楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
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     ・おくのほそ道を歩く

「憧れのハワイ航路」(2005.6.17.)

2016年08月13日 05時12分00秒 | つれづれなるままに考えること
「憧れのハワイ航路」
副題:「どんなことがあっても、戦争は絶対避けなければならない!」

(‘05.6.17.)の朝、ラジオ放送で、
終戦時に中学生で戦争に参加し、沖縄で米軍の捕虜になった、
くによし しんいちさんの講演を聴いた。

題して「憧れのハワイ航路」

15歳で日本の軍人になり、周りにいた少年兵はすべて戦死し、
自分だけ米軍の捕虜になった。

その時、裸にされた体の傷口にはウジがいて、
米軍が白い粉をかけると、
ウジがぽろぽろ死んで体から落ちていった、という。

当時捕虜になるということは、
これ以上の屈辱はないと、されていた。
生きて恥を晒すより、死を選んだ時代。

裸のまま貨物船の船倉に入れられた時、
日本人の捕虜は80人ほどいたという。
幼かったので、まだ陰毛も生えていなかった。
そこで、米兵から本当に軍人かと尋ねられたという。

船倉に入って、船が動き出して二日目、食料が与えられた。
80人分ある箱に銀飯(ぎんしゃり)とハムが入っていた。

上層のほうで米兵の何人かが見ている。
捕虜になった日本人は殆どが飢えていたので目を見張った。

すると屈強の男たち5,6人が手づかみで、
全員のものであるはずの食料をほとんど食べて、
残りは他の人に分けるでもなく、自分たちがいる場所に隠してしまった。

屈強の男たちは、やくざのようであったという。
翌日も同じように食料が与えられ、
例によって屈強の男たちが独占しようとした。

すると、一人の男が立って(いずれも裸)

「それでも君たちは日本人か、
 捕虜になると日本人としての誇りもなくなるのか」と、
威厳のある言葉遣いで言った。

裸であるから判らないが、将校であったに違いない。
男たちは恥じて何も反論できなかった。
将校と思われるその人は、人に命じて、食料を握り飯にし、
ハムをつけてみんなに配らせた。

腕をなくした人、病に侵されている人たちや、
子供である私に最初に分け与えた。
そして自分は余ったものを口にしたという。
生きておられれば、もう相当なお歳になられるであろうが、
この方にもう一度お会いして、お礼を言いたい、
と、くによしさんはかたる。

船は動いていくが、明日はどうなるか誰も知らない。
生きて恥をかくよりはと、
腕や足をなくした人、病の重い人が船から身を投げて自殺していった。
ハワイに行くことが早く判っていれば、
こんな自殺もなかったであろう、と回想される。
行き先で処刑が待っていると、誰もが思っていたらしい。

ハワイに着くと、港に沈没しかかった軍艦が何艘もある。
パール・ハーバーだ。
戦争の残骸を片付けないで置いておくのは、
この悲惨な光景を忘れないためである、
と米兵は語ったと言う。
過酷な訓練を受けた日本軍人にとっては、
その後の生活は、極楽のようなものだった。
ワイキキの町の掃除に明け暮れた。
バスケットも出来れば、野球も出来た。

しばらくすると、日本が負けたというニュースが入ってきた。
日本人捕虜は半信半疑であった。
米兵が戦地から続々帰ってくる。
故郷へ帰る前にハワイで数日休暇を貰って、
羽根を広げて帰るのだ。
米兵の慰安でフラダンスショーがあって、
その後片付けをさせられた。

呑み残しで、コカコーラを知り、
食べ残しで、サンドウイッチを知った。
その後、病人やけが人を第一陣として、
第二、第三と日本へ送還されていった。

少年兵であった くによしさんは、一番元気だったので、
最後に送還された。

故郷に帰ってみると、他の人は出迎えがあるのに、
自分は誰も出迎えがない。
親戚家族は戦争で死んでしまったのだろうかと思ったそうです。
しかし、地図上では、家族のいた地域は空襲にも遭っていない。
人に聞くと親戚兄弟を見たという。
帰ってみると確かに家はあり、兄弟父親はいたが、
一番遭いたかった母親は死んでいた。

