はなこのアンテナ@無知の知

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体罰考

2013年01月14日 | 日々のよしなしごと
最近、大阪の公立高校のバスケットボール部の主将が体罰を苦に自殺したことが、ニュースで大きく取り上げられた。

マスメディアではそれをきっかけに、教育現場における体罰の是非が議論されている。

ここで考慮すべきは、「教育現場における体罰」とひとくちに言っても、学校と言うコミュニティにおけるルール違反に対する体罰と、今回のような体育会系部活での体罰は区別しなければならない、と言うことだろう。

事件の起きた高校はバスケットボールの強豪校として有名らしい。日頃から試合での勝利を目指して、指導する教師も、指導を受ける生徒も、厳しい練習はもちろん、体罰(ここでは身体的暴力だけでなく、言葉による暴力も含む)も当然のこととして考えていたらしい。

一見、指導者と生徒の側でコンセンサスが取れている、生徒やその父兄が納得ずくで厳しい指導を受けているから問題がないように見えるが、果たしてそうだろうか?

生徒の自殺後にとったとされる部員へのアンケートには、「早く(事件のことは忘れて?)、バスケを再開したい」等の、仲間の死を顧慮しない回答が数多くあったと聞く。

つい、先日まで互いに汗して切磋琢磨していた仲間の死は、それほど軽いものだろうか?

勝利至上主義のあまり、生徒達は人生においてそれ以上に大切なものを見失ってはいないか?

教育現場における部活動は、あくまでも教育の一環である。学校とは本来、児童生徒が将来、社会で円滑に生きて行けるよう、基礎的教養と学力と体力を身につけ、他者との意思疎通の術を適切な指導の下に学ぶ場であるはずだ。

そこで多少のトラブルは成長の糧になるのだろうが、自殺を考えねばならないほど児童生徒が追い詰められるとは、どういうことなのか?追い詰められる生徒の心の弱さが悪いとでも言うのか?

命あってのものだね。何より命が大切だ。児童生徒は大人が思う以上に狭い世界で生きている。そこだけが自分の世界の全てだと思いがちだ。だからこそ、自殺を考えるほど苦しむ児童生徒に、社会は、学校は、親は「逃げ場」~一時的に避難する場所を与えるべきだろう。「頑張れ」と励ますだけが親の仕事ではない。その場で歯を食いしばって頑張るだけが解決策でもない。

部活を辞める、学校を替える、学校を辞める。そんな選択肢があっていい。もちろん、そこで落伍者の烙印を押すような学校、社会であってはならない。少なくとも児童生徒は、まだ社会にも出ていない未熟な存在なのだから。辞めて、暫く傷ついた心を癒やした後、児童生徒が再び新たな場で学べる仕組みを、社会は積極的に作るべきだろう。何度でもやり直しの利く社会は、誰にとっても生き易い社会でもあるはずだ。

言うまでもなく、私達が身を置く社会は、生まれた命を心から慈しみ、大切に育む社会でありたいものだ。
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