人生は、生まれてより、月日が過ぎて行くことであり、
その間に男女で力を合わせて子孫を残していく。
ただそれだけであるように思える。
他にいろいろあるが、突き詰めて考えれば変化はあれど、
過ぎてしまえば、何もなかったことと同じに思える。
その月日の流れを川に例えたのが「方丈記」で、
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。・・・」と、
鴨長明がそれを証明している。
また、月日の流れを区切る正月の門松を、
頓智で有名な一休禅師は、
・門松は 冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
と詠んでいる。
つまり月日に区切りとしての正月の門松を一里塚に例え、
一年また一年「死」に近づいていることを詠んでおり、
生まれてから死ぬまで、一年一年を積み重ねて行くだけで、
後は何もない、と言っている。
めでたいのか、めでたくないのか解らない。
話はアメリカに飛ぶ。
最近キューバとアメリカが握手をした。
そのキューバをこよなく愛したヘミングウエイが残した小説、
「陽はまた昇る」がある。
有名なヘミングウエイの著作のこの題名の原文は、
聖書から引用されたもので、
The sun also risesから始まる一節は、
「日は昇り、日は沈み、
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
陽はまた昇り、同じ一日が始まり、
そして同じ一週間がやってくる。
やがて一年がたち、一生が過ぎて行く。
全く何もなかったように、また、陽は昇るのである。
聖書は言う、
「なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。」と。
ヘミングウエイの「老人と海」が代表して語っている。
この人生の虚無感は、次のように物語の中に表現されている。
「老漁師が大物のカジキマグロを求め漁に出る。
苦労の末やっと釣り上げたカジキマグロ、
悪戦苦闘して、釣り上げ舟に結わえて帰港する途中、
沢山のサメに襲われ、獲物は食いちぎられる。
サメと散々戦って得たものは、
骨だけになった獲物だ。」
(さんざん努力して、もがいても結局何も残らないのだよ人生は)
そう語っている。
そして、わが身のある日本に目を向ける。
「月日は百代の過客にして、行き交う年も・・・」と松尾芭蕉は述べている。
この原文は中国にある。唐の李白の詩「春夜桃梨園に宴する」の序文をを引用している。
「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は、百代の過客なり」と。
逆旅とは旅籠のことであり、光陰は日の移り行くこと、つまり月日のことを言う。
「おくのほそ道」で芭蕉は、
「変わりゆく月日は永遠で、行き過ぎる年をさまよい歩く人を旅人と言うならば、
来ては去りゆく歳月は、また旅人と同じと言って良い。
古(いにしえ)の人は旅の途上で、
流れに浮かぶ泡(うたかた)の中に、旅への思いを持ったまま死んでいった。
風と共に漂う雲の中で、同じ思いを何年も何年も胸に抱いてきたが、
旅に出たい思いが歳月と共にたかぶってきた。」(「おくのほそ道」筆者要約)
こう書き出して芭蕉は陸奥(みちのく)へ旅立っていく。
曽良と連れ立って、深川の庵を払って、何も残らぬ人生の旅に出かけた。
わが身を振り返って、一体ボクの旅は何時まであるのだろう。
どのように考えても、それでも、何も残らない人生の旅を進む以外に道はない。
・いずれ逝く 道とはかねて 聞きしかど
今あるわが身を いかにとやせん hide-san
辞世の歌も詠んで、準備万端であるが・・・・「いかにとやせん」である。
旅をいつまで続けることができるであろうか・・・・
やっぱり、「今を大切に生きる」が大事なことなんだろう・・・・か。
その間に男女で力を合わせて子孫を残していく。
ただそれだけであるように思える。
他にいろいろあるが、突き詰めて考えれば変化はあれど、
過ぎてしまえば、何もなかったことと同じに思える。
その月日の流れを川に例えたのが「方丈記」で、
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。・・・」と、
鴨長明がそれを証明している。
また、月日の流れを区切る正月の門松を、
頓智で有名な一休禅師は、
・門松は 冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
と詠んでいる。
つまり月日に区切りとしての正月の門松を一里塚に例え、
一年また一年「死」に近づいていることを詠んでおり、
生まれてから死ぬまで、一年一年を積み重ねて行くだけで、
後は何もない、と言っている。
めでたいのか、めでたくないのか解らない。
話はアメリカに飛ぶ。
最近キューバとアメリカが握手をした。
そのキューバをこよなく愛したヘミングウエイが残した小説、
「陽はまた昇る」がある。
有名なヘミングウエイの著作のこの題名の原文は、
聖書から引用されたもので、
The sun also risesから始まる一節は、
「日は昇り、日は沈み、
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。」
陽はまた昇り、同じ一日が始まり、
そして同じ一週間がやってくる。
やがて一年がたち、一生が過ぎて行く。
全く何もなかったように、また、陽は昇るのである。
聖書は言う、
「なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。」と。
ヘミングウエイの「老人と海」が代表して語っている。
この人生の虚無感は、次のように物語の中に表現されている。
「老漁師が大物のカジキマグロを求め漁に出る。
苦労の末やっと釣り上げたカジキマグロ、
悪戦苦闘して、釣り上げ舟に結わえて帰港する途中、
沢山のサメに襲われ、獲物は食いちぎられる。
サメと散々戦って得たものは、
骨だけになった獲物だ。」
(さんざん努力して、もがいても結局何も残らないのだよ人生は)
そう語っている。
そして、わが身のある日本に目を向ける。
「月日は百代の過客にして、行き交う年も・・・」と松尾芭蕉は述べている。
この原文は中国にある。唐の李白の詩「春夜桃梨園に宴する」の序文をを引用している。
「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は、百代の過客なり」と。
逆旅とは旅籠のことであり、光陰は日の移り行くこと、つまり月日のことを言う。
「おくのほそ道」で芭蕉は、
「変わりゆく月日は永遠で、行き過ぎる年をさまよい歩く人を旅人と言うならば、
来ては去りゆく歳月は、また旅人と同じと言って良い。
古(いにしえ)の人は旅の途上で、
流れに浮かぶ泡(うたかた)の中に、旅への思いを持ったまま死んでいった。
風と共に漂う雲の中で、同じ思いを何年も何年も胸に抱いてきたが、
旅に出たい思いが歳月と共にたかぶってきた。」(「おくのほそ道」筆者要約)
こう書き出して芭蕉は陸奥(みちのく)へ旅立っていく。
曽良と連れ立って、深川の庵を払って、何も残らぬ人生の旅に出かけた。
わが身を振り返って、一体ボクの旅は何時まであるのだろう。
どのように考えても、それでも、何も残らない人生の旅を進む以外に道はない。
・いずれ逝く 道とはかねて 聞きしかど
今あるわが身を いかにとやせん hide-san
辞世の歌も詠んで、準備万端であるが・・・・「いかにとやせん」である。
旅をいつまで続けることができるであろうか・・・・
やっぱり、「今を大切に生きる」が大事なことなんだろう・・・・か。