蟹さん、こんにちはするbeagle元気
我思う、ゆえに我在り(デカルト)
地球という惑星に、いま75億人が生きている。
地球は天の川銀河系に属し、
銀河系の宇宙空間から見ると、
地球の大きさは、小さな小さな惑星である。
その青い惑星に生きる人間(自分)の存在は、
さらに小さくなり、塵の大きさにもなるか否かの
心許ない存在に映る。
けれど、自分という存在は
この惑星において、他に存在する者は無く、自分だけしかない、
唯一無二の存在である。
だからこそちっぽけな塵みたいな存在であっても
唯一無二の存在だからこそ、個性の存在として尊ばれる。
個性の存在は、葦の如く弱いように見えても
生きていることに意味がある。
病気や事故により寝たきりになり
寝返ることも
自分で食べることも
儘ならぬ状態に在っても、
生きる意味があるし、生きていい。
長生きしたことが悪いことではないはずなのに
政治家や厚生労働省やマスコミは揃って
超高齢社会と騒ぎたて、財政が破綻すると、危機を煽っている。
いま生きている要介護老人たちは、
人に値するような存在にあるのか、
その視点から政治家は政策施行がなされていない、ことに
与党も野党も猛省して欲しい。
政治に対し、鋭い切り口で突っ込む新聞、テレビなどの報道の使命は脆弱でしかない。
政治家やマスコミを批判する自分自身も同類である。
政治不信からここ10年国政選挙の投票は棄権してきた。
日々、老人と向き合っている自分は、
何ができているのか。
人は一人では生きていけない弱い葦の存在。
葦のように弱い存在であっても
人と人とが助け合い、智慧を出し合い、生きてきた歴史がある。
23才から今日まで
福祉や介護に身を置きながらも、
自分自身、本当に生きてきた、という実感は持てずにきた。
福祉、介護のなかで誇れるものは何一つ無い。
老いてから、そのことに気づき、慌て蓋めいている自分が在る。
何をして生きてきたのか。
我在り、とは
自分が此処に生きている、と実感でき
その歓喜(よろこび)や感謝を素直に受けとめていきたい、と思う。
ラストの瞬間
生きて良かった、と感じ、永遠の眠りにつきたいものだ。
在る、それは、生きていること
人間死んだらお終いだ、と言われる。
それは、存在が無くなること
死よりも怖いのが存在が無くなること。
認知症老人の言葉は真理を突いている。
「財布が無い」と探し回る。
「財布ははじめから無かったでょう」、と説得しても
いま、財布が無いことが
当の本人にとっては「存在」そのものが問題なのである。
財布は「在る」と、理解する、つまり、認知症老人の不安な気持ちをわかることから
介護関係はつくられ、介護が展開される。