徳川家の菩提寺というと、芝の増上寺を思い浮かべるが、
文京区にも菩提寺がある。
浄土宗 無量山伝通院壽経寺。通称 「伝通院」である。
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(伝通院の三門)
家康の生母 於大の方のお墓が伝通院にある。
伝通院の山門は、先の世界第二次世界大戦の東京大空襲で焼失した。
それ以来67年ぶりに山門が再建され、
2012年2月に盛大に落慶法要が営まれた。
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(落慶法要、東京新聞の記事)
山門手前右手には、
「指圧の心は母心」で有名な指圧師の治療院がある。
また、山門直前左手には、
「不許葷酒入門内(くんしゅもんないにいるをゆるさず)」の石柱がある。
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(処静院にあった石柱)
文京区の案内板に
「浪士隊結成の処静院(しょじょういん)跡の石柱」とあり、
次のように説明がある。
(この石柱は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで、
伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に
建っていたものである。
石柱の文字は修業と戒律の厳しさを伝えている。
処静院はその後廃寺となった。
文久三年(1863)、幕末の治安維持を目的とした組織、
「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。
山岡鉄舟、清河八郎などを中心に総勢250名。その後、
浪士隊を離れて、新撰組として名をはせた近藤勇、土方歳三、
沖田総司などが平隊員として加わっていた。
一行は文久三年、京都へ発った。
年号が明治と改まる五年前のことであった。)(文京区教育委員会)とある。
「不許葷酒入門内」の石柱。裏面に処静院とあるらしいが、
石柱の後ろは生垣で、写真を撮ることが出来ない。
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(指塚)
立派な山門をくぐると、左手に「物故指聖供養塔」があり、
指塚になっている。
門前の「指圧の心は母心」の偉大な治療師の供養塔であろう。
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(本堂)
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(三つ葉葵の幔幕と無量山の扁額)
正面には本堂があり、三つ葉葵の幔幕がかかっている。
本堂左手に広く墓地があるが、
本堂すぐ左手に観音堂があり、その奥左手に一段大きなお墓、
家康の生母「於大の方」のお墓がある。
案内があって分かりやすい。
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(本堂横の観音堂)
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(於大の方のお墓)
法名を読むと
「傳通院殿蓉譽光岳智香大禅定尼(でんつういんでんようよこうがくだいぜんていに)」
とあり、これがお寺の名前、「伝通院」と呼ばれるようになった。
(於大の方は、享禄元年―慶長七年(1528-1602)。
徳川家康の生母。三河の城主・水野忠政の娘。
天文十年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年離婚後、
阿古埜城主・久松俊勝に再婚するも人質として
織田家・今川家にいる我が子家康を慰め、音信を絶たなかったという。)
(文京区教育委員会)
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(台座の「伝通院伝」の法名)
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(千姫の墓)
墓地に入っていくと、石垣に囲まれた一際大きく、古いお墓がある。
「千姫」のお墓である。
その奥に誰のものかわからないが江戸時代のお墓の前に、
河津桜がきらびやかに咲いていたので、写真に収める。
その左手に江戸三代将軍 徳川家光の正室「孝子の墓」がある。
その隣には東北大震災で崩れたと思われる、お墓の残骸がおいてある。
いずれ修復するものと思われる。
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(徳川家係累の墓と思われる、河津桜が美しい)
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(河津桜)
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(孝子の墓)
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(先の震災で崩れた墓)
お墓の前に三人ほどの人が立ち話をしているのを聞くところによると、
そのうちの一人はこの伝通院のお墓に毎週必ず来て、
研究を重ねているらしい。
二百年も前の歴史を紐解くのは容易なことでは無さそうだ。
墓地を左方へぐるりと一回りすると、
新撰組の時代に活躍した清川八郎の墓、
小説家 佐藤春夫のお墓などが目に付いた。
以前来たときは、「眠狂四郎無頼控」など、
時代劇小説の作家 柴田錬三郎のお墓も案内があったが、
今は余り重要でないらしく、案内も無くなって、
どれが柴田錬三郎のお墓か分からなかった。
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(清河八郎の墓、門前の処静院の石柱と繋がる)
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(佐藤春夫の墓)
文京区にも菩提寺がある。
浄土宗 無量山伝通院壽経寺。通称 「伝通院」である。
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(伝通院の三門)
家康の生母 於大の方のお墓が伝通院にある。
