人間誰しも、長い人生の中では良い時もあれば、辛い時もあると思う。人によって配分には多少の差はあれど、人生は幸不幸の絶妙なバランスで成立しているのではないか。
自分が今、幸せか不幸かと言うのも個人の感じ方で相対的なものだろう。辛い経験があるからこそ、幸せも感じることができる。一方、あまり起伏のない人生は「穏やか」かもしれないが、それでは「感受性」は磨かれないのかもしれない。
さらに、自分の身に起きることのひとつひとつは、もしかしたら人生のターニングポイントであるかもしれず、その後の人生を好転させるか暗転させるかは、自分の捉え方次第なのかもしれない。
私のブログを読むと、いつも、やれ映画だ、展覧会だ、散歩だ、旅行だと、随分とお気楽な立場だねと思う人がいるかもしれないが、この私にも辛い時期はあった。
今、私は自由気ままに過ごしているが、子ども時代は不自由ばかりだった。がんじがらめだった子ども時代に、良い思い出は殆どない。
子ども時代の1日1日は、大人になってからの1日1日とは、その濃密さや人生における重要度がまるで違うと私は感じているので、今でも自分の子ども時代を思いだすと切ない。
ただ、辛い子ども時代があったからこそ、今の幸せを享受できると思っている。
私は9歳から、結婚して自分の子どもが生まれるまで働き詰めだった。
父が家を購入した直後に病に倒れたり、通院中に交通事故で重傷を負ったりで、母が外に働きに出ることになり(それまでも母は自宅で洋裁の内職をしたり、家を購入するまでは都市部で24時間営業の喫茶店を経営するなどしていた)、9歳の秋から私は自宅1階にある小さな書店兼文房具店の店番をやらされた。毎日学校から帰ると夜の9時10時頃まで店番をし、雑誌の発売日には定期購読しているお得意さんのお宅に配達もしていた。
私の店番は私が中学を卒業するまで〜親が店を畳んで貸店舗にするまで続いた。
加えて私が小4の時に生まれた末妹は両股関節脱臼の状態で生まれ、4年間ギプスで股関節を固定され歩けない状態だったので、空いた時間には妹の世話もしなければならなかった。
だから友達と外で遊びたい盛りに私は思い切り身体を使って遊ぶこともできなかったし、中学の部活動にも参加できなかった。
さらに中学生の時に認知症になった父方の祖父を引き取り、自宅で介護することになったので、自宅療養する父や外で働く母の為、祖父の介護の手伝いもした。多忙な母の負担を減らす為に、晩御飯の用意も一部手伝った。
祖父は引き取ってから2年半後に、自室で就寝中に心筋梗塞で亡くなった。朝、家族が起きた時には既に身体が冷たく、死後硬直も始まっていた。
私は祖父の下の世話が子ども心にも辛かったし(当時は紙おむつもなく、祖父は褌着用だったので、糞尿の片づけが大変だった。もちろん、当時はデイサービスどころか介護ヘルパー制度もなく、家族は休む間もなかった)、私や妹達は「女はどうせ出ていくのだから、孫とは認めない」と祖父からは跡取りである弟とはあからさまに区別され、可愛がられた記憶も全然なかったので、冷たいようだが、祖父が亡くなった時には別れの悲しさよりも、「やっと介護から解放される」とホッとしたのを覚えている。
中学生にして、私はちょっと人生に疲れていた。
そんな私の楽しみと言えば、店番をしながら、小学生の頃にちょっと背伸びして手にした中高生向けの国語辞書がボロボロになるまで語句の意味を調べながら、ローカル新聞を隅から隅まで読んだり、図書館の本を片っ端から借りて読んだり(年に170冊は借りていた)、中学校で昼休みの間図書館に入り浸って、蔵書の「世界の美術館全集」を眺めたりすることだった。
外で遊べない分、外の世界への憧れは強く、店番をしながら読書の合間に日本地図や世界地図を眺めては、図書館所蔵の全集でいつも目にしていた世界の美術館にいつか行きたいと思いを馳せていた。
小学校からの新聞熟読や読書の賜物か、中高時代は文系科目の成績は学年でもトップクラスで、大学進学を希望していたが、父親が「女に学問は不要」と言う考えで進学を許してくれなかったので(祖父の考えそのまま)、高校卒業後一旦就職したのだが(ほぼ強制的に「明日から、この会社で働け」と父に言われて仕方なく働き始めたが、最後まで馴染めなかった)、1年後にはそこを辞め、入学に必要な費用を自身の貯金と母親からの借金で賄い、短大に進学した。
もう父親の命令に従うのにはウンザリしていたので、働きながら秘密裏に進学の計画を進め、入学を強行した。入学後はバイトと奨学金で学費を賄った。短大時代は勉強とバイトと念願の部活(音楽好きの部長主導で聖歌ばかり歌っている聖書研究部(笑))に明け暮れ、慢性的な睡眠不足に悩まされはしたが、充実した日々だった(その間も時々親の代わりに妹弟のPTAに出席したり、弟の不始末の謝罪をしたりもしたが、妹弟達はそのことを覚えていないのが残念だ)。
