老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1175 ; 不浄考 #3 不浄今昔物語

2019-06-24 12:53:22 | 排せつ考

不浄考 #3 今昔不浄物語・中編

自分が中学の時
一風変わった国語の先生から素敵な現代詩を紹介してもらった。
それは 濱口國雄が書いた『便所掃除』です。
長い詩なので、ここでは紹介できないのが残念
関心のある人は、お手数でも
「現代詩 濱口國雄 便所掃除」で検索頂くと、素敵な詩が画面に登場します


『便所掃除』の最後に、こう書かれてあったのを覚えていた。
便所を美しする娘は
美しい子供をうむといった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかもしれません


当時自分が通っていた中学校は、ポットン便所でした。
掃除当番でポットン便所の掃除を嫌々していた。
便器にべったりウンチが着き、タワシで擦ると
水飛沫が顔にかかった。

昭和30年代の田舎の国鉄駅
男便所は簡単にできており
コンクリートで造られ
排水溝の感じで右から左へとオシッコが流れた
男性用便器はなかったので
足下にオシッコが落ちて行くので
ズボンの裾に跳ね返っていた、と思う。

当時の公衆便所は
アンモニア臭が鼻を突き刺し泪目になったものです。

濱口國雄さんの『便所掃除』は
実感としてわかり、懸命に糞尿で汚れた便器を磨いている情景が浮かんだ。
本当に濱口さんは、美しい女性(妻)に会えた、と思っている。
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1174 ; 不浄考 #2 今昔不浄物語

2019-06-24 06:15:38 | 排せつ考
不浄考 #2 今昔不浄物語・前編

御不浄、即ち便器は大きな変化をとげ、
今の若い人は「ポットン便所」がどんな便所だか想像もつかないと思う。


自分は羊蹄山の麓、貧農に生まれた。
昭和38年(昭和39年、東京オリンピック)に初めて電気がつき、その明かるさに驚愕と感動を覚えた。
それまではランプ生活で、テレビも洗濯機も冷蔵庫の電化製品はなかった。
昭和38年、自分は小学5年生だった

家は木造平屋建て、青いトタン屋根で煙突が突き出ていた。
暖房器具は薪ストーブであった。

御不浄は母屋から10mほど離れた処にあり
藁屋根、壁は木の板で作られた。広さは畳半分位であり床は板が張られていた。
床の真ん中当たりに和式便器を置き、その部分は穴が空いていた。
床の下は糞尿が溜まる「槽」が作られてあった。

排便後の尻拭きは、文庫本の1.5倍程度の大きさに切った新聞紙
後には、活字が模様となった灰色のチリ紙に変わった。落とし紙とも言われた。

糞尿が溜まってくると蛆虫が蠢いているのが
モロに見え、臭いもきつく鼻を摘んで用を足していた。
蛆虫が成長すると銀蠅が飛び交う。

冬は雪が2、3m積もり、藁葺き屋根の便所小屋に行くのが大変だった。
寒いし、懐中電気では薄暗かった。
夜の便所は、お化けが出るのでは、と妄想が広がり怖かった。
家の玄関を開け、立ち小便をしたら親に怒られた。

雪が解け、春になると、野菜畑に穴を掘らされた。
何をするのかと思ったら、ポットン便所にこんもり溜まった糞尿を
杓子で桶に汲み、2つの肥やし桶を天秤棒で担ぎ、野菜畑まで運び土の穴に入れるのである。
これもまた辛い作業であり、糞尿が飛び跳ね、その度臭いまでもが揺れた。

ポットン便所の生活は18才まで続いた。
町の子が我が家に遊びに来て、
「トイレを貸してくれ」と言われることが
恥ずかしくもあり、嫌だった。
町に住む級友の家は和式便器ながらも、水洗トイレであり、
水で流される糞尿を見て、本当に羨ましく思った。
コメント (6)
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