伝通院の山門は、先の世界第二次世界大戦の東京大空襲で焼失した。
それ以来67年ぶりに山門が再建され、
2012年2月に盛大に落慶法要が営まれた。
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(落慶法要、東京新聞の記事)
山門手前右手には、
「指圧の心は母心」で有名な指圧師の治療院がある。
また、山門直前左手には、
「不許葷酒入門内(くんしゅもんないにいるをゆるさず)」の石柱がある。
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(処静院にあった石柱)
文京区の案内板に
「浪士隊結成の処静院(しょじょういん)跡の石柱」とあり、
次のように説明がある。
(この石柱は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで、
伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に
建っていたものである。
石柱の文字は修業と戒律の厳しさを伝えている。
処静院はその後廃寺となった。
文久三年(1863)、幕末の治安維持を目的とした組織、
「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。
山岡鉄舟、清河八郎などを中心に総勢250名。その後、
浪士隊を離れて、新撰組として名をはせた近藤勇、土方歳三、
沖田総司などが平隊員として加わっていた。
一行は文久三年、京都へ発った。
年号が明治と改まる五年前のことであった。)(文京区教育委員会)とある。
「不許葷酒入門内」の石柱。裏面に処静院とあるらしいが、
石柱の後ろは生垣で、写真を撮ることが出来ない。
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(指塚)
立派な山門をくぐると、左手に「物故指聖供養塔」があり、
指塚になっている。
門前の「指圧の心は母心」の偉大な治療師の供養塔であろう。
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(本堂)
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(三つ葉葵の幔幕と無量山の扁額)
正面には本堂があり、三つ葉葵の幔幕がかかっている。
本堂左手に広く墓地があるが、
本堂すぐ左手に観音堂があり、その奥左手に一段大きなお墓、
家康の生母「於大の方」のお墓がある。
案内があって分かりやすい。
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(本堂横の観音堂)
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(於大の方のお墓)
法名を読むと
「傳通院殿蓉譽光岳智香大禅定尼(でんつういんでんようよこうがくだいぜんていに)」
とあり、これがお寺の名前、「伝通院」と呼ばれるようになった。
(於大の方は、享禄元年―慶長七年(1528-1602)。
徳川家康の生母。三河の城主・水野忠政の娘。
天文十年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年離婚後、
阿古埜城主・久松俊勝に再婚するも人質として
織田家・今川家にいる我が子家康を慰め、音信を絶たなかったという。)
(文京区教育委員会)
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(台座の「伝通院伝」の法名)
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(千姫の墓)
墓地に入っていくと、石垣に囲まれた一際大きく、古いお墓がある。
「千姫」のお墓である。
その奥に誰のものかわからないが江戸時代のお墓の前に、
河津桜がきらびやかに咲いていたので、写真に収める。
その左手に江戸三代将軍 徳川家光の正室「孝子の墓」がある。
その隣には東北大震災で崩れたと思われる、お墓の残骸がおいてある。
いずれ修復するものと思われる。
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(徳川家係累の墓と思われる、河津桜が美しい)
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(河津桜)
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(孝子の墓)
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(先の震災で崩れた墓)
お墓の前に三人ほどの人が立ち話をしているのを聞くところによると、
そのうちの一人はこの伝通院のお墓に毎週必ず来て、
研究を重ねているらしい。
二百年も前の歴史を紐解くのは容易なことでは無さそうだ。
墓地を左方へぐるりと一回りすると、
新撰組の時代に活躍した清川八郎の墓、
小説家 佐藤春夫のお墓などが目に付いた。
以前来たときは、「眠狂四郎無頼控」など、
時代劇小説の作家 柴田錬三郎のお墓も案内があったが、
今は余り重要でないらしく、案内も無くなって、
どれが柴田錬三郎のお墓か分からなかった。
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(清河八郎の墓、門前の処静院の石柱と繋がる)
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(佐藤春夫の墓)
歴代将軍は芝の増上寺と上野の寛永寺でしたよね。
千姫のお墓があるのは数年前に千姫の本を読んで初めて知りました。
息子が岡崎市に住んで居ますが岡崎にも徳川家の菩提寺があります。
大樹寺で歴代将軍の等身サイズの木造が15体並んでいますよ。
徳川家康が桶狭間から撤退するときにこのお寺に入ったそうです。
撤退を進言したのが於大の方の旦那さんである
織田方の久松俊勝だったそうです。
そんな訳で岡崎の大樹寺は大事な菩提寺となったそうです。
コメント有難うございます。
名をなした人は、お墓が幾つもあり、菩提寺もそれぞれですね。
新撰組の近藤勇はお墓と言われるものが五箇所もあるといいます。