昨日勝山市の図書館へ白峰村史を返却に行って、先日も図書館の中で読んでいた「白山麓・出作りの研究」
牛首村の行方をもう一度読み返していました。
勝山と白峰の係わりは泰澄大師以前からのものであるのに、勝山史誌にはあまり詳しく記載されていません。
私の勉強不足のところも大いにあって、何処かで調べれば素晴らしい資料があるのではと 期待しています。
「白山全上記」には 谷村辺りよりして牛首辺諸山中出作り小屋と称するものあって、或は山上或は谷間に草茅を結ひ、夏秋の間ここに住して、畑を作り薪を採て世をわたるもの啻に千百にあらず。
冬春の際は深雪を避けて諸方の大在に出づ。福井に於て牛首乞食と称する者是なるべし。
その後、「白山全上記」に啓発され、天保4年〔1833〕福井藩士高田保浄が著した「続白山紀行」には、右に五升ケ原村なり、隠田5百石斗此所に有て、昔は1束之稲に米5升あり、上田成しか共今は庚地と成し由、此辺より水田見なれさる穀物あり、土人のいう、又兵衛草とて種を取、団子にして製し、食事とする〔中略〕、
左の方山上に牛首出村此所40俵斗作得ありし地なりしを、谷村より牛首村江50両之質入ニ致候由、此節谷より過分の金子を以取戻さんと致候得共、牛首ニ而得心させるにより、公事に成しとそ。とある
五所ケ原の家名が織田、加藤、、山口など白峰村にみられるものがほとんどであり、また彼らが白峰の林西寺、行勧寺の門徒であつたことから牛首村民が出作りし定住した集落であつたといえる。
ただ兵庫県から移住したと伝えられる、源野をはじめ、久保田、竹内、小林等は白峰村に見られない家名であり、また彼らが谷道場の門徒である事から牛首、谷両村民が入会に出作りして成立した集落であつたかも知れない。
現在は 「故郷納税」が流行っているそうであるが、出作りは収穫物を母村に持ち帰るのが原則であったのか
それに抗議して勝山藩は厳しく山年貢を取り立てた。それ以降「その地を取立山」と称するようになったといわれています。
このことからすれば、牛首村民が御所ガ原付近に出作りに出たのは、江戸前期に遡って成立していた集落であるかも知れない。
ただ、五所ケ原は「御所ケ原」とも書く様に、木地師との関係も知られ、中世に遡って成立していた集落であったかも知れない。
仙人の私見としては、水の便も良く、南に開けた穏やかな段丘地は、耕地としての条件もよく、そうとう昔から人が住み着いていたのではと思います。
御所ガ原を中心に、東には東山、西には西山があり、それは、都を思わせるロマンも感じさせられます。
我が源野氏の先祖は、祖母は、兵庫から来たとよく言っていました。
私は、坂井市の上兵庫か下兵庫の辺りからだろうと ばかり思っていましたが、この本をみて、兵庫県から来た事が分かりました。
何時代に来たのか興味が湧いて来ました。
御所ガ原弁といえるかどうかは分かりませんが、牛首を母村とする子孫の言葉、又谷の言葉、カッチマ弁や福井弁とも違います。
テレビなどの芸人さんが使う関西弁にはついて行けませんが、関西から東山に来られる家族連れの人たちが
家族同しでしている会話には、親しみを感じる事もあります。
祖母は17代と言っていましたので、私は19代目ですが、谷の村も御所ガ原も5月のフェーン現象の南風゛で何度も火災に遭い昔の資料は残っていません。
先人たちたが守って来た、厳しい自然の中で生き抜いて来た原点を探訪し、今生きている御所ガ原で生まれた人たち、北海道に渡った先人たちが大切に持っていった故郷の魂は、子孫たちに強く受け継がれていると聞きます。
この人たちにも協力してもらって、歴史的史実としての価値観とは違った、御所ガ原探訪記を作りたいと思っています。
牛首村の行方をもう一度読み返していました。
勝山と白峰の係わりは泰澄大師以前からのものであるのに、勝山史誌にはあまり詳しく記載されていません。
私の勉強不足のところも大いにあって、何処かで調べれば素晴らしい資料があるのではと 期待しています。
「白山全上記」には 谷村辺りよりして牛首辺諸山中出作り小屋と称するものあって、或は山上或は谷間に草茅を結ひ、夏秋の間ここに住して、畑を作り薪を採て世をわたるもの啻に千百にあらず。
冬春の際は深雪を避けて諸方の大在に出づ。福井に於て牛首乞食と称する者是なるべし。
その後、「白山全上記」に啓発され、天保4年〔1833〕福井藩士高田保浄が著した「続白山紀行」には、右に五升ケ原村なり、隠田5百石斗此所に有て、昔は1束之稲に米5升あり、上田成しか共今は庚地と成し由、此辺より水田見なれさる穀物あり、土人のいう、又兵衛草とて種を取、団子にして製し、食事とする〔中略〕、
左の方山上に牛首出村此所40俵斗作得ありし地なりしを、谷村より牛首村江50両之質入ニ致候由、此節谷より過分の金子を以取戻さんと致候得共、牛首ニ而得心させるにより、公事に成しとそ。とある
五所ケ原の家名が織田、加藤、、山口など白峰村にみられるものがほとんどであり、また彼らが白峰の林西寺、行勧寺の門徒であつたことから牛首村民が出作りし定住した集落であつたといえる。
ただ兵庫県から移住したと伝えられる、源野をはじめ、久保田、竹内、小林等は白峰村に見られない家名であり、また彼らが谷道場の門徒である事から牛首、谷両村民が入会に出作りして成立した集落であつたかも知れない。
現在は 「故郷納税」が流行っているそうであるが、出作りは収穫物を母村に持ち帰るのが原則であったのか
それに抗議して勝山藩は厳しく山年貢を取り立てた。それ以降「その地を取立山」と称するようになったといわれています。
このことからすれば、牛首村民が御所ガ原付近に出作りに出たのは、江戸前期に遡って成立していた集落であるかも知れない。
ただ、五所ケ原は「御所ケ原」とも書く様に、木地師との関係も知られ、中世に遡って成立していた集落であったかも知れない。
仙人の私見としては、水の便も良く、南に開けた穏やかな段丘地は、耕地としての条件もよく、そうとう昔から人が住み着いていたのではと思います。
御所ガ原を中心に、東には東山、西には西山があり、それは、都を思わせるロマンも感じさせられます。
我が源野氏の先祖は、祖母は、兵庫から来たとよく言っていました。
私は、坂井市の上兵庫か下兵庫の辺りからだろうと ばかり思っていましたが、この本をみて、兵庫県から来た事が分かりました。
何時代に来たのか興味が湧いて来ました。
御所ガ原弁といえるかどうかは分かりませんが、牛首を母村とする子孫の言葉、又谷の言葉、カッチマ弁や福井弁とも違います。
テレビなどの芸人さんが使う関西弁にはついて行けませんが、関西から東山に来られる家族連れの人たちが
家族同しでしている会話には、親しみを感じる事もあります。
祖母は17代と言っていましたので、私は19代目ですが、谷の村も御所ガ原も5月のフェーン現象の南風゛で何度も火災に遭い昔の資料は残っていません。
先人たちたが守って来た、厳しい自然の中で生き抜いて来た原点を探訪し、今生きている御所ガ原で生まれた人たち、北海道に渡った先人たちが大切に持っていった故郷の魂は、子孫たちに強く受け継がれていると聞きます。
この人たちにも協力してもらって、歴史的史実としての価値観とは違った、御所ガ原探訪記を作りたいと思っています。