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(玄奘も学んだナーランダ仏教大学遺跡)
ツアーの三日目は、
いよいよ待ちに待ったナーランダ仏教大学遺跡を訪ねる。
七世紀に中国を脱出し、長い困難な道のりを越え、
仏教の経典を求めてやってきた玄奘三蔵が、
抱いていた仏教への疑問を解決し、学僧数千人を集めて、
講義をした大学跡である。
ナーランダ仏教大学遺跡は、石で建造された巨大な礎石だけが残る。
講義室、学生の宿舎は四人一室で起居し、勉学に励んだ跡が残る。
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(講義室の教壇は一段高くなって居る)
部屋の4隅には、四人分の本箱といわれる場所があるが、
当時の本は一体どんな形をしていたのであろうか?
すでに紙が発達していたのか、
絹に書き込んだものだろうか、
もし木簡であったとすれば、本箱が小さすぎる。
絹であればなおのこと、紙で作られた本でも高価すぎて、
絹であればなおのこと、紙で作られた本でも高価すぎて、
学僧の手に入るものではない。
教壇は現在の小学校にあるほどの大きさはあるが、
講義室は小学校の半分程度の大きさであるが、
沢山の講義室、宿舎が並び、
学校の大きさは三平方キロに渡るというから、
相当な広さであったに違いない。
もちろん、講義室には机もなかったが、
学僧は地面に座って講義を聞いたのであろうか?
2006年のインドの田舎の村を訪ねると、
小さな黒板を日陰に立てて、
子供達十人ほどが車座になって、
教師らしき人の声に合わせ、なにやら復唱する声が聞こえたが、
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(子供たちの授業風景)
ガイドの説明によれば、田舎の小学校だというから、
ナーランダ仏教大学でも、同じように学僧たちは、
地面に座って講義に聞き入ったに違いない。
玄奘三蔵は、経典657部を携え、唐の都に帰っていった。
中国脱出後17年の後であったという。
故郷に帰った玄奘は、
経典の翻訳に一生をささげるつもりであったが、
時の皇帝は国防のため、
当時明らかでなかった西域の国々
(中央アジアやインド)について知識が必要であったため、
玄奘に「西域記」の編纂を命じた。
これが有名な「大唐西域記」である。
これが有名な「大唐西域記」である。
話は変わるが、
その昔、ボクが子供のとき、絵本ではなく、
文字だけの本を初めて買ってもらったのが「西遊記」であった。
三蔵法師に孫悟空、猪八戒、沙悟浄の活躍に
胸躍らせた記憶が焼きついている。
玄奘三蔵法師の伝記「慈恩伝」を面白おかしく物語にしたのが,
この「西遊記」である。
いつか、孫悟空の歩いた道を歩いてみたいと思った夢が,
実現できるとは思っても見なかった。
玄奘が学んだナーランダ仏教遺跡を訪ねることが出来たことは、
実に感慨深い。
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(ナーランダ仏教大学遺跡)
なお、余談であるが、
玄奘の遺骨は第二次世界大戦中に南京で発見され、
その頭骨が日本に持ち帰られて、
さいたま市岩槻区(元の岩槻市)にある、
慈恩寺に埋葬されており、
その一部は、ノーベル平和賞を受賞した 時の首相 佐藤栄作氏により、
台湾の玄奘寺(慈恩寺)に分骨された。
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(岩槻区の慈恩寺)
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(玄奘の遺骨が埋葬されている場所)