ぼけた脳を洗濯してみる
川端康成『山の音』新潮文庫
長男の嫁菊子に語り掛ける。
「わたしはね、このごろ頭がひどくぼやけたせいで、日まわりを見ても、頭のことを考えるらしいな。
あの花のように頭がきれいにならんかね。
さっき電車のなかでも、頭だけ洗濯か修繕かに出せん物ものかしらと考えたんだよ。
首をちょんぎって、というと荒っぽいが、頭をちょっと胴からはずして、洗濯ものみたいに、はい、これ頼みますよと言って、大学病院へでも預けられんものかね。
病院で脳を洗ったり、悪いところを修繕したりしているあいだに、三日でも一週間でも、胴はぐっすり寝てるのさ。
寝返りもしないで、夢もみないでね。」(32頁)
『山の音』は、昭和29年に出版された作品である。
尾形真吾は62歳、物忘れの症状がではじめてきている。
「真吾は失われてゆく人生を感じるかのようであった。」(7頁)
この小説の感想は省くとするが、
昭和20年代は50歳から60歳で亡くなっていた時代である。
小説の冒頭に登場する真吾は、ぼけてきたことに不安、悩みを、面白い発想で表現されている。
ぼけた頭を、胴体から外し、洗濯ものみたいに脳を洗い、修繕(治療)していく。
ぼけは、昔からあったが、いまほど社会問題とはなってはいなかった。
川端康成『山の音』新潮文庫
長男の嫁菊子に語り掛ける。
「わたしはね、このごろ頭がひどくぼやけたせいで、日まわりを見ても、頭のことを考えるらしいな。
あの花のように頭がきれいにならんかね。
さっき電車のなかでも、頭だけ洗濯か修繕かに出せん物ものかしらと考えたんだよ。
首をちょんぎって、というと荒っぽいが、頭をちょっと胴からはずして、洗濯ものみたいに、はい、これ頼みますよと言って、大学病院へでも預けられんものかね。
病院で脳を洗ったり、悪いところを修繕したりしているあいだに、三日でも一週間でも、胴はぐっすり寝てるのさ。
寝返りもしないで、夢もみないでね。」(32頁)
『山の音』は、昭和29年に出版された作品である。
尾形真吾は62歳、物忘れの症状がではじめてきている。
「真吾は失われてゆく人生を感じるかのようであった。」(7頁)
この小説の感想は省くとするが、
昭和20年代は50歳から60歳で亡くなっていた時代である。
小説の冒頭に登場する真吾は、ぼけてきたことに不安、悩みを、面白い発想で表現されている。
ぼけた頭を、胴体から外し、洗濯ものみたいに脳を洗い、修繕(治療)していく。
ぼけは、昔からあったが、いまほど社会問題とはなってはいなかった。