はなこのアンテナ@無知の知

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改めてお勉強:皇室の役割と存在意義

2006年09月08日 | 日々のよしなしごと
【まず、お断り】
呼称に関しては、不正確な箇所があるかもしれません。
 

愛子さまの時もそうだったが、
宮家にお子様が誕生した時の一連の宮中行事は興味深い。
生まれた当日には早速「賜剣の儀」が執り行われ、
天皇陛下から、親王に守り刀が贈られた。
その刀は一旦秋篠宮家に届けられた後、
親王が入院している港区の病院へ届けられ、
生まれたばかりの親王の枕元に置かれたと言う。
そう言った宮中行事の何が興味をそそるかと言えば、
時代に関係なく粛々と伝統に則って行われることだ。
今や日本の庶民の生活は、
東西両方の文化を欲張りに取り入れて、
一年を通して慌ただしい。
神社への初詣に始まって、節分、バレンタイン・デー、
桃の節句、花見、端午の節句、七夕、お盆、月見、
七五三、クリスマス…最近はそれにハロウィンも
加わろうとしている。
毎月のようにある行事・イベントに、
息つく暇もないような忙しさだ。
しかも年中行事によっては年々簡略化され、形骸化している。
例えば”初詣に晴れ着姿”は今では珍しいくらいだ
(その風潮を危惧して、逆にひとつひとつの日本の伝統行事を
大事にしよう、という機運も一部で高まっているようだ)


そういった時代の趨勢に影響されることなく、
宮中の行事は不動の伝統として粛々と執り行われる。
こうした伝統の継承は、皇室の大きな役割のひとつであり、
それは当然のことながら皇統の継続を前提としている。
だからこそ、お世継ぎ問題が何度となく取り沙汰される。

そして、もうひとつ忘れてはならないのが、
国家統合の象徴としての役割。

最近、ジャーナリストの櫻井よしこさんが、
週刊誌に皇室の存在意義を問う一文を寄せた。
「はじける笑顔の雅子妃に複雑な思い
皇室はなんのために存在するのか?」という
なかなか辛辣なタイトルだ。
皇太子ご一家がオランダ訪問の際に、
雅子妃が見せた満面の笑顔を端緒に、
皇室と国民の在り方について、
櫻井さんは以下のような私見を述べている。

「皇室に求めるものが国家統合の権威であるなら、(中略)
国民はまず、権威を真の権威ならしめる尊崇の思いを
心のうちに育てていきたいものだ。
応えて皇室は、ひたすら国民のために祈り、
その祈りを実践なさっていただきたいものだ。
どちらが欠けても皇室の存在意義は失われる。
日本の日本らしさも同様だ。
憂うべきは、その心構えの双方のおける希薄さである。
雅子妃の健康を祈りながらも、妃のはじける笑顔から
皇室の存在理由としての国民のための祈りを読み取ることが
できないのは、残念なことに私一人ではあるまい。」
(『週刊ダイアモンド』2006年9月2日号129P)

櫻井さんが保守派の論客ということを踏まえて読んだとしても、
まあ正論かなと思う。

以下は私の正直な気持ち。反転表示で。
自ら望んで、相手からも望まれての結婚をしてこそ、
人は結婚生活の中で直面するあらゆる問題を
乗り越えて行けるのではないか?
そして、自分らしく生きて行ける環境にあること。

雅子妃が皇室に嫁いで以来、かくも長きに渡る不調に対して、
わずか10日余りのオランダ滞在で快復した心からの笑顔。
雅子妃が日本での皇族としての生活に不適応を起こしているのは、
悲しいかな誰の目にも明らかだ。
不適応要因を排除しない限り、病気が回復するわけがない。
さらに皇族としての責務を果たせないことへの罪悪感で、
雅子妃は二重の意味で苦しんでおられるのかもしれない。

今回の親王ご誕生で仲睦まじいご一家の姿が活写された
秋篠宮家との対照的なお姿は、あまりにも痛々しい。
優秀な女性が長らく病にあって、能力を十分に発揮できないのも
とても残念なことだと思う。

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