(中山道と中仙道)
古来より、中山道は中仙道と二つの表示がある。
これが「中山道」に決められたいきさつが記された資料を
蕨市歴史民族資料館で見つけた。
「中山道と中仙道」江戸時代の出版物を見ていくと
「中山道」と記されたものと「中仙道」と記されたものがあります。
どちらが正しいでしょうか?
正徳6年(1716)4月のお触書によると、
「只今までは「仙」之字書候得ども、向後は「山」の字書可申事」
(今までは「仙」の字を書いていたが、
今後は「山」の字を書くようにすること)とあり、
「中山道」と書くよう決められています。
また、同じ御触書に、奥州・日光・甲州道中ついて、
「これは海端を通り不申候間 海道とは申し間敷候」
(これは海の端を通らないから、海道とは申しません)
とあり、奥州・日光・甲州街道でなく、奥州・日光・甲州道中
と呼ぶのが正しいことがわかります。
とある。
東海道は海の端を歩くから東海道で、中山道は山の中を
歩くから中山道。とても解りやすい。
(宿場について)
宿場は旅人の休泊のための旅籠や、大名・公家など身分の高い
人々の宿泊設備である本陣・脇本陣があった。
加えて問屋場、高札場が設けられていたのが標準のようだ。
また、宿場間の旅人と荷物を輸送する事務を執り行う
問屋・年寄り・帳付け・馬指し・人足指しなどの宿役人がいた。
こうしたさまざまな人たちの生活に必要な商売屋も
軒を連ねて繁盛したといわれる。