「驚異の歌声」というテレビ番組で
フラメンコのカンテ(歌)が取り上げられてました。
あの魂の叫びというべき力のある歌声。
フラメンコも昔から大好き。
どこか津軽三味線と通じるものを感じます。
どちらも、虐げられた人々が生み出した芸能であること。
だからそこには哀愁がある。
同時に、世の中への怒りだとか、
ぎりぎりの生活を生き抜く力強さといった
強い想いも感じる。
そして、どんなに貧しくても失われない誇りと。
でも、そういうものは時代とともに失われつつある。
それが悪いことだとは言わないし、言えない。
社会的な差別は許されないことなのだし、
誰だって良い生活したくて当たり前。
番組に登場したのは、
職業としての歌ではなく、
生きることそのものとしての歌を歌う昔気質の父と、
若くして商業的成功を収めながら
何かが足りないと模索し続ける娘。
きれいな声で上手く歌うことだけでは足りない何か。
父にあって、娘にないもの。
なんか分かる気がする。
元ちとせが「娘さんのは“歌”って感じがするけど、
お父さんのは“語り”って感じがする」みたいな
すごく上手い表現をしてたけど、そんな感じ。
なんていうのか、直に魂を掴んで揺さぶられる感じ。
津軽三味線もそうだと思う。
今、上手い人は沢山いる。
でも、昔の名人たち、白川軍八郎や木田林松栄や高橋竹山、
彼らの音は、録音からでさえ力を感じる。
その時代、三味線弾きが生きていくことがどんなに過酷だったか、
今とはまるで比べものにならない。
竹山さんが自伝の中でも語ったように、
そんな苦しい生活、誰も望んでしないけど、
津軽三味線を生んだのは間違いなくそういった環境だったのだろう。
今はもうそんな時代じゃないし、
津軽三味線ってかっこいい、と言われるようにさえなった。
それは先人の努力の賜物でもあって、喜ぶべきこと。
でも一方では、かつて津軽三味線が持っていた“何か”は失われただろう。
津軽三味線の創始者といわれる仁太坊の話を読んだとき、
彼の演奏は想像するしかないけれど、
そんな命がけの演奏は私には出来ないと感じて、
ちょっと打ちのめされた気分になったのを思い出した。
何だか長々とよくわからないことを書いてしまいましたが。
とにかく、その番組に出てたお父さんの歌、最高でした。
テレビで見てるだけなのに、涙が出た。
テクニックを磨くことも大事。
でも、もっと根源的な部分で、音と向き合いたいと思います。
フラメンコのカンテ(歌)が取り上げられてました。
あの魂の叫びというべき力のある歌声。
フラメンコも昔から大好き。
どこか津軽三味線と通じるものを感じます。
どちらも、虐げられた人々が生み出した芸能であること。
だからそこには哀愁がある。
同時に、世の中への怒りだとか、
ぎりぎりの生活を生き抜く力強さといった
強い想いも感じる。
そして、どんなに貧しくても失われない誇りと。
でも、そういうものは時代とともに失われつつある。
それが悪いことだとは言わないし、言えない。
社会的な差別は許されないことなのだし、
誰だって良い生活したくて当たり前。
番組に登場したのは、
職業としての歌ではなく、
生きることそのものとしての歌を歌う昔気質の父と、
若くして商業的成功を収めながら
何かが足りないと模索し続ける娘。
きれいな声で上手く歌うことだけでは足りない何か。
父にあって、娘にないもの。
なんか分かる気がする。
元ちとせが「娘さんのは“歌”って感じがするけど、
お父さんのは“語り”って感じがする」みたいな
すごく上手い表現をしてたけど、そんな感じ。
なんていうのか、直に魂を掴んで揺さぶられる感じ。
津軽三味線もそうだと思う。
今、上手い人は沢山いる。
でも、昔の名人たち、白川軍八郎や木田林松栄や高橋竹山、
彼らの音は、録音からでさえ力を感じる。
その時代、三味線弾きが生きていくことがどんなに過酷だったか、
今とはまるで比べものにならない。
竹山さんが自伝の中でも語ったように、
そんな苦しい生活、誰も望んでしないけど、
津軽三味線を生んだのは間違いなくそういった環境だったのだろう。
今はもうそんな時代じゃないし、
津軽三味線ってかっこいい、と言われるようにさえなった。
それは先人の努力の賜物でもあって、喜ぶべきこと。
でも一方では、かつて津軽三味線が持っていた“何か”は失われただろう。
津軽三味線の創始者といわれる仁太坊の話を読んだとき、
彼の演奏は想像するしかないけれど、
そんな命がけの演奏は私には出来ないと感じて、
ちょっと打ちのめされた気分になったのを思い出した。
何だか長々とよくわからないことを書いてしまいましたが。
とにかく、その番組に出てたお父さんの歌、最高でした。
テレビで見てるだけなのに、涙が出た。
テクニックを磨くことも大事。
でも、もっと根源的な部分で、音と向き合いたいと思います。