楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

皇女和宮の宿泊地として唯一の脇本陣(旧中山道を歩いて気づいた事 25)

2022年01月12日 03時46分57秒 | つれづれなるままに考えること

(下諏訪宿の本陣)

(皇女和宮が休憩した座敷)

(その座敷前の庭)

(脇本陣ー「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)

皇女和宮御通行の折の炊き出しについて、
宿場は大変な人数を狩り出しおおわらわであったことはすでに述べた。
皇女和宮の御通行のことについて、
調べ知り得た話を綴ってみたい。

皇女和宮の降嫁に当たって、
京都から江戸に下る道筋を東海道から中山道に変えたことを、
文久元年(1861)2月5日に中山道の各宿場に伝えている。

実際に和宮様が京都を出発し、
中山道を下り始めるのは10月20日であった。
つまり、およそ一年前に決まったのである。
その通達では、宿泊は何処で、昼食は何処で、
三時と十時のお休みは何処と決まっていた。
宿泊場所は一箇所を除いて、全て本陣であった。

本陣でないその一箇所は、板橋宿の脇本陣であった。
受けとり方によっては外された本陣家は不審に思ったに違いない。
蕨宿本陣岡田加兵衛が残した「和宮御下向御用日記留」によると、
板橋宿の、時の名主 豊田市右衛門は、

板橋宿のお泊りが脇本陣宇兵衛宅に決まったことは
「まことに嘆かわしきことに存知候」と書き送ってきている。

現代でも本陣家(子孫の飯田家)の方が和宮様は、
我が家に宿泊したと主張されていると聞いたことがある。
もともと板橋宿では、本家の本陣家は新右衛門を、
分家の脇本陣家が宇兵衛を代々名乗っていたが、
何時のことか、そしてどんな理由であったのか判らないが、
本陣家の新右衛門の名を脇本陣家に譲ってしまったことから
問題がややこしくなっている。
本陣家が宇兵衛を名乗ることになり、脇本陣となった。
つまり本陣家と脇本陣家が入れ替わってしまったのである。

ただ一軒だけ脇本陣家に決まったのには、
何か理由があったに違いない。
その理由については「和宮御下向御用日記留」には書かれていないが、
ボクの勝手な推測では、次のようではなかっただろうか。

【もともと、本陣、脇本陣は高貴な方がお泊りになるから、
従業員のしつけ、言葉遣い、極秘の会話を他にもらさぬとか、
挙措振る舞いに至るまで、
厳重に教育されている教養ある者が雇われていたと思われる。
高貴な方へ直接接待する人から、まかないのおばさんまで、
それぞれ心得のある人が雇われていたに違いない。
その者達は、今で言えば、特別な専門職であり、
大変な高給取りであったと思われる。
また、調度品にいたってもそれなりに格式があったのかもしれない。

(和田宿本陣の門構え)

蕨宿本陣の岡田加兵衛が書き残した
「和宮御下向御用日記留」では、
皇女和宮が宿泊するに当っては、
調度品について役人から、
アンドンからタバコ盆、火鉢に至るまで、
こまごまと指図があったことが解っている。

板橋宿は、お互いの名前を取替え、
本陣と脇本陣が入れ替わったとしても、
雇われている人間や調度品は、
入れ替えなかったと思われる。
また、本陣脇本陣の立地条件も、
宿泊地として大いに選定理由の中に入ったに違いない。

島崎藤村の「夜明け前」の中で、
本陣家の条件を述べているが、
その条件として、高張り提灯が有る事から、
お駕籠が横付けに出来る広い式台、上段の間など、
こまごまとしたものが必要であるが、
中でも、暴漢に襲われた時逃げ出すことが出来る裏口があることが、
大前提になっている。

尊皇派と佐幕派と入り混じって、
物情騒然とした時代であったから、
裏口からの逃げ道は、重要な要件であったに違いない。
もともと、和宮の御下向が、
東海道から中山道に変更になったのも、
警備の問題が主たる要因であったことからであり、
案外そんな所に、
元は本陣であった脇本陣を選ぶ理由があったのかもしれない。】

今となっては知る由も無い。

(妻籠宿の脇本陣)

(一段高くなっている上段の間)


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!