はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

幸福観は人それぞれ、だから人は生きて行ける

2007年10月02日 | 日々のよしなしごと


 2006年WHO調べで、日本女性の平均寿命は86歳で単独世界一だそうである。それからすると、私はもう人生の折り返し地点を過ぎたことになる。因みに、厚生労働省大臣官房統計情報部が出している統計資料「平成18年度簡易生命表(女)によれば、私の年齢の平均余命は42.81歳。これまで生きて来た歳月より、残された人生の歳月が少ないことが分かる。まあ、あくまでも統計上の数字だけど。実際、これだけの歳月を果たして自分が生きられるのだろうか?生まれて来た時には既に世の中に溢れ返っていた高添加物、高カロリー、高脂肪の食品を口にして来た自分が、現在の高齢者ほど生きながらえるのかどうか、正直なところ自信がない。同世代の友人達も同様の意見である。このことはさておいても、人生の折り返し地点前後のここ数年は、自分のこれまでの生き方を振り返ったり、現状を省みたり、今後の人生について考えたりすることが多い。

 人生観、幸福観は人それぞれではあるが、私の場合、現状にほぼ満足している。一般的に、人生の成功の指標と言われるような社会的な「地位」も「名誉」も、そして「資産」も持ち合わせていないが、愛する家族に囲まれ、好きなことをして、穏やかな日々を過ごせていることに、この上ない幸せを感じている。自己実現を社会的評価の指標で測ろうと日々努力している人から見れば、私は何の野心もない、つまらない人間に見えるのだろうか?だとしても、私は生きている。日々、多少の起伏はあろうとも、概ね幸福感に充たされて。

 特に私にとっては夫との出会いが、ひとつのターニング・ポイントであったように思う。少なくとも夫と出会う前の私は、あまり幸福ではなかった。人生のバランス・シートで喩えるならば、生まれてから夫に出会うまでずっと赤字続きだった。友人関係には恵まれたが、自分が歩もうとする道には常に越えがたい障害が立ちはだかって、前に進むことができなかった。人より遠回りして、夢?も諦め、現実と折り合いをつけながら生きていた。夫との出会いによって人生が好転するとは、他力本願もいいところかもしれないが、それによって人生をリセットし、常にプラスになるようには努力して来たつもりだ。夫と出会って22年、結婚して20年近くになるが、私達夫婦に倦怠期というものは存在しない。息子がある程度成長したこの頃は、夫婦二人でデートする機会も増えて楽しい。だからこそ、家族の心身の健康には感謝する毎日だ。「元気があれば、人間なんでもできる」と言うアントニオ猪木の言葉を、今しみじみと噛みしめている。

 努力してもどうにもならないことはある。若い頃はそのことに納得できなくて随分と悩んだ。哲学者の中島義通氏も言われるように「運」も味方しないことには叶わないのが夢なのだと思う。自分の努力と才能と同様に、否、それ以上に、どんな時代に生まれたか、どこで生まれたか、どんな家に生まれたかが重要で、それによって受けられる教育、バックアップ、世に出るチャンスは大きく異なって来る。だから、「社会的成功」「職業的成功」を勝ち得た人は常に少数派である。自らの才能だけでのし上がる人間など、ほんのひと握りに過ぎない。職業の世襲化が良い例である。特に難関であれば難関であるほど、その出自が問われている。世の中の大多数の人間は、「社会的成功者」という意味では敗者なのである。「運」に抗って、自分の能力だけを頼みに成功を納めようとすれば、結局無理を重ねることになる。焦って、所謂「危ない橋を渡る」ということになりかねない。それによって「時代の寵児」ともてはやされた人物が、いざ勝負に出た時に、既得権益を守りたい支配層から容赦ない仕打ちを受けて挫折したのを、これまで何度目撃したことか。

 「身の程知らず」という言葉は今も生きている。戦後の高度経済成長で底辺層の底上げが為されたために一見平等化したかに見えたが、実際には過去にも、そして現在も日本社会には身分差が厳然と存在している(実はそのことをボランティアのメンバー間でも感じている)。それが社会的成功を夢見る庶民の前には大きく立ちはだかるものなのだ。その壁に果敢に挑戦するには並外れたパワーが要る。そして常に戦い続けなければならない。社会の活性化にはそういう人の存在も必要だが、そうした生き方はさまざまなことを犠牲にしなければならないのも事実。だからこそ、私のように目の前のささやかな幸福を守り育てることを選択する人が殆どなのだろう。どんな生き方であれ、その人が自ら選択し、自ら納得の行く人生ならば、それは十分幸福な人生だったのだと私は思いたい。たとえ、他人から賞賛されるような社会的成功など納めなくとも。

 ハハハ…こんなこと書くと、”負け犬の遠吠え”って言われるかな。或いは諦観?、諦念?…でも本当にそう思うんだ。最近。時代を覆う空気もそうなんじゃないか?行き着く先が見えるから、自らを叱咤激励することに、大多数の人間は虚しさを感じているんじゃないか?
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