先日のパーティ演奏。
定番の津軽アイヤ節もやったんですが、
あるお客様から、
踊りが入ってても三味線に目が行く
とのお言葉を頂戴しまして、感激した次第。
普通はやっぱり、自然に踊りを見ると思うんですよ。
それはもう仕方ないことだし、
その視覚効果に助けられてる部分もあります。
とくに、ああいうパーティーなんかでは、すごく心強い。
とはいえ、その一方で、
踊りの伴奏に過ぎない自分が残念だったりもするわけで。
やっぱり踊りに合わせて無理をしている部分での不完全燃焼感はある。
例えば、踊りのテンポでは出せないリズム感とか。
それは、バチホリックの頃からずっとあって、
結局、手踊りの伴奏しかないんだったら自分を出し切れない、
と思ったからバチとは距離を取った。
最近は、ゆっこちゃんと一緒にやることが増えたから、
息も合ってきたし、この組み合わせだから出来ると感じるようになってきて、
楽しめるようになったけど、
昔はここまで舞台を作る上で良い関係ではなくて、
お互いの足りない部分を補い合うだけで、
プラスを生み出せてはいなかったと思う。
もちろん、伴奏は影に徹するべきだとも言えるし、
地歌なんかだったら確実にそうだけど、
津軽三味線はその草創期から唄い手と競ってきて、
少しでも唄より三味線を聴いてもらおう、拍手をもらおう、
その想いが今日の器楽として独立した津軽三味線を生んだ。
と考えれば、踊りより目立つ三味線を弾きたい、と思ってしまうのは
津軽弾きのサガだ。
踊りを越えるなんてスゴいじゃないか。
やっぱり素直に嬉しい。
だから、伴奏にも妥協せずに弾けるようになるべく、
研究しているこの頃。
来月の今昔館は“津軽尽くし”の予定です。
定番の津軽アイヤ節もやったんですが、
あるお客様から、
踊りが入ってても三味線に目が行く
とのお言葉を頂戴しまして、感激した次第。
普通はやっぱり、自然に踊りを見ると思うんですよ。
それはもう仕方ないことだし、
その視覚効果に助けられてる部分もあります。
とくに、ああいうパーティーなんかでは、すごく心強い。
とはいえ、その一方で、
踊りの伴奏に過ぎない自分が残念だったりもするわけで。
やっぱり踊りに合わせて無理をしている部分での不完全燃焼感はある。
例えば、踊りのテンポでは出せないリズム感とか。
それは、バチホリックの頃からずっとあって、
結局、手踊りの伴奏しかないんだったら自分を出し切れない、
と思ったからバチとは距離を取った。
最近は、ゆっこちゃんと一緒にやることが増えたから、
息も合ってきたし、この組み合わせだから出来ると感じるようになってきて、
楽しめるようになったけど、
昔はここまで舞台を作る上で良い関係ではなくて、
お互いの足りない部分を補い合うだけで、
プラスを生み出せてはいなかったと思う。
もちろん、伴奏は影に徹するべきだとも言えるし、
地歌なんかだったら確実にそうだけど、
津軽三味線はその草創期から唄い手と競ってきて、
少しでも唄より三味線を聴いてもらおう、拍手をもらおう、
その想いが今日の器楽として独立した津軽三味線を生んだ。
と考えれば、踊りより目立つ三味線を弾きたい、と思ってしまうのは
津軽弾きのサガだ。
踊りを越えるなんてスゴいじゃないか。
やっぱり素直に嬉しい。
だから、伴奏にも妥協せずに弾けるようになるべく、
研究しているこの頃。
来月の今昔館は“津軽尽くし”の予定です。