けっして自分以外の誰かから強制されたものではなく、自分自身で選びとった人生の、なんと楽しいこと!この時に初めて、私は自分の人生を生きていると実感できた。嬉しかった。
友人の中には「(親に対して)自分を生んでくれた恩は忘れるな」と言う人もいて、親がいなければ自分は存在しなかったと言うのはもちろん事実ではあるのだが、親なら我が子を支配下に置こうとせずに、可愛がって欲しかったと言うのが、私の偽らざる気持ちだ。
そもそも戦前ならいざ知らず、高度経済成長期真っ只中の昭和も半ばの頃の話である。私の同級生の殆どは屈託なく子ども時代や青春を謳歌しているように私には見えた。友人のご両親も善良な方々で優しく接して下さるので、彼我の違いになおさら自分が惨めに思えたのを覚えている。
今にして思えば、跡継ぎである長兄を溺愛し(終戦直後の混乱期に、鹿児島の沖合で行方不明になったらしい)、次男である父に冷淡だった祖父の呪縛が、父を今で言うDV親に仕立て上げたのだと思う(祖父もまた、父と同じだったのかもしれない)。私は子どもの頃、長女として精一杯のことをしたつもりだが、中学の時には理不尽な理由で父から傘を投げつけられ、右瞼に9針縫う傷を負っている。
だから、私は不幸な親子関係の連鎖を断ち切るべく、息子には精一杯の愛情を注いだ。彼が夢に向かって進めるよう、私達夫婦が親として与えられる最大限の教育の機会を、息子には与えたつもりだ。
今はお気楽然としている自分でさえそうなのだから、一見誰の目にも恵まれたように見える人にも、実は人には言えない、否、言いたくない辛い過去があったのかもしれないのでは(或は今、悩みを抱えている)と、今の私なら慮ることが出来る。
目の前の現状を見ただけでは、他人の幸不幸なんて推し量れない。大抵の人は誰しも人生に好不調の波があるもの。だから徒に他人と自分を比べて自分の不幸を嘆いたり、他人を羨ましがるのは無意味だと思う。
失敗は成功の(=学びの時)、スランプは飛躍の(=次に向けてのエネルギーの貯め時)、そして不幸は幸福の(=魂の修練の時)、「前段階」で、その時々で得た経験は、人生においてけっして無駄にはならない…と思うことにしている。
自分が今、幸せか不幸かと言うのも個人の感じ方で相対的なものだろう。辛い経験があるからこそ、幸せも感じることができる。一方、あまり起伏のない人生は「穏やか」かもしれないが、それでは「感受性」は磨かれないのかもしれない。
さらに、自分の身に起きることのひとつひとつは、もしかしたら人生のターニングポイントであるかもしれず、その後の人生を好転させるか暗転させるかは、自分の捉え方次第なのかもしれない。
私のブログを読むと、いつも、やれ映画だ、展覧会だ、散歩だ、旅行だと、随分とお気楽な立場だねと思う人がいるかもしれないが、この私にも辛い時期はあった。
今、私は自由気ままに過ごしているが、子ども時代は不自由ばかりだった。がんじがらめだった子ども時代に、良い思い出は殆どない。
子ども時代の1日1日は、大人になってからの1日1日とは、その濃密さや人生における重要度がまるで違うと私は感じているので、今でも自分の子ども時代を思いだすと切ない。
ただ、辛い子ども時代があったからこそ、今の幸せを享受できると思っている。
私は9歳から、結婚して自分の子どもが生まれるまで働き詰めだった。
父が家を購入した直後に病に倒れたり、通院中に交通事故で重傷を負ったりで、母が外に働きに出ることになり(それまでも母は自宅で洋裁の内職をしたり、家を購入するまでは都市部で24時間営業の喫茶店を経営するなどしていた)、9歳の秋から私は自宅1階にある小さな書店兼文房具店の店番をやらされた。毎日学校から帰ると夜の9時10時頃まで店番をし、雑誌の発売日には定期購読しているお得意さんのお宅に配達もしていた。
私の店番は私が中学を卒業するまで〜親が店を畳んで貸店舗にするまで続いた。
加えて私が小4の時に生まれた末妹は両股関節脱臼の状態で生まれ、4年間ギプスで股関節を固定され歩けない状態だったので、空いた時間には妹の世話もしなければならなかった。
だから友達と外で遊びたい盛りに私は思い切り身体を使って遊ぶこともできなかったし、中学の部活動にも参加できなかった。
さらに中学生の時に認知症になった父方の祖父を引き取り、自宅で介護することになったので、自宅療養する父や外で働く母の為、祖父の介護の手伝いもした。多忙な母の負担を減らす為に、晩御飯の用意も一部手伝った。