昭和22年のことです。

近所のお母さんから、

「同期の何某はハワイにいたか?」と訊かれた。
その人は自分が捕虜になったとき、
自分の隣で死んでいったのを知っていたが、
先発でハワイから帰った人たちに、
ハワイで見かけた、ときかされていたので、
生きていることを信じている。
くによしさんは、さすがに戦死しましたとは言えず、返事をしなかった。

家に帰って父に話すと、真実を告げたほうが良いということになって、
母親でなく、父親に告げることにした。
しばらくして、死んだ場所へ連れて行って欲しいと言われ、
4~5mもある地底の防空壕に下りていって、
ここだと場所を教えた。

回りは戦死した白骨が沢山あって、
どれが本人のものか見分けが付かない。
すると、母親が頭骸骨を一つ一つ持ち上げて、
歯形を調べだした。

母親は我が子の、歯形を何時までも覚えているのですね。
これが息子の頭蓋骨と判別して、
抱いて泣き崩れ立ち上がらず、
自分もここで死ぬと言い出した。
自分の子供を失うという悲しみは、
味わった人でないとわからないといいます。
何とかなだめて地上に出しました。

(話は違いますが、ボクの友人も息子をなくしていますが、
性格というか生活態度がまるで変わってしまいました。
厭世観が漂ってなんともいえぬ嫌な奴になり下がってしまいました。)


そんな経験をして三年後の、
昭和25年、岡晴夫さんの「あこがれのハワイ航路」がヒットしましたが、
くによしさんにとっては、非常に複雑な気持ちで、この歌を聴きましたという。

最後に、くによしさんは、

「どんなことがあっても、戦争は避けなければいけません」

そう締めくくって、講演を終わりました。

皆さん!沢山の、いろいろな感想をお持ちと思います!

そして終戦を9歳で迎えたボクは、
たった5歳違いでこんな経験をされた 

くによしさんに

今後も、お元気で、

何時までも、反戦の思いを後世に伝えて欲しいと思います。

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ポケモン GO!の大ばくち

2016年08月10日 04時51分18秒 | 日記
ポケモン DO!が世界で大流行している。

交通事故が起きるほどの熱狂ぶりでである。


アメリカでは、「ポケモン GO」の無料アプリが発表されるや、

初日2100万件配信されて、話題になったころ、

アメリカの大統領候補、民主党のヒラリー・クリントンさんが、

「ポケモン GO」 を「選挙に GO」を設定してちょうだい。

と演説会場で叫んだのを、ボクはCNNニュースで見た。


そこでボクは某ゲームメーカーの株を、

お金がないから、僅か300株買った。


気の小さいボクは、数日経って、すこし値上がりしたところで、

その株を売却した。


久しぶりに良い思いをしたが、この株、また値上がりしていると言う。

もう一度 手を出すと大けがをしそう、

            桑原 桑原 くわばら・・・。

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向島百花園―都立庭園へ行こう (その6)

2016年08月06日 05時43分02秒 | 東京の庭園
都立庭園は全部で九庭園ある。

今回は、六つ目の向島百花園を訪ねた。

(向島百花園)


場所:墨田区東向島3-18-3
交通の案内:JR亀戸・日暮里駅より都バス(里22)百花園下車徒歩3分
      東武伊勢崎線(スカイツリーライン)東向島下車徒歩8分

JR日暮里駅で(里22)の都バスを探した。
駅から降りた所へ(里22)のバスが通りかかったので、
そのバスが停まるところから乗れば向島百花園へ行けると思い、
後を付いて行くとロータリーの向こう側に停まったので、
乗り場はそこにあると早合点したが、
そこは乗務員が降りてきてJRの駅に入って行ってしまった。

バス乗り場は何処かとロータリーを歩いていると交番が目に付いた。
お巡りさんが何人もいたので、
「向島百花園へ行くバスの乗り場は何処ですか?」と聞いたところ、
その交番の目の前が乗り場であった。

目の高さより下ばかり見て歩いているから、解らないだけであった。
ちょっと上に目をやれば、バス停が見つかったのに・・・。

家宅捜査をするときは、
「目線より上か、膝の高さより下を探すが鉄則」と聞いたことがある。
人が物を隠そうとする時は、目から上か膝より下が多いと言う。
カミさんがへそくりを隠す時はこんな場所が多いようだ。
探す人は、そこには目が行かないらしい。

