韓国と並んで最下位近くに甘んじている。文部科学省も省庁間のパワーバランスの中では脆弱だ。
このことは何を意味するのか?結局、権力者にとって、国民が賢くなるのは不都合と言うことなのだろう。「衆愚で結構」と言う高笑いが、どこからか聞こえてきそうである。彼らは自分達の地位さえ安泰であれば、国家が衰退しようが構わないようだ。
以上、本作は「女性の尊厳」を巡る特異な物語を描きながら、それだけに留まらない示唆に富んだ作品であった。
(了)