楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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金の切れ目が縁の切れ目(旧中山道を歩いて気づいた事4)

2013年01月13日 10時57分29秒 | つれづれなるままに考えること
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(信玄夫人陽雲院のお墓)


中山道の本荘宿に「陽雲寺」がある。
ここは、武田信玄夫人の陽雲院が、
晩年を過ごしたところといい、
墓地の奥には、そのお墓もある。
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(信玄夫人の墓石)

もうお判りと思うが、「陽雲寺」の名は、
信玄夫人の号から採ったものである。
また、金窪城主であった畑時能(はたときよし)と
その家臣児玉光信の墓(供養塔)が、
寺院の参道入り口に畑児塚(はたこづか)と呼ばれ残っている。

(畑児塚)

説明によれば、
(参道脇にある石の祠(ほこら)は、
新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ、
金窪城に居住した畑時能の供養祠と伝えられる。
時能は秩父郡長瀞町の出身で、義貞戦死後も南朝方のため
孤軍奮闘したが、暦応二年(1339)越前の国で、
足利方に討たれた。
従臣 児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しるし)を
携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養した。
後に光信も時能の墓側に葬られ、二つの石祠が建立され
両者の名をとって「畑児塚」と呼ばれるようになった。)
(上里町教育委員会)


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(新田義貞の四天王の随一畑時能の墓)

畑時能が新田義貞の四天王であったと説明にあるが、
新田義貞の四天王についての知識がないので調べた。

ここで四天王について、すこし述べようと思う。

広辞苑から
①仏教界の言葉で、帝釈天に仕え、四方を守る護法神。
 須弥山の中腹にある四王天の主。
 持国天(東方)増長天(南方)広目天(西方)多聞天(北方)をいう。
 像容は、甲冑をつけた憤怒の武将形で、邪気を踏み、
 須弥壇の四方に安置される四大天王。
②ある道、ある部門に最も秀でた4人の称。

イ.源頼光の四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部末武)  
ロ.義経の四天王(蒲田盛政、蒲田光政、佐藤継信、佐藤忠信)
        または(武蔵坊弁慶、伊勢義盛、亀井重清、常陸坊海尊)
ハ.新田義貞の四天王(栗生顕友、篠塚伊賀守、畑時能、由良具滋)    
ニ.信長の四天王(柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀)
ホ.家康の四天王(井伊直政、本田忠勝、榊原康政、酒井忠継)

とある。(広辞苑より。)

物語に寄れば、源頼光の四天王は、
大江山の酒呑童子を退治したことで有名である。
中でも渡辺綱(わたなべのつな)は羅生門に
夜な夜な現れる妖怪の腕を切り落としたことで知られ、
坂田金時は五月の端午の節句にでてくる、金太郎が幼少の名で、
足柄山で熊にまたがり馬の稽古をし、獣たちを集めて相撲の稽古をした
と歌い継がれて有名である。

しかし新田義貞の四天王、
畑時能についてのエピソードをボクは知らない。
日本歴史に疎いボクは、
金窪城主であったことで、今回始めて四天王であることを知った。

調べたところによると、
元弘の乱(1333)(後醍醐天皇を始めとする勢力により
鎌倉幕府が倒された乱)において、
新田義貞の家来として活躍した四人の家臣を
義貞の四天王と呼ぶ。畑時能はそのうちの一人。
・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

 広辞苑の四天王の説明の中で、
豊臣秀吉に四天王がいないことが気になった。
秀吉には確固たる家来がいなかった。
せいぜい、加藤清正、福島正則、片桐勝元、蜂須賀小六くらいしか思い浮かばない。
お金や知行で釣って、たくさんの家来を引き込んでいるが、
いずれも寄せ集めで、身命を賭して秀吉に誓った人は少ない。
水のみ百姓の子倅から、関白太政大臣にまで上り詰めた割には、寂しい。
生まれが卑しいから、金の力が全てで、
魅力のない人となりであったのであろうか・・・

いつの世も「金の切れ目が縁の切れ目」であったのであろうか・・・ 
コメント (8)
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