老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1164 ; 我家が一番

2019-06-17 20:48:19 | 原風景
夕暮れどき、烏も我巣に帰る


我家が一番

人間だけでなく烏も我家に帰る。

我家が一番。
我家で死にたい、そう思い
病院を退院する老人や末期癌の人たち。

何故、家が一番いいのか?
考えてみると、その理由(わけ)は簡単。
我家は、自由気儘に過ごせる。
「自由 」と「気儘」、この二つの組み合わせが最高!

横になり自枕で寝ながら、煎餅を食べながら、テレビを観る。
他人様の家では、横になりたくてもできず、気を使う。
我家ならば、気兼ねなく、オナラもできる。
用事がないときは、時間にも縛られず支配されず、自由な時間を愉しめる。

我家で寝るのは、最高の至福に浸る時空間。
心癒されるのも我家。


何故、最後は我家で死にたいのか?
安らかに死ねる処は、長年暮らしてきた我家の 匂いや音、原風景にある。
棚やサイドボードの中や上にあるお土産の飾り物や写真立などは
家族旅行や記念写真の想い出が其処(我家)に在り、
走馬灯のように想い出に耽ける、或いは浸ることができるからである。

白い壁と医療機器に囲まれた病室では
想い出に係る一片のカケラも無く、寂しく虚しい。
また、数日間旅に出て豪華なホテルに泊まっても、飽きが来る。
理由は同じ。

入院や旅に在っても、
人は、家に帰りたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1163 ; 我在り

2019-06-17 16:03:58 | 自分は何者か

蟹さん、こんにちはするbeagle元気


我思う、ゆえに我在り(デカルト)

地球という惑星に、いま75億人が生きている。
地球は天の川銀河系に属し、
銀河系の宇宙空間から見ると、
地球の大きさは、小さな小さな惑星である。

その青い惑星に生きる人間(自分)の存在は、
さらに小さくなり、塵の大きさにもなるか否かの
心許ない存在に映る。

けれど、自分という存在は
この惑星において、他に存在する者は無く、自分だけしかない、
唯一無二の存在である。

だからこそちっぽけな塵みたいな存在であっても
唯一無二の存在だからこそ、個性の存在として尊ばれる。

個性の存在は、葦の如く弱いように見えても
生きていることに意味がある。

病気や事故により寝たきりになり
寝返ることも
自分で食べることも
儘ならぬ状態に在っても、
生きる意味があるし、生きていい。

長生きしたことが悪いことではないはずなのに
政治家や厚生労働省やマスコミは揃って
超高齢社会と騒ぎたて、財政が破綻すると、危機を煽っている。

いま生きている要介護老人たちは、
人に値するような存在にあるのか、
その視点から政治家は政策施行がなされていない、ことに
与党も野党も猛省して欲しい。

政治に対し、鋭い切り口で突っ込む新聞、テレビなどの報道の使命は脆弱でしかない。

政治家やマスコミを批判する自分自身も同類である。
政治不信からここ10年国政選挙の投票は棄権してきた。

日々、老人と向き合っている自分は、
何ができているのか。

人は一人では生きていけない弱い葦の存在。
葦のように弱い存在であっても
人と人とが助け合い、智慧を出し合い、生きてきた歴史がある。

23才から今日まで
福祉や介護に身を置きながらも、
自分自身、本当に生きてきた、という実感は持てずにきた。

福祉、介護のなかで誇れるものは何一つ無い。
老いてから、そのことに気づき、慌て蓋めいている自分が在る。
何をして生きてきたのか。

我在り、とは
自分が此処に生きている、と実感でき
その歓喜(よろこび)や感謝を素直に受けとめていきたい、と思う。

ラストの瞬間
生きて良かった、と感じ、永遠の眠りにつきたいものだ。

在る、それは、生きていること
人間死んだらお終いだ、と言われる。
それは、存在が無くなること
死よりも怖いのが存在が無くなること。

認知症老人の言葉は真理を突いている。
「財布が無い」と探し回る。
「財布ははじめから無かったでょう」、と説得しても
いま、財布が無いことが
当の本人にとっては「存在」そのものが問題なのである。

財布は「在る」と、理解する、つまり、認知症老人の不安な気持ちをわかることから
介護関係はつくられ、介護が展開される。














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1162 ; 遺 影

2019-06-17 04:04:27 | 阿呆者

喜茂別町から見た羊蹄山

遺 影

母親が他界し、令和4年のとき
13回忌を迎える。
早いものだ、時の流れは

辺境の地に家を建てたとき
母親をグループホームから退所させ、一緒に住みはじめた。
そのときに何故か、先祖の遺影を預かることになった。

祖父母、長女、父の兄と妹の遺影が
木製できた茶箱に保管されたままある。
拙宅の和室は、遺影を飾る壁にはなっておらず、飾らずにきた。

この先飾ることもなく、このまま茶箱に入れたままでは、
罰当たりになるのかと思い、
住職に尋ねてみた。

額縁の遺影を小さなサイズ(葉書大)にして置くと良いでしょう。
大きな遺影は葬儀屋に処分をお願いするといい、と
住職は話してくれた。

父の命日 7月10日のときに
そうしようか、と思っている。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする