老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1005 「溢れる愛」 と 「枯渇の愛」

2019-03-16 12:36:49 | 老いの光影

 「溢れる愛」 と 「枯渇の愛」

水が溢れこぼれる過ぎるほどの親の愛は
子どもをダメにしてしまう

厭がらせの齢を重ねた老人のなかには
家族に疎まれ 躰は枯渇し 愛に飢えている

母におしめを取り換えてもらった「わたし」は過去のこと
老いたの母の紙おむつを取り替えている現在の「私」

昔 父母に叱られた「わたし」
今 老いた父母を叱る「私」

幼くても老いても
親子の愛は 
つかずはなれずの親子関係が大切





1004 漏れる

2019-03-16 05:37:21 | 阿呆者
朝陽に染まる阿武隈川

漏れる

もう寿命なのか
我家の浴室シャワーのパッキンが緩み
水滴が落ち始めた

ポットンからポトポトと
落ちる音が速くなってきた

にんげんも
老い重ねてゆくと
尿道、肛門の括約筋が緩み
尿漏れしてくる

にんげんの体のなかで
心臓は休むことなくたゆまず動いている
その次に動いているのは
尿道、肛門の括約筋なのかな・・・・?

寝ていても尿道括約筋は
眠らずに働いている
「今日疲れたから休もう」などと、働きを止めたら
蒲団の上は大地図

寝ていても
膀胱に尿が溜まり過ぎると
目が覚め
トイレに行く








1003 昔の方が生きやすかった?

2019-03-15 17:37:40 | 阿呆者
昔の方が生きやすかった?

医療技術の進歩と消費生活が豊かになり
人生百年の時代となった。

今は、老い寝たきりになっても
そう簡単には死ねず生きら得ている

長寿のお陰で 認知症を患い
自分が誰だかわからなくなる

昔は
医者様にもかかれず 自宅の畳の上で
寝たきりにもならず 呆けることもなく
死ぬことができた

昔は貧しくても暮らせた
今は、便利なカードのお陰で
欲しい物は手に入るが 「金」に追われている

現代の「豊かさ」は
目には見えにくい貧困が潜んでいる

幸せって何か
価値観が陽炎の如く揺らぐ







1002 陽のあたる部屋

2019-03-15 17:35:37 | 阿呆者
陽のあたる部屋

冬の季節

陽のあたる部屋は
春を感じる

陽のあたらない部屋は
寒くこころが縮む

愛犬の温もりに
気持ちが癒される

飢えと寒さのなかで
野良犬は安住の寝ぐらを欲す

陽のあたる部屋に棲む
それだけで至福のとき



1001 鳥になりたい

2019-03-15 00:23:59 | 阿呆者
鳥になりたい

鳥になりたい
大空を自由に翔びたい

魚になりたい
碧い海の中珊瑚礁を眺めていたい

駿馬になりたい
大草原を駆け回りたい

貝になりたい
海辺で静かに夕陽を眺めいたい


生命は輪廻
また にんげんに生まれたい

蝿やゴキブリにはなりたくない
ハエタタキで潰され殺されてしまう

ミミズ にはなりたくない
雨上がりの夏
灼熱の暑さで干からび死してしまう


最期は穏やかに
妻の 手に握られながら逝きたい


1000 空蝉の詩

2019-03-14 11:29:35 | 空蝉
私の好きなハルジョオン・ヒメジョオン / 田圃に水が張られ「湖沼景色」 お気に入りの写心

空蝉の詩

春の到来を待ちわびている奥羽
ここで夏の風物詩である「蝉」の話をする
それこそ季節呆けであり 
書き手がなにやら怪しく見えてしまう


空蝉
抜け殻から
暑い陽射しの陰で
蝉は鳴き叫ぶ

蝉の生命は儚く短い
いまここに生きている
力の限り生きている

余命宣告された人
老い衰えて逝く人
後ろから死の陰が忍び寄る
死に際は
蝉の如く哭く

この世に蝉は生きている
にんげんもこの世に生きている

生きているからこそ
最期の瞬間まで
蝉は鳴き
にんげんも啼く

「鳴き(哭き)」疲れた先は
生命は「無く」なる


『老い楽の詩』は
2017年04月09日から開始され
2019年03月14日で1000回のブログ
本ブログは
日記であったり老い楽の記録であったり・・・
途中息切れし中断が何度もありながら
ブログが閉鎖されずに来たのは
拙いブログにご訪問と声援を頂き
心より感謝しています。

「ありがとうございました」
「今後もよろしくお願いします」

999 悩みはつきない

2019-03-14 03:17:38 | 阿呆者
悩みはつきない

にんげん 悩みはつきない
何もしないでいれば 悩みはない?
行動するから 悩みは生産される

悩み協奏曲で
悩みは余計に増え 悩みはつきない
死んだら 悩みは雪解け水の如く
流れ消えて行く

死ぬまで 悩みはつきない
物欲の悩みは 解決しない
他者の悩み
自分の悩みとして抱き
同苦として感じいる

他者からみると
自分の悩みは 
取るに足らない悩み

小さな悩みに見えても
自分にとっては 
気持ちを大きく塞ぐ 大きな悩み

悩みなき人生はあり得ない
マレーバクに
夢だだけでなく 悩みも食べてもらいたい

生きている限り 悩みはつきない

998 桜に逢えて本当に良かった

2019-03-13 08:50:01 | 老いの光影
桜に逢えて本当に良かった

桜は 寒い冬をじっと耐えてきた 寒さに負けず 雪にも負けず 春を待つ”

ツバメは春の風を運ぶ
もう少しで桜前線は
白河の関を越える

インフルエンザの大敵にも罹ることなく
冬を乗り越え
また一つ齢を重ねた老い人たち
“桜の花を観るのは これが最後かな”と、呟く

「今日、桜に逢えて本当に良かった」
老女は泪を浮かべていた。
一年生き延びてきたことへの感謝と喜び。

桜の花は
閉じたにんげんの心を解し(ほぐし)
心躍らせてくれる。

桜の花は儚く散る
桜の時期は
別れ《卒業》と 出会い《入学、入社》とも重なる。

桜咲く春に
あなたは何を想う。

997 明星

2019-03-12 20:26:42 | 老いびとの聲
明星 

昔のことを思い出した
1964(昭和39)年東京オリンピックの頃
そのときの自分は小学校6年生

今日とは違い
スマホもPCもカラーTVもなかった

農村に棲み 隣りの農家は直線距離にして200~300mあった
隣りの家は従兄姉がいて
よく月間雑誌『明星』『平凡』を手にし
騒いでいた。

自分は『明星』の方が好きで
歌手では 舟木一夫 三田明 西郷輝彦 橋幸夫、
映画スターは 石原裕次郎 浜田光男 吉永小百合 和泉雅子 松原智恵子 だった。

玉置宏のロッテ歌のアルバム は日曜お昼の人気番組であった。

過去形の話ばかりで
自分も老いた一人なのかな、と苦笑してしまう

《明星》は
夜空に輝く星は
昭和のスターであり
田舎の若者にとっては憧れのスターであった。

「月星」のゴム長靴のことも思い出した
雪が降り積もる北国では
ゴム長靴は必需品であった。


老人も輝くスターであった
昔仕事に誇りを持ち
高度経済成長の日本を支え働いてきた
家族を守り子ども育てきた

夜空に輝く星

996 いま、ここに生きる

2019-03-12 17:07:59 | 老いの光影 第4章
いま、ここに生きる

「人生における最大の嘘、それは『いま、ここ』を生きないことです(『嫌われる勇気』岸見一郎 古賀史健、275頁)。
『いま、ここ』を真剣に生きること」です(前掲274頁)。


人は、過去にこだわり、
果てぬ未来に夢を見たところで、
何も変化は生まれて来ない。

「いま、ここに生きる」人として浮かんできたのが、
認知症老人である。

繰り返し話していた昔のことも話さなくなり、
いま、自分が、どうしていいかわからなくなったり、
何をしようとしたのか忘れてしまったりして、
戸惑いや不安が渦巻く。

認知症老人は、
過去や未来のことよりも、
現在(いま)気にかかっていることが、一番の問題であり、
そのことを解決していかない限り、
前に進むことはできないし、並行して他の事もできない。

認知症老人に限らず、齢(よわい、年齢)をかさね老いて来ると、
「できていた」ことが知らず知らずのうちに「できない」ことが一つひとつ増えてくる。

本人は足が上がっているつもりでも、
一寸した段差に躓き前のめりになり両手を着いてしまう。
《自分も、しっかり躓き転んだ》

認知症老人は、
「今日」が一番のベストであり、
「明日」になると状態は「 ↘ 」になるかもしれない。

認知症の進行は緩慢であったり、
急に落下したりといったように予測できないところがある。
それだけに、「今日」がベストな状態であり、
「今日」という日は、繰り返すことのない一日、
すなわち瞬間、瞬間の時間が大切なのだと思う。

「認知症老人は、
桜の花を見せに連れ出しても、帰って来た時には“何処へ行ったかも忘れてしまっている。
だったら連れて行かなくてもよいのでは・・・・」と話す介護従事者がいた。

