三味線弾きの日常。

おもに津軽三味線弾き唄い。
ときどき地歌・上方唄。こっそり義太夫三味線。
三味の音を一人でも多くの人に届けたい。

未来のサムライミュージシャンズ発掘コンテスト 優秀賞受賞!

高橋悠治「三味線とのかかわり」。

2016年11月17日 | 読書
まるごと三味線の本
田中悠美子ほか
青弓社


執筆陣にリアルに知ってる人がちらほらしすぎて
なんとなく読みにくい感じがして
斜め読み程度になっているのですが・・・

この中で、作曲家の高橋悠治氏が「三味線とのかかわり」という文章を書いています。
見過ごすことのできない、とても重要な問いかけです。


三味線には新しいレパートリーがない。江戸時代をいまだにひきずっている。
いわゆる現代音楽の作曲家は、箏や尺八の曲を書くことはあっても、三味線の曲は書かない。
二十世紀の音楽の技法であつかうには、三味線は音程や速度に制約が多く、しかもサワリによる均質でない音色は、和音にならない。



これは本当によく分かる。
いわゆる現代邦楽のアンサンブルに三味線が使われることはごく稀。
ゆんぴのソロ曲を聴いても思うけど、
ああいう新しい曲って、三味線にはない。
幸か不幸か。
すでにある古典が十二分にかっこいいわけだから
新しい曲など必要ないともいえる。

自分で曲を書くときにも、
サワリの問題は最重要課題。
サワリを生かせないと、三味線の良さが死んでしまう。
でも、それはコード進行とは全く相容れない。
三味線で和音なんか弾く必要ないんだ、と思うけど、
和音に慣らされた現代人の耳に訴える音を作るには
全く無視してもいいとも言い切れない。ジレンマ。


いっぽう演奏者の側からの近代化は、三味線を制約の多いエレキギターに変えていくことがポップで、
若い世代にウケると思い込んでいる。津軽三味線は近代化の産物で、一種のスポーツにとどまっている。
反近代の楽器としての三味線が本来もっていたはずの多様な音色と共鳴、沈黙とわずかな音による語り、
あるいは撥音とリズムによる衝撃力を生かすことはできそうにもない。
時代遅れの西洋化と、流行をすぎたポップを追いながら、この楽器は消えていくのだろうか。



あまりにも正論すぎて
ことばが突き刺さりすぎて
呻きながら
それでも叫びたい。

私はこの、不自由で不器用で
繊細で力強くて豊かな、
三味線という楽器を愛している。

今の時代に三味線が生きる意味を
必死で探し続けている。

コメント
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