「四国へ帰ります!」
空々しい理由づけだった。四国は故郷でも何でもない。そこへ帰るつもりなど毛頭ない。すべて口先だけの誤魔化しだった。笠松杏子は、騙す主任への罪悪感を必死に振り払った。
「そうなんや。そら仕方ないなあ、家の事情やし。お母さん、大事にせなあかんよ」
「はい……」
「了解しました。上にはわたしが報告しとくさかい。七月いっぱいやいうことで」
「お願いします。ほんまに勝手いいまして」
「気にせんとき。事情が事情やさかい。しょうないわ」
主任は疑うそぶりを全く見せなかった。
「保護者には伝えんとくわな。担当さん変わるいうたらクレームでるさかい。もう夏休みに入るし、なんとかなるでしょう」
「よろしゅうお願いします」
杏子はしおらしく頭を下げた。あまりにすんなり退職届が受け取られたことに驚きはしたが、好都合なのは間違いない。主任に悟られぬように、ホッと胸をなでおろした。
受け持つ一歳児のクラスに戻ると、一緒に受け持つ吉尾キミが、連絡帳を記入していた。
「ごめんね。仕事任せっぱなしで」
「ええよ。お昼寝の時間やし、一人で充分や」
キミは一年先輩の保母である。卒業した短大の先輩後輩で、働き始めた日から気を使う必要のない相手だった。
「そやけど、きょうちゃん、やっぱり園やめるんやな」
「うん。迷惑かけるけど、やめるってさっき決まったわ。七月いっぱいで終わり」
「えー、残念やな。ええ仲間ができた思うて、えろう喜んどったのに」
キミは口を尖らせた。悪意はないと分かるだけに、杏子はまた罪悪感に襲われた。
一歳児の保育は多岐に渡り忙しいが、お昼寝の時間は少し気を抜いても差し支えない。キミとのコンビで受け持つ人数は十二名。その数だけ、保護者あての連絡帳を、この時間に仕上げるのが日課だった。
保育ルームで可愛い寝息を立てている子供たちを眺めると、自分が保母だと実感する。好きで選んだ仕事だった。ようやく慣れてきたいま、杏子は退職しようとしている。受け持った子供たちへの責任を中途半端な形で放棄することを受け入れるのに、ずいぶん葛藤した。しかし、もう結果は出た。杏子は保育ルームを未練たっぷりに見まわした。
「やめんでも、ええのんちゃうか?」
恋人の志島保は正論を口にした。保母をやりながら結婚すればいい。結婚で仕事が犠牲になることが、理解できないでいる。
「結婚したら退職ってのが、園の慣例なの」
「そんなん、おかしいやろ」
「おかしいても、そないなってるんや。保母の成り手なんか、なんぼでもおるんよ。公立やったらちゃんと保障されてるんやけど、うちが働いてるとこは、そない甘うないんやで」
杏子が働く保育園は、地元のお寺が運営する施設だった。園長は住職。別に実現したい保育の理念があるわけではない。ある意味姑息な経営者だった。同族経営で全うな運営理念は失われ、えこひいき極まる人事がまかり通っている。園長の片腕を担う主任は保育士の資格を持っていない。ただ園での在籍キャリアは、保母の中でも図抜けている。