桜を見たことを忘れたことよりも、
いま、桜の花を見て、
「今年も桜の花を見ることができた」ことに感謝、歓喜(よろこび)、
「きれいだな」と感動したりする

その瞬間、瞬間に生きていることに、
人は何を感じ、何を想うであろうか。

認知症老人は、
戸惑いや不安を抱えながら、
必死に「いま、ここに生きている」後ろ姿から、
自分も、生かされていることを学ぶ。

自分は「いったい何をしているだろうか」と後悔と深い自省の念を抱く。

誰にも与えられた一日の時間は24時間。

994 老化は足(脚)から

2019-03-11 14:27:13 | 老いの光影
老化は足(脚)から

仙台駅にあるS-PALに来た
ショッピングは本当に疲れる

散歩の歩きとショッピングの歩きは違う

今までは1万歩前後
ビーグル元気と歩いていたのだが
ここ2週間ほど5千歩の歩きで
下肢の筋力が落ちてしまった感がする

そのせいか、ショッピング中
2度3度躓き転びそうになり
ヒヤッとした。

老化は足(脚)から、ということを実感した
足(脚)だけでなく
頭も負けじと置き忘れど忘れが進んでいる。

S-PAL地下2階にあるKITAZAWAで
フルーツ盛り合わせ(大)を味わった
高血圧症の薬等を服薬しているので
グレープフルーツは禁断の果物

朝夕の服薬時間から 
離れており
今日は禁断を破ってもいいかな?
ということで、
今まで耐え我慢していた
禁断の果物、グレープフルーツを食べた

生き返った
これで暫くはグレープフルーツは
我慢できる。
神様に感謝。

993 老人と子ども(9) “子どもは生きている、老人も生きている”

2019-03-11 04:50:50 | 老人と子ども
老人と子ども(9) “子どもは生きている、老人も生きている”

赤ん坊は産まれるときは
独りではない
産声をあげたとき
傍らに人が居る

暗い不安な産道を通り抜け
この世に出たときの“まぶしさ”
光を感じた
人生最初の偉業を終え
いま母親の隣りで眠る赤ん坊。

寝返りもできず「寝たきり」の状態にあった赤ん坊
(個人差はあるが)1歳前後で立ち歩きだす
保育園(または幼稚園)に通う頃は、元気に走り回る。

自分で「できる」ことがひとつ一つ増えてくる。
紙おむつに「さよなら」したときは
小さな大人になった気分
得意げになり「ひとりでトイレに行けるよ」


齢(よわい)をひとつ重ねるたびごとに
老人は
昨日「できた」ことが
今日は「できなくなり」戸惑う。

洗濯を干そうと
縁側にある石段を降りたときに
大腿骨を骨折
それがもとで
ひとりでトイレにも行けなくなり
「紙おむつよ こんにちは」の身となる

寝たきりになり10年
寝たきり老人はしぶとさがあり
そう簡単には死なない

でも
にんげんはいつか死ぬ
老いの最期は
独り死ぬこともある
にんげんの手を握り
死にたいものだ

それでも
子どもは生きている
老人も生きている

3.11の辛さがあっても
にんげん 生きている






992 朝、顔を洗うと・・・・

2019-03-11 04:34:58 | 阿呆者
犬吠岬からみた朝陽

朝、顔を洗うと・・・・

春近しとはいえ
5時前の東北は
まだ暗闇にある。

鶏の鳴き声よりも
早く起きる自分。

朝、起きたら
一番にbeagle元気の紙おむつ交換

その後
洗面所に行き
歯磨きと顔を洗う

すっきりする
今日という新しい日が始まる

991 食べ残したとうもろこし

2019-03-10 06:21:06 | 老いびとの聲
大きな庭石のよこに福寿草が咲く 石は「景石」とも言われるが私は「捨石」と呼んでいる

食べ残したとうもろこしのような700日のブログ

ブログ『老い楽の詩』を書き始めたのは 2017年4月9日
過ぎた日は早く 待つ日は長い
死を待つ時間も長ければよいのだが・・・・

700日のブログを喩えると
食べ残したとうもろこしである
日にちをとうもろこしの粒に見立て
700粒のとうもろこし

余のとうもろこしは
あちこちに食べ残しが目立ち
ブログを怠けて書かずに続いた日もあった
休まずに物事を継続することは難しいですね
継続できない脆弱な心の持ち主は自分だけかもしれない

今日から新たなとうころこしを手にとる
食べ残しの粒が
いまよりはまばらになるように願い
pcに向かう「わたし」ともうひとり「私」
ブログは自己対話の世界でもあった