祖父は引き取ってから2年半後に、自室で就寝中に心筋梗塞で亡くなった。朝、家族が起きた時には既に身体が冷たく、死後硬直も始まっていた。
私は祖父の下の世話が子ども心にも辛かったし(当時は紙おむつもなく、祖父は褌着用だったので、糞尿の片づけが大変だった。もちろん、当時はデイサービスどころか介護ヘルパー制度もなく、家族は休む間もなかった)、私や妹達は「女はどうせ出ていくのだから、孫とは認めない」と祖父からは跡取りである弟とはあからさまに区別され、可愛がられた記憶も全然なかったので、冷たいようだが、祖父が亡くなった時には別れの悲しさよりも、「やっと介護から解放される」とホッとしたのを覚えている。
中学生にして、私はちょっと人生に疲れていた。
そんな私の楽しみと言えば、店番をしながら、小学生の頃にちょっと背伸びして手にした中高生向けの国語辞書がボロボロになるまで語句の意味を調べながら、ローカル新聞を隅から隅まで読んだり、図書館の本を片っ端から借りて読んだり(年に170冊は借りていた)、中学校で昼休みの間図書館に入り浸って、蔵書の「世界の美術館全集」を眺めたりすることだった。
外で遊べない分、外の世界への憧れは強く、店番をしながら読書の合間に日本地図や世界地図を眺めては、図書館所蔵の全集でいつも目にしていた世界の美術館にいつか行きたいと思いを馳せていた。
小学校からの新聞熟読や読書の賜物か、中高時代は文系科目の成績は学年でもトップクラスで、大学進学を希望していたが、父親が「女に学問は不要」と言う考えで進学を許してくれなかったので(祖父の考えそのまま)、高校卒業後一旦就職したのだが(ほぼ強制的に「明日から、この会社で働け」と父に言われて仕方なく働き始めたが、最後まで馴染めなかった)、1年後にはそこを辞め、入学に必要な費用を自身の貯金と母親からの借金で賄い、短大に進学した。
もう父親の命令に従うのにはウンザリしていたので、働きながら秘密裏に進学の計画を進め、入学を強行した。入学後はバイトと奨学金で学費を賄った。短大時代は勉強とバイトと念願の部活(音楽好きの部長主導で聖歌ばかり歌っている聖書研究部(笑))に明け暮れ、慢性的な睡眠不足に悩まされはしたが、充実した日々だった(その間も時々親の代わりに妹弟のPTAに出席したり、弟の不始末の謝罪をしたりもしたが、妹弟達はそのことを覚えていないのが残念だ)。
けっして自分以外の誰かから強制されたものではなく、自分自身で選びとった人生の、なんと楽しいこと!この時に初めて、私は自分の人生を生きていると実感できた。嬉しかった。
友人の中には「(親に対して)自分を生んでくれた恩は忘れるな」と言う人もいて、親がいなければ自分は存在しなかったと言うのはもちろん事実ではあるのだが、親なら我が子を支配下に置こうとせずに、可愛がって欲しかったと言うのが、私の偽らざる気持ちだ。
そもそも戦前ならいざ知らず、高度経済成長期真っ只中の昭和も半ばの頃の話である。私の同級生の殆どは屈託なく子ども時代や青春を謳歌しているように私には見えた。友人のご両親も善良な方々で優しく接して下さるので、彼我の違いになおさら自分が惨めに思えたのを覚えている。
今にして思えば、跡継ぎである長兄を溺愛し(終戦直後の混乱期に、鹿児島の沖合で行方不明になったらしい)、次男である父に冷淡だった祖父の呪縛が、父を今で言うDV親に仕立て上げたのだと思う(祖父もまた、父と同じだったのかもしれない)。私は子どもの頃、長女として精一杯のことをしたつもりだが、中学の時には理不尽な理由で父から傘を投げつけられ、右瞼に9針縫う傷を負っている。
だから、私は不幸な親子関係の連鎖を断ち切るべく、息子には精一杯の愛情を注いだ。彼が夢に向かって進めるよう、私達夫婦が親として与えられる最大限の教育の機会を、息子には与えたつもりだ。
今はお気楽然としている自分でさえそうなのだから、一見誰の目にも恵まれたように見える人にも、実は人には言えない、否、言いたくない辛い過去があったのかもしれないのでは(或は今、悩みを抱えている)と、今の私なら慮ることが出来る。
目の前の現状を見ただけでは、他人の幸不幸なんて推し量れない。大抵の人は誰しも人生に好不調の波があるもの。だから徒に他人と自分を比べて自分の不幸を嘆いたり、他人を羨ましがるのは無意味だと思う。
失敗は成功の(=学びの時)、スランプは飛躍の(=次に向けてのエネルギーの貯め時)、そして不幸は幸福の(=魂の修練の時)、「前段階」で、その時々で得た経験は、人生においてけっして無駄にはならない…と思うことにしている。