はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

世界に明日はあるのか?『トゥモロー・ワールド』

2006年12月06日 | 映画(2005-06年公開)
”トゥモロ”ーとは即ち”子供”のことを意味するのだろう。
子供のいない世界に”明日”、ひいては”未来”はないのだから。

今からそう遠くない未来の時代設定で、
子供が誕生しなくなった世界を描く本作。
”未来”が絶たれたその世界はやはり殺伐として、荒廃して、
希望を失った人々はもはや生気を失っている。
今や世界人口は60億を超えて、
なお開発途上国では増加の一途を辿ってはいるが、
日本など一部の先進国では少子化が叫ばれ、
将来的な労働人口の不足、
それがもたらす社会保障制度の崩壊が問題となっている。
そうした国々では、”未来”の喪失が現実的視野の中にある。

かつてはニューファミリーの住処として
もてはやされた大規模団地。
団地内には児童公園も完備され、
賑やかな子供達の声がここそこで聞かれた。
若い夫婦の間に次々と赤ちゃんも生まれ、
子供達の成長に合わせて学校が作られた。
それが20年も経つと殆どの子供は成人し、
団地から巣立って行く。
更に建設から30年、40年が経つと、
老朽化した団地には若い夫婦は寄りつかず、
団地住民の高齢化が一気に進む。
団地内の公園からは子供達の姿が消え、
騒がしいほどだった子供達の声も消え、
学校は閉校。
団地内は静まりかえって、地域の活力さえ失われた。
こうした状況が今や日本の至るところで現実化している。
少子化とは、それが社会全体に及ぶこと…

そう言えば、先日電車の中で神経過敏なまでに、
バギーの乳児?(アーウアーウと言葉にならない言葉だった)に
「○○ちゃん、電車では静かにしようね」と訴えている
若いお母さんを見かけた。すぐ側にいた私は、
その赤ちゃんが楽しげに母親に話しかけている様子を
ほほえましく感じていたので、母親の神経質さが痛々しく思えた。
もし誰かが赤ちゃんや子供の声を耳障りと言うのなら、
想像してみたらいいのだ。子供の声が一切聞こえて来ない世界を。
「そこまで気を遣わなくても良いですよ」と声をかけようとしたら
祖母らしき人が登場したので、私は出かかった声を引っ込めた。

政府は国家体制の維持という視点からしか少子化を見ていない。
しかし最も憂慮すべきは、少子化によって社会が
”未来”を喪失することである。
未来のない社会に希望はない。展望も描けない。
かくして人々は刹那的になり、人心が荒廃する。

我が国では、何が原因でかくも少子化が進行してしまったのか?
若年層の経済的な問題、女性の社会進出に伴う高齢出産の増加、
そして不妊など、いろいろ理由が取りざたされているが、
どれも決定的な理由とは思えないし、
それらが合わさった複合的な問題であるのかもしれない。
或いは産む性である女性の意識の変化や未来への漠たる不安が、
子供を産むことを躊躇させているのか?
明日命を失うとも知れぬ戦時下でさえ、
女性は子を産むことを止めなかったのに、なぜ?

本作では、待望久しい幼子の誕生(誕生シーンは感動的!)に、
畏敬の眼差しで恐る恐る近付く人々の姿が印象的だった。
人々はその幼子の姿に一瞬でも「未来」を想い、
希望を見出したのだろうか?

しかし、その構図には幼子イエス・キリストを礼拝する
東方三博士の礼拝の図像が重なり、未来図を描くにも
「キリスト教」的価値観の縛りから逃れられない
西洋文化の硬直性を感じずにはいられなかったのも事実。
(実はそうした硬直性が、他文化との軋轢を生み出す要因に
なっているのではないか?なんて思ったり)。
強いて言えば、近未来の”聖母マリア”像に新しさを感じた。

キャスティングには満足!
写真はクライブ・オーウェンとジュリアン・ムーア


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