脱線したが、(里22)のバスに乗って約30分もすると、
「百花園前」で停まる。
ちょうど「百花園入り口」の信号機のある所だ。

(「百花園入り口」の信号機)


信号を渡って右に入ると、

百花園はさらに左へと道路案内がある。
左を見ると樹木が折り重なっているので、どうやら庭園がありそうだ。

(向島百花園は左への案内)


少し歩くと、右手に子供広場があって、
数人の子供がボールを蹴って遊んでいる。
広場の奥を見ると水飲み場があって、
その横に向島百花園の案内看板がある。

(子供広場)

(右側の子供の広場と百花園の案内)

看板の方向に進むと、
右奥に百花園入り口がある。

(向島百花園入り口)


入り口手前に「名勝 向島百花園」の石碑があるが、
これは徳川慶喜の揮毫によると言う。
徳川慶喜と言えば、徳川幕府最後の将軍(?)で、
大政奉還後は、巣鴨あたりに住んでいて、
ここを起点に足を延ばして写真を撮っており、
名所旧跡の写真が残されている。
それなりの当時の文化人であったように思う。
少しピンボケであるが、百花園の石碑を載せて置きたい。

(百花園の石碑)


入園料は、下記の通り:

入園料:一般150円(65歳以上70円)
    無料:小学生以下および都内在住・在学の中学生他
無料公開日:みどりの日(5/4)都民の日(10/1)

休園日は、年末年始(12/29~1/3)の六日間のみ
開園時間:AM9:00~PM17:00

以上の通りであるが、広さは約1万㎡だそうだ。

ボクは70円払ったが、「65歳以上の証明入りますか」と受付で聞くと、
「いいえ、お顔を拝見すれば解りますが、生まれ年を教えて頂けますか」という。
つまり顔パスである。


百花園に入ってすぐ左に芭蕉の句碑が建っている。
句碑には、「春もやや けしきととのふ 月と梅」とある。

(芭蕉句碑)


            はせを 

・春もやや      月
    けしき      と
      ととのふ     梅


とある。

ボクに解る句碑はこれくらいしかない。

東京都の説明によれば、
(向島百花園は、江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804=1830)に、
骨董商を営んでいた佐原鞠塢(きくう)が、
文人墨客の協力を得て、
花に咲く草木鑑賞を中心とした花園をとして開園した。
「百花園」とは、一説では「四季百花の乱れ咲く園」
と言う意味で付けられたとされる。
開園当初は360本のウメが主体で、その後、
詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれた有名な植物を集め、
四季を通じて花が咲くようになりました。
唯一現代に残る江戸時代の花園です。)とある。

東京都の説明にあるように、
園内には、当時の文人達の足跡としての句碑・歌碑・詩碑があり、
全部で29個あるらしいが、
ボクが知っているのは上記の芭蕉くらいしか無いのは恥ずかしい限り。

また四季に咲く花に至っては、
アジサイと桔梗と萩程度とお粗末なもので、
百花園に入る資格がないと言っても過言ではない。
それらが集まって、美しい庭園になっている事は理解できる。

(萩のトンネル)

(桔梗の花)


芭蕉句碑の先に「福禄寿尊堂」があり、
その先に文人が集まったであろう「御成り屋敷」がある。
御成り屋敷の座敷のガラス窓際に立てば、
こじんまりとした風情のある池が見渡すことが出来る。
池の向こうに借景として東京スカイツリーがそびえる。

(福禄寿尊堂)

(御成り屋敷入り口)

(御成り屋敷の正面)

(座敷から見た風情のある池)

(遊歩道)

(東京スカイツリー)


その「御成り屋敷」の前にもう一つの芭蕉句碑があることを記しておきたい。

句碑には、

・こんにゃくの 
        さしみも些(すこ)し
               うめの花

(もう一つの芭蕉句碑)


萩のトンネルを出た所には、東屋があり休憩できる場所が用意されている。
他にも見所は沢山あり過ぎて紹介しきれない。
百聞は一見に如かずと言います。
ぜひ、足を運んでいただいてご覧下さいますよう、お願いします。

(休憩所)

(あじさい)

(別の見所)

(日本橋の橋脚)


この石の橋脚にある「日本橋」も徳川慶喜のが書いたものらしい。

コメント (11)
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