勝山市史に記載されている谷村の字(あざ)名は168か所。
左は御所ケ原と東山地区。
御所ケ原は1から13まで、下御所原が1から3までまとめたアザ名になっている。
ちなみに源野家は本家の我が家を含めて3戸あったが
戸籍謄本同じ番地になっている。
左側上の方「上ケ原」(あげはら)と読む。
このさらに上に奥の河内があって10戸程度の屋敷跡が確認された。
これらは全て白峰から峠を越えて移り住んだ出作りの子孫。
炭焼き、焼き畑、ワサビ、蚕などで生計をたてていたと思われる。
江戸時代の後半からでお寺は白峰のにあるお寺。谷門徒ではない。
蛇麻目(じゃまめ)呼び方は知っていたが漢字で表すとよくわかる。
薬下(やくした)。小玉(こだま)「こ」のアクセントを強く言うのが
昔からの云い方。室目(もろめ)。市郎兵衛(いちろべ)という屋号もある。
助佐(すけざ)の屋号もある。釜屋(かまや)もある。
谷の(あざ)名の由来を解き明かしていくのも面白そう。
豊田自動織機OBの宮田さんに頂いた、
戦前の地図に道、川、家の場所などを書き入れて
様子を分かりやすくしたいと思っている。
こんな事をやっていると時間が足りないがボケ防止には
なるでしょう。
瀬田高から同窓会誌が届いた。
行けない分又少し送っておこうと思う。
明日からの雨の兆しか太陽の暈。