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(忠教の宿のあるじ?)
「平忠度(たいらのただのり)の最後」
旧中山道の武州(ぶしゅう)を歩いて、
埼玉県大里郡岡部町へでた。
岡部と言えば、平家物語に出てくる平忠度を討ち取った
岡部六弥太の故郷でもある。
以前、江戸狩野派の絵画展を観て、
展示された屏風の一部に、平忠度の最後の場面が描かれおり、
これは「平家物語」巻第九「一の谷」の項の場面と案内があった。
せっかく、岡部六弥太の故郷を紀行文にするからには、
「平家物語」を読まざるを得ないと、図書館へ行った。
図書館には、古典文学全集が二種類あり、
発行元はS社とG社であったが、
当のくだりを開いてみると、
一方は「一の谷」他方は「忠教(ただのり)最期」となっていた。
記述も、書き出しが一方は、
「一の谷の西の手をば、左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)、
薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、三万余騎にて
防がれけるが、「山の手敗れぬ」と聞こえしかば、
いとさわがで落ち給う。」
他方は、
「薩摩守忠教(さつまのかみただのり)は、一の谷の西手の
大将軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧着て、
黒き馬のふとうたくましきに、いっかけ地の鞍おいて乗り給へり。」
となっている。
確かに、内容は双方同じであるが、
記述が微妙に違っている。
おかしいと思い調べると、
「平家物語」は、
もともと琵琶法師によって語り継がれたものを、
書き記したものであるから、
聞き継いだ法師によって多少の違いが出てくることが判った。
この琵琶法師の語りを、
小泉節子夫人が夫のラフカディオ・ハーンに語り、
有名な怪談「耳なし芳一」の物語ができたと言う。
旧中山道岡部町に清心寺があり、
「史跡 平忠度の墓」の石碑がある。
門をくぐってすぐ左手に忠度の墓が見える。
(清心寺)
(平忠度の墓)
忠度は清盛の異母弟で、一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄に
討ち取られたことは平家物語にも有名であるが、
討ち取られた時に、鎧の箙(えびら)に結んだ文に、歌が詠まれてあった。
これにより、平忠度と判明した。
行きくれて 木の下陰を 宿とせば
花やこよいの主(あるじ)ならまし 忠度
墓の前の案内に拠れば、
岡部六弥太が忠度を討って、
その亡骸を領地の一番景色の良いこの地に五輪の塔を建てた。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前でさした桜が紅白の二つの花が
相重なる形で咲き、これを夫婦咲きと云い、
忠度桜として有名です。
(深谷上杉顕彰会)
さて、お墓ですが、忠度の辞世を満足させるがごとく、
桜の木で囲まれ、今では辞世のように、花が主(あるじ)となっているのを見ると、
首を討ち取った岡部六弥太の憎いまでの心遣いに感激します。
せっかくですので、語り口調の見事な
平家物語の忠教最度のくだりを、書物に沿って紹介します。
その忠度についいて、平家物語にある、
次に記すお話を是非お読みいただきたい。
なお、私の勝手な口語訳ですので、
間違いあると思われますが、
その段、切にお詫び申し上げます。
(薩摩守忠教は、一の谷の西側の大将でございますが、
紺地の布に金糸・銀糸で文様を織り出した錦で仕立てた
鎧直垂(よろいひたたれ)に黒糸おどしの鎧を
着ていらっしゃいました。
黒毛で太くたくましい馬に、
金銀をまぶした漆塗りの鞍を置いて
乗馬されていました。
軍勢百騎ばかりに囲まれて、静かに堂々と進むのを、
猪俣党(いのまたとう)に岡部六野太忠澄が、
大将軍と思い馬に鞭うち、
あぶみをけって追いつき、
「そちらのお方は、どなたでござる、お名のりくだされ」といえば、
「こちらは、味方でござる」と振り向き答える冑の顔をみると、
おはぐろ(歯を黒く染めてあった)であった。
おお、わが方には、おはぐろを付けた人はいないから、
これは平家の公達に違いないと、
馬を並べるやむんずと組み付いた。
これを見て百騎ばかりいた兵たちが、
助太刀すると思いきや、
にわかに集めた兵達であったので、
一騎も助太刀せず、
我先に逃げてしまった。
「憎っくき奴め、自分が味方だと言うのだから、
言わせておけば良いのに、」と、
熊野育ちの大力で、力技、武技などの振る舞いは敏捷な忠教は、
止むにやまれず、刀を抜き六野太めがけて、
二太刀振り下ろす。
返す一太刀と、あわせて三太刀振り落としたが、
二太刀は鎧の上で刺し通すことが出来ず、
一太刀は冑へ突きを入れたが、薄手で殺すことが出来ず、
とって抑えて首を切ろうとしたところ、六野太の家来で
まだ前髪立ちの若武者が駆け寄り、刀を抜いて薩摩守忠教の
右腕をひじのところから、ばっさり切り落とした。
今はこれまでと思ったのであろう。
「しばし退れ、十念(念仏)を唱えてから切られようぞ」と
六野太を左手で弓の長さ(約2m)ほど突き飛ばして、
西に向かって声高に念仏を唱えた。
「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」と
唱え終わらぬうちに、六野太がうしろから首を討った。
岡部六野太は平家の大将の首を取ったけれど、
誰とも分からず、
「これは平家の一門の方であろう。名乗らせてから
討つべきであったなあ」と思って見ると、
鎧の箙(えびらと読む、背ににつけた矢の容器)に
文が結び付けてあるのを発見した。
開けてみると「旅宿の花」と題して、
一首 歌が書かれてあった。
・ゆきくれて木のしたかげをやどとせば
花やこよいのあるじならまし
花やこよいのあるじならまし
と書いて、薩摩守忠教と書いてあり、
忠教であることが分かった。
首を刀の先に刺して、高く差し上げ、大音声で
「武蔵の国の住人 岡部六野太が、薩摩守忠教をば
討ち取ったり!」と大声で名乗りを上げた。
敵も味方もこれを聞いて
「ああ、お気の毒に、
平家一門でも武芸にも、歌道にも、
ずいぶん傑出しておられた大将軍であったのに…」と
涙を流し、袖をぬらさぬ人はいなかったという。)
「平家物語、巻九 忠教最後」より