はなこのアンテナ@無知の知

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地球という生命体の長い歴史の中で【再掲】

2024年07月07日 | はなこ的考察―良いこと探し
【2015年4月に考えていたこと】

 先日ネパールで起きた大地震では、現時点で死者が4、000人を超えている。最近は2011年の東日本大震災を機に、日本も各地で震度5、6クラスの地震が発生するようになり、火山活動も活発化したように見える。

 遠く南半球のチリでも度重なる火山噴火が話題になっているし、数年前にはアイスランドの火山噴火で、ヨーロッパ圏の航空機の運航が大混乱を来したことも記憶に新しいところ。

 「自然災害」と言う括りで考えるならば、地球温暖化(←灼熱化?)や、それに伴う気候の変化で、異常に高くなった海水が「エネルギー供給源」となって台風、サイクロン、ハリケーン、そしてトルネードの強大化をもたらし、局地的な集中豪雨や氷山(氷河)の融解も招いて海面の上昇と、その脅威は止まることを知らない。

 地球の表面を間借りしている人類にとっては、生存環境が脅かされる一大事である。

 その原因として、「人類の経済活動における近代以降の化石燃料の多用」や「森林伐採」等々による影響が指摘されて久しいが、果たしてそれだけなのだろうか?「人類主犯説」はある意味、人類が自分自身を過大評価し過ぎているとは言えないか?

 私の指摘を待つまでもなく、もっと長いスパンで地球の変化を見るならば、現在はこの地球という生命体の長い歴史の中で、何度か周期的に訪れたであろう地殻と気候の変動期に差し掛かっているだけなのではないか?

 50億とも言われる長い地球の歴史において、人類の歴史などたかだか200万年程度である。人類なんて、この地球上で生まれては消えて行った数多の種のひとつでしかない。人類にとっての100年でさえ、地球にとっては、くしゃみの一瞬でしかないのかもしれない。

 地球上の種は全て、その都度、地球が提供する環境に適応できなければ、淘汰されるだけそれだけの話ではないのか?

 そこで種のひとつに過ぎない人類がジタバタしても、今さらどうにもならないのではないか。「地球を救え」と嘯く"人類"と言う種にも、遅かれ早かれ、いつの日か必ず、これまでに数多の種が直面したであろう「絶滅の時〜種としての終焉」は訪れる。

 そういう視座で今の人類の状況を見ると、各地で起きている犯罪行為や紛争、イスラム原理者によるテロ、人種差別騒動、そして周辺国を不安に陥れる大国の覇権主義等々、目を覆いたいばかりの諸々の所業は、本当に馬鹿馬鹿しく思える。

 いやしくも「霊長類」を自負する人類は一体何をやっているんだろうね?そんなことをしている場合ではないのにね。

 それでは、人類はどうすべきなのか?どう在るべきなのか?(←まあ、こうした物言いはエラソーに思われるかもしれないけれど…)

 結局、もし明日この世の終わりが来たとしても、私達“ひとりひとり”が、自身の人生に悔いを残すことのないよう、自分の持ち場で、今日という日を精一杯生きるしかない、のかもしれない。

 やりたいことがあれば明日に延ばさず、今日、行動に移すこと。

 誰かに何か伝えたいことがあれば、今日、躊躇うことなく会いに行くこと。

 そして、今日と言う日の終わりに、今日の無事を感謝すること。

 ひとりの人間が出来ることは、せいぜいそれぐらいではないだろうか?否、そうすることさえ、実はなかなか難しいのかもしれない。

 少なくとも私は、今日と言う日を、悔いのない1日にしようと思う。


【2024年7月に改めて考えたこと】

10年近く経っても、人類のやっていることは、進歩もなく、大して変わりないのだなと、嘆息。

恥ずかしいから、人類はもう「霊長類」の看板を下ろした方が良いと思う。

もちろん、自分の持ち場で「地球温暖化対策」や「人類救済」の為に、日々頑張っている人がいることも否定はしないけれども。

そして、自分が1人の人間として大切にしたいもの、コトも変わっていない。

粛々と自分の人生を全うするだけですね。

